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婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


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第002話 名無しの令嬢と小さな名札

 見知らぬ娘として門を出るのは、思ったより静かだった。


 追いかけてくる人はいない。怒鳴り声も聞こえない。ベルレイン家の馬車が用意されることもなかった。


 当然だ。


 家系図から消えたわたしは、あの家の娘ではない。使用人たちにとっては、朝の屋敷から知らない女が出ていっただけである。


 ただ、胸の内側は静かではなかった。


 悲しい。悔しい。怖い。そのどれもが、少しずつ混じっていた。


 十年分の王太子妃教育も、母の名を継いだ誇りも、妹に名前を渡せと言われた朝も、すべて急に遠くなった。わたしは歩きながら、外套の胸元を押さえた。


 内側には、母が縫ってくれた白い名札がある。


 エレノア。


 家系図から消えても、この布だけは残っていた。母がわたし個人へ結んだものだからだろう。


「……よかった」


 小さく呟くと、少しだけ息がしやすくなった。


 王都の大通りには、昼前のにぎわいがあった。馬車の車輪が石畳を鳴らし、パン屋から焼きたての匂いが流れてくる。花売りの少女が籠を抱えて歩き、靴磨きの少年が客を呼び込んでいた。


 屋敷の外の世界は、わたしが消えたことなど知らない。


 それが少しありがたかった。


 まずは名簿院へ行くべきだと思った。


 抹名届は成立した。けれど、家の記録から消えた者は、七日のうちに名簿院で新しい扱いを決めなければならない。仮名を申請するか、修道院に入るか、平民籍を作るか。


 何も選ばなければ、わたしは本当にどこの名簿にも載らない人間になる。


 それは危うい。


 前世の窓口でも、身分証を失った人は苦労していた。住む場所、仕事、医療、相続。どれも、名前と記録があって初めて届く。


 この世界では、さらに深刻だ。名がなければ、祝福も契約も受け取れない。


 わたしは小さな銀貨袋を確認した。中身は少ない。家名に結ばれた口座は使えないだろう。今持っているのは、屋敷の外で自分の名ではなく、ただの手仕事として得たお金だけだった。


 それでも、パンを一つ買うくらいはできる。


 そう思って路地の角を曲がったとき、泣き声が聞こえた。


「だから、名前がない子には渡せないんだよ」


 低い声は、屋台の主人のものだった。


 木箱の前で、十歳ほどの男の子が立ち尽くしている。服は古いが、きれいに洗われていた。手には、裂けた布の名札を握っている。


「名前、あります」


 男の子は必死に言った。


「トマです。トマ・ミエルです」


「口で言われても駄目なんだ。救貧院の配給は名札と名簿を合わせる決まりだろう。こっちだって、勝手に渡したら怒られる」


 屋台には、丸いパンと豆の煮込みが並んでいた。王宮孤児院と下町の救貧院へ配る昼食だ。名簿の糸が屋台の柱に結ばれているのが見える。


 けれど、男の子の名札は中央から裂けていた。


 トマ、という名の半分がほどけている。このままでは、名簿が彼を認識しない。


「昨日、荷車に引っかけて破れたんです」


 トマは涙をこすった。


「直します。だから、今日だけ」


「直すなら名簿師に頼みな。ここでは無理だ」


 主人の声は冷たいというより、困っているようだった。規則を破れば、配給が止まる。そうなれば困るのは、トマだけではない。


 わたしは足を止めた。


 今日のわたしは、自分の名前すら失ったばかりだ。誰かの名に手を出せる立場ではない。


 そう思った。


 けれど、トマの名札からほどけた糸が、風に揺れていた。母の声が、遠くで聞こえた気がした。


 名前を守ることは、人を守ることよ。


「その名札を、見せてもらえる?」


 わたしが声をかけると、トマはびくりと肩を揺らした。


「お姉さん、名簿師なの?」


「まだ、そう名乗れるかは分からないわ」


 少なくとも、ベルレイン家の令嬢ではない。


「でも、名札の直し方は知っている」


 屋台の主人が眉をひそめた。


「勝手に直すと、後で面倒になるぞ」


「ええ。ですから、名簿の糸には触りません。名札の布だけを繕います」


 わたしは路地の端に腰を下ろし、裁縫箱を開けた。


 母から受け継いだ、小さな箱だ。中には針、糸切り鋏、白と黒の糸、そして名を縫うための薄青い糸が入っている。


 トマの名札は、何度も洗われて柔らかくなっていた。端には不器用な縫い跡がある。母親か、救貧院の誰かが直したのだろう。


「トマ・ミエル」


 わたしは声に出して呼んだ。


 男の子が顔を上げる。


「はい」


「あなたの名前は、誰がつけてくれたの?」


「母さんです」


「お母様は、あなたをどう呼んでいた?」


「トマ。急いでるときは、トマ坊って」


 少し恥ずかしそうに言ってから、トマは口を結んだ。


「母さんは、去年死にました」


「そう」


 わたしは針に糸を通した。


「では、あなたの名前はもう一人分、強いわね」


「強い?」


「呼んでくれた人がいる名前は、すぐにはほどけないの」


 裂けた布を合わせ、裏から小さく縫い留める。トマ、ミエル。文字の形をなぞるのではなく、その子が呼ばれたときの音を思い出すように糸を置く。


 前世の戸籍では、名前はインクで書かれていた。この世界の名前は、糸でできている。


 呼ぶ人の声、受け取る人の心、家や土地に結ばれた祝福。それらが絡み合って、ひとつの名になる。


 だから、名札を直すときは、字だけを整えても意味がない。


「トマ・ミエル」


 最後にもう一度呼ぶと、名札の糸が淡く光った。


 屋台の柱から伸びていた配給名簿の糸が、ぴんと張る。トマの手元に戻った名札と、木札の名簿がつながった。


 屋台の主人が目を丸くする。


「おい、本当に通ったぞ」


 トマは名札を胸に押し当てた。


「ありがとうございます!」


「どういたしまして」


 主人は咳払いをして、パンと豆の煮込みを包んだ。


「ほら、トマ。落とすなよ」


「はい!」


 トマは受け取った包みを抱えたまま、もう一度わたしを見た。


「お姉さんの名前は?」


 簡単な質問だった。けれど、答えられなかった。


 エレノア、と口にすれば、母の名札は反応するかもしれない。けれど、家系図から消えた名をこの場で名乗れば、どこに糸が伸びるか分からない。それに、今のわたしはもうベルレイン家のエレノアではない。


「まだ、決めていないの」


 正直に言うと、トマは不思議そうに首を傾げた。


「名前って、自分で決めてもいいの?」


「たぶん」


 わたしは少し笑った。


「今日は、そういう日にしたいわ」


「じゃあ、決まったら教えて」


「ええ」


 トマが走り去ると、屋台の主人が小さく頭を下げた。


「あんた、腕がいいんだな。名簿院の人か?」


「これから行くところです」


「そうか。なら気をつけな。今日は朝から、名簿院が騒がしいらしい」


「騒がしい?」


「貴族の家系図が一つ、変に白く抜けたんだとよ。役人が何人も走ってた」


 わたしは視線を落とした。


 早い。抹名の影響が、もう名簿院へ届いている。


「ありがとうございます」


 礼を言って歩き出そうとしたとき、背後から声がした。


「今の名直しは、正式な訓練を受けた者の手つきだった」


 振り返ると、黒い外套の青年が立っていた。


 背は高く、年は二十代半ばほど。銀灰色の髪を首元で結び、深い青の目をしている。装飾の少ない服装だが、生地は上等だった。


 胸元には、名簿院の小さな徽章がある。


 開いた本と、一本の糸。


「名簿院の方ですか」


「ノア・アステル。名簿院の院長代理をしている」


 アステル。


 その家名に、周囲の空気が少し変わった。アステル公爵家は、王家の傍流だ。歴代の名簿院長を多く出してきた家でもある。つまり、この人はただの役人ではない。


「無許可の名直しは、本来なら罰金の対象だ」


「申し訳ありません」


 わたしは頭を下げた。


「ですが、あの子は昼食を受け取れませんでした」


「見ていた」


 ノア様は屋台の方へ目を向ける。


「だから、今回は見なかったことにする。子どもの昼食を止めるために名簿院があるわけではない」


 その言い方は淡々としていたが、冷たくはなかった。少しだけ、肩の力が抜けた。


「君の名は?」


 また、その質問だった。


 わたしは唇を開きかけて、閉じた。名乗れる名前がない。それを自覚した瞬間、足元が頼りなくなった。


 ノア様は、急かさなかった。わたしの胸元ではなく、顔を見ている。貴族の多くは、相手の家名を探すように装飾や紋章を見る。けれど彼は、そうしなかった。


「抹名したばかりか」


 静かに言われ、息が止まった。


「どうして」


「名前の周りに、空白が残っている。無理に聞くべきではなかった。すまない」


 謝られるとは思わなかった。


「いえ」


「名簿院では、名を失った者に仮名を与えることができる。ただし、本人が望むなら、自分で選んでもいい」


 自分で選んでもいい。


 その言葉が、胸の中にゆっくり落ちていった。


 これまで、わたしの名前は生まれたときから決められていた。聖女の名。王太子妃候補の名。ベルレイン家の長女の名。


 重くて、誇らしくて、逃げられない名だった。


 でも、今なら。


 わたしは、路地の石畳を見た。


 ひび割れの隙間に、細い草が一本生えている。まっすぐではない。少し曲がって、それでも光の方へ伸びていた。


「リネア」


 声に出すと、胸の内側の白い名札がかすかに温かくなった。


「線、という意味の古い言葉です。一本の線から、もう一度始めたいので」


「リネア」


 ノア様がゆっくりと呼んだ。


 不思議だった。誰かに新しい名前で呼ばれるだけで、自分の輪郭が少し戻ってくる。


「よい名だと思う」


「ありがとうございます」


「リネア。君は、仕事を探しているか」


 急な問いに、わたしは瞬いた。


「はい。探す必要があります」


「名簿院の臨時職員を募集している。特に今朝から、人手が足りない」


「今朝から?」


 ノア様は懐から一枚の書類を出した。


 依頼書だった。けれど、宛名の欄が白く抜けている。


「ベルレイン伯爵家から、妙な届けが来た」


 わたしは黙って続きを待った。


「家系図から長女が消えたらしい。ところが、家の者はその長女の名前を思い出せない。存在したはずだと分かっているのに、誰も呼べない」


 紙の端が、風で揺れた。


「王宮も同じだ。王太子妃候補に関する儀式名簿が、いくつも白紙になっている」


「そうですか」


 声が震えなかったことに、自分で少し驚いた。


 ノア様はわたしを見ていた。


「君に無理に関われとは言わない。だが、名直しの腕は確かだ。名簿院には、そういう人間が必要だ」


「わたしが直せるものと、直さないものを選んでもいいですか」


「もちろん」


 即答だった。


 それが、わたしにはとても大事だった。


 わたしは、もう誰かの都合で名前を差し出したくない。けれど、トマのような子の名札がほどけるなら、見ないふりはしたくなかった。


「働きます」


 わたしは言った。


「ただし、婚約式の飾り名簿を直すつもりはありません」


 ノア様は一度だけ瞬きをした。それから、ほんの少し口元を緩めた。


「名簿院としても、優先順位は命に関わる名簿からだ」


「でしたら、同意します」


「では、行こう。リネア」


 新しい名前で呼ばれて、わたしは歩き出した。


 ベルレイン家の娘ではない。王太子の婚約者でもない。まだ何者でもない。けれど、わたしには名前ができた。


 その一歩は、思っていたより軽かった。

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