第001話 名前まで妹に譲れと言われました
「婚約者の座だけでなく、名前も妹に譲ってほしい」
父がそう言ったとき、わたしの皿には、まだ蜂蜜を塗ったパンが半分残っていた。
ベルレイン伯爵家の朝食室は、いつもどおり明るかった。磨かれた銀器。白い卓布。窓辺に飾られた薄紫の花。春の朝の光が、食器の縁をやわらかく照らしている。
だからこそ、今の言葉だけが妙に場違いだった。
「……お父様。もう一度、仰っていただけますか」
「聞こえなかったのか」
「聞こえました。意味が分かりませんでした」
父は面倒そうに息を吐いた。
向かいの席には、妹のリリアが座っている。薄桃色のドレスに、淡い金髪。誰が見ても可憐で、守ってやりたくなるような姿をしていた。隣には王太子ユリウス殿下がいる。
本来なら、わたしの婚約者だった人だ。
十年前、わたしはユリウス殿下の婚約者に選ばれた。理由は家柄でも、容姿でも、父の政治力でもない。わたしの名前が、エレノアだったからだ。
この国では、名はただの呼び名ではない。
貴族の名には家系の祝福が結ばれ、婚約契約や領地の守護、相続の権利まで細い糸のようにつながっている。とくに王太子妃となる女性には、古い聖女の名を継ぐ者が望ましいとされていた。
エレノア。
初代王妃の妹にして、名簿術を王国へ広めた聖女の名。
その名前を持つわたしは、生まれた時点で王太子妃候補として扱われた。
けれど、ユリウス殿下が愛したのは、わたしではなかった。
「リリアは殿下に選ばれた。これは家にとっても名誉なことだ」
父は低い声で続けた。
「だが、王太子妃となるには名の格が足りない。だから、お前の名をリリアに譲る。お前は別の名を名乗ればいい」
「別の名、ですか」
「修道院に入るなら、院名を授かれる。あるいは遠縁の娘として暮らすこともできる。生活には困らせん」
困らせない。父は本気でそう思っているようだった。
わたしは手元のパンを見た。蜂蜜が少しずつしみ込み、柔らかかったはずの表面が重たく沈んでいる。
「お父様。名前は、ドレスではありません」
わたしは静かに言った。
「妹に貸して、あとで返してもらえるものではないのです」
リリアが小さく肩を震わせた。
「お姉様、そんな言い方をしなくても……。わたし、お姉様の名前を粗末にするつもりはありません。大事にします。殿下の隣に立つのにふさわしい名にしますから」
悪気のない声だった。悪気がないから、余計に痛かった。
「リリア。あなたは、自分の名前を捨てても平気なの?」
「捨てるわけではありませんわ。わたしは、もっと大きな役目をいただくだけです」
「では、明日から誰もあなたをリリアと呼ばなくなっても?」
「それは……」
リリアは困ったようにユリウス殿下を見た。
殿下は、当然のように妹の手を取る。
「エレノア。君は昔から、名前や契約の細かいことにこだわりすぎる」
「細かいこと、ですか」
「そうだ。名は器だ。大切なのは中身だろう。リリアには人を惹きつける心がある。君にはそれがない」
胸の奥に、鈍い痛みが落ちた。
十年間、わたしは王太子妃教育を受けてきた。王宮の儀式名簿を整え、各家の祝福の綴りを確認し、季節ごとの配給契約が滞らないよう、名簿院へ何度も足を運んだ。
ユリウス殿下が遠征へ行くときには、北門守備隊の名を一人ずつ確認して、守護の糸が切れていないか見た。王宮の孤児院へ届けるパンの配給名簿も、わたしが直した。
地味な作業ばかりだった。
華やかな笑顔で人を慰めるリリアの方が、王太子妃らしく見えるのかもしれない。
それでも。名は器ではない。名は、人がどこにいるかを示す灯りだ。
わたしには前世の記憶がある。
日本という国で、市役所の戸籍窓口に勤めていた記憶だ。出生届、婚姻届、離婚届、死亡届。紙の上の名前が一文字違うだけで、手続きは進まなくなる。家族を亡くした人が、震える手で名前を書くのを何度も見た。
名前は、その人がいた証だった。
だから、今の世界に生まれ変わってからも、わたしは名前を軽く扱えなかった。
「殿下は、ご自分の名前を明日から他人が名乗っても平気でいらっしゃいますか」
ユリウス殿下の表情が険しくなる。
「王家の名を引き合いに出すな」
「わたしの名も、わたしにとってはひとつしかありません」
「君は王太子妃に向いていない」
「そうかもしれません」
その言葉は、思ったより素直に出た。
王太子妃になりたいと思ったことがなかったわけではない。幼いころは、殿下の隣に立つ未来を信じていた。けれど、いつからか殿下はわたしではなくリリアを見ていた。
わたしは見ないふりをして、名簿を整え続けていた。役目だけでも果たせば、いつか認めてもらえると思っていた。愚かだったと思う。
「エレノア」
父が書類を取り出した。
羊皮紙には、金の縁取りが施されている。中央に書かれている文字を見ただけで、胃のあたりが冷えた。
名譲り証。
本人の同意によって、名に結ばれた祝福と契約を別人へ移すための書類だ。めったに使われない。病で死にかけている跡継ぎが、家名を絶やさないために弟へ名を譲るとき。あるいは、戦場で行方不明になった者の名を、家がどうしても残したいとき。
生きている娘から、妹へ渡すものではない。
「署名しなさい」
父は言った。
「家のためだ」
リリアが潤んだ目でわたしを見る。
「お姉様。わたし、幸せになります。だから、どうか祝福してください」
ユリウス殿下も口を開いた。
「君には感謝している。王宮の名簿を整えてくれたことも、婚約者として務めを果たしたことも。だが、私が愛しているのはリリアだ」
感謝している。
その言葉を聞いて、胸の中にあった最後の期待が静かに沈んだ。
わたしは書類を受け取った。
父の顔が少し緩む。リリアも、ほっとしたように微笑んだ。
けれど、わたしは署名欄に筆を置かなかった。
「お父様。名簿院の書類箱をお借りします」
「何?」
「ベルレイン家の者なら、家系図に関する書類を確認できますよね」
父は怪訝そうに眉を寄せたが、止めなかった。わたしがようやく折れたと思ったのだろう。
朝食室の壁際には、家系図を保管する黒檀の箱が置かれている。伯爵家に生まれた者、婚姻によって入った者、亡くなった者。その名がすべて魔法の羊皮紙に綴られている。
わたしは箱を開けた。
幼いころ、母が教えてくれた。名前を守ることは、人を守ることよ、と。
母はわたしが八歳のときに亡くなった。けれど、母が縫ってくれた白い名札は、今もわたしの胸元の内側にある。
そこに刺繍された名は、エレノア。わたしの名だ。
箱の底に、一枚の薄い書類があった。
抹名届。
家の記録から、自分の名を消すための書類。
使う者はほとんどいない。なぜなら、これに署名すれば、家名に結ばれた権利も祝福もすべて失う。相続も、庇護も、居場所も消える。ただし、名は誰にも譲られない。白紙へ戻る。
「エレノア、何をしている」
父の声が硬くなった。
「名譲り証には署名しません」
「馬鹿なことを言うな」
「わたしの名前は、わたしのものです。家のものでも、殿下のものでも、妹のものでもありません」
わたしは抹名届を広げた。
羊皮紙の上には、まだ何も書かれていない。けれど、細い金の線がうっすらと浮かんでいた。家系図とつながっている証だ。
「エレノア!」
ユリウス殿下が立ち上がる。
リリアが青ざめた。
「お姉様、それではわたしが困ります」
「そうでしょうね」
わたしは筆を取った。
「でも、あなたが困らないようにするために、わたしが消える必要はありません」
名前を書く。
エレノア・ベルレイン。
最後の一画を書き終えた瞬間、羊皮紙が淡く光った。
家系図の上で、わたしの名を囲んでいた枝が震える。細い糸がほどけるように、文字が白く薄れていった。
父が椅子を鳴らして立ち上がる。
「やめろ!」
遅かった。
エレノア・ベルレインという文字は、家系図から消えた。
同時に、朝食室の空気が変わった。
壁に掛けられていたベルレイン家の紋章から、小さな白い花の刺繍が消える。わたしが十三歳のときに直した、食堂の祝福紋だ。銀器の底に刻まれていた管理名も薄れ、窓辺の花瓶に結ばれていた水避けの糸がぷつりと切れた。
リリアの髪を飾っていた真珠のピンが、床に落ちた。
それは、わたしが昨夜、妹のために名を整えておいた髪飾りだった。
「え……」
リリアが自分の髪に触れる。
「どうして」
父は家系図を凝視していた。そして、ゆっくりと顔を上げる。
その目には、怒りよりも先に戸惑いがあった。
「君は……誰だ」
静かな声だった。
ベルレイン伯爵は、わたしを見ていた。けれど、娘を見る目ではなかった。
「なぜ、我が家の朝食室に見知らぬ娘がいる」
リリアが震えた声で言う。
「お父様、違います。この方は……この方は……」
妹の唇が動く。
けれど、わたしの名前は出てこなかった。
ユリウス殿下がテーブルに手をついた。
「何をした」
「譲りませんでした」
わたしは抹名届を畳んだ。
「返しただけです。家に結ばれていたわたしの名を、白紙に」
「戻せ」
「戻せません。抹名は本人の署名で成立します。名簿院の規則でも、家長の取り消しはできません」
父が顔を真っ赤にした。
「貴様、何を勝手なことを!」
「貴様?」
わたしは少しだけ笑った。
「お父様。いいえ、ベルレイン伯爵。見知らぬ娘に対して、その呼び方は失礼ではありませんか」
父が言葉を詰まらせる。
わたしは椅子の背に掛けていた外套を取った。荷物は多くない。母の名札。小さな裁縫箱。自分で貯めた銀貨が入った袋。それだけだ。
扉へ向かう途中、リリアがわたしの袖を掴もうとした。
その指は、わたしの袖に触れる直前で止まった。
わたしが誰なのか分からない。でも、何かを失ったことだけは分かる。そんな顔だった。
「あなたの名前は、リリアよ」
わたしは妹に言った。
「それを大事にして」
リリアの目から、涙が落ちた。
それが悔し涙なのか、悲しみなのか、わたしには分からなかった。
玄関ホールへ出ると、使用人たちが不思議そうにこちらを見た。誰もわたしを止めない。ベルレイン家の長女は、もうこの屋敷に存在しないからだ。
門番は、わたしの顔を見ても礼をしなかった。
代わりに、困ったように尋ねた。
「お嬢さん、どちらから入られました?」
「さあ」
わたしは門の外へ出た。
春の風が、頬を撫でる。
「わたしにも、まだ分かりません」
背後で、ベルレイン家の門が閉まった。その音は思ったより軽かった。
名前を失ったわたしは、初めて、自分の足で屋敷の外へ出た。




