第004話 五倍の見積書
王宮からの呼び出し状は、金の縁取りがしてあった。
封蝋には王太子の紋章が押されている。たぶん、以前のわたしなら、それだけで背筋を伸ばした。封を切る前に手を洗い、机を片づけ、失礼のない返答を考えたと思う。
けれど今のわたしは、名簿院の臨時職員である。
王太子の紋章より先に、受付印の欄を見た。
「宛名が雑ですね」
わたしは書類を読んで、率直に言った。
宛名には、修復者リネア、とだけ書かれている。所属部署も、依頼番号も、作業範囲も、支払い責任者もない。急いで書かせたのだろう。命令文だけは立派だった。
「直ちに王宮へ参上し、婚約式典の祝福灯ならびに妃候補名簿を修復せよ」
わたしは隣の机にいるノア様へ書類を渡した。
「これは依頼ではなく、命令です」
「名簿院の職員に対しては命令権がない」
ノア様は封蝋を確認して、眉一つ動かさずに言った。
「ただし王家案件として受理することはできる。支払い責任者を王太子府にすればいい」
「妃候補名簿の修復は?」
「本人同意のない名譲りに関わる疑いがある。法務確認が済むまで凍結だ」
その言葉を聞いて、わたしは息を吐いた。
名簿院の職員になることの意味を、少しずつ実感している。個人であれば押しつぶされる命令も、組織の規定に乗せれば一枚の書類になる。書類になれば、返す言葉がある。
「では、祝福灯だけを対象に見積もります」
「急ぎ案件、夜間作業、王宮警備内作業、式典停止損害回避。五倍で妥当だ」
「材料費は別ですか」
「別だ。祝福灯は祭礼用の銀芯を使う」
ノア様の説明は淡々としていた。けれど、わたしの口元は少しだけ緩んでしまった。
昨日までわたしは、王宮のために無償で名簿を直していた。婚約者の務めだから。王太子妃候補の仕事だから。家の名誉だから。
そして誰も、それを仕事だとは思わなかった。
今は違う。
わたしの手は、わたしの労働だ。わたしの時間は、わたしのものだ。
それが正しく書面に載るだけで、胸の中の古い痛みが一つ剥がれ落ちるようだった。
「リネア」
ノア様が呼んだ。
「はい」
「見積書は君が書くといい」
「わたしがですか?」
「君の初めての正式案件だ。自分の仕事の値段を、自分で書く経験は早い方がいい」
自分の仕事の値段。
その言葉は、思っていたより重かった。
わたしは筆を取り、名簿院の書式に従って項目を並べた。祝福灯八十七基、点検二十六基、銀芯交換十二基、名糸接続三箇所。作業者一名、監督者一名。急ぎ案件加算五倍。王宮内警備拘束時間別途。
最後に署名欄へ、リネア、と書く。
そこへ、自分でも驚くほど静かな力が通った。
名簿院の受付係マルタが、見積書を覗き込んで目を丸くした。
「うわ。王太子府、怒りますよこれ」
「怒るのは無料です」
わたしが答えると、マルタは一瞬ぽかんとしてから、机に伏せるように笑った。
「リネアさん、昨日入った人とは思えない」
「昨日まで無料で働いていたので、反動かもしれません」
ノア様が咳払いをした。
叱られるかと思ったが、彼は小さく言った。
「よい反動だ」
その午後、王宮から最初の返答が来た。
支払い拒否。
理由は、王宮の名簿修復は王国全体の利益であり、名簿院は公的機関として当然協力すべき、というものだった。
ノア様は返答を読み、わたしに向かって一枚の紙を差し出した。
「二通目を書こう」
「内容は?」
「当然協力する。費用は五倍である、と」
わたしは頷いた。
二通目を書いた。
すると、今度は王太子府の副官が直接やって来た。金具のついた剣を腰に下げ、名簿院の受付で大声を上げる。
「王太子殿下の命令を拒むとは何事か!」
受付係のマルタは、にっこり笑った。
「拒んでおりません。お見積りをお送りしております」
「緊急事態だぞ!」
「緊急加算を適用済みです」
「殿下が修復者リネアを呼んでいる!」
「本人同意のない旧名照会・身柄移送は、昨日締結された雇用契約第九条により不可です」
副官は顔を赤くした。
「小娘一人を庇うために、王宮を敵に回すつもりか!」
その言葉で、名簿院の空気が変わった。
高い棚の上で、名札の糸がかすかに揺れる。古い建物全体が息を潜めたようだった。
ノア様が奥から出てきた。
「名簿院は王宮の敵ではない」
静かな声だった。
「だが、王宮の所有物でもない」
副官は彼を見て、わずかに怯んだ。
「アステル公爵」
「院内で大声を出すな。名が乱れる」
ノア様は見積書の控えを副官へ差し出した。
「祝福灯の修復は受ける。妃候補名簿は法務確認が済むまで受けない。修復者リネアは職員であり、本人の意思に反して王宮へ移送しない。以上だ」
「殿下は納得されない」
「納得は不要だ。規定に従え」
そのやり取りを、わたしは奥の作業室から聞いていた。
足が少し震えている。
庇われることに、慣れていない。
ベルレイン家では、わたしが折れることで家が丸く収まった。王宮では、わたしが余分な仕事を引き受けることで儀式が進んだ。わたしの意志は、いつも最後に置かれた。
今は違う。
わたしが行きたくないと言えば、誰かが規定を持って立ってくれる。
それが、どれほど心強いことか。
副官が帰ったあと、ノア様は作業室へ戻ってきた。
「すまない。騒がせた」
「いいえ。ありがとうございました」
「怖かったか」
「少し」
わたしは正直に言った。
「でも、怖いだけではありませんでした。わたしの署名が、ちゃんと効いているのだと思いました」
ノア様はわずかに目を細めた。
「署名は効く。だからこそ、軽くしてはいけない」
「はい」
その夕方、王太子府から三通目の返答が来た。
支払いを承認する。ただし作業者リネアは王太子殿下の前で身元を明らかにすること。
わたしは書類を見て、首を傾げた。
「条件が追加されています」
「不当条項だ」
「では?」
「差し戻しだな」
わたしは三通目の返答を書いた。
祝福灯修復費、五倍。
身元照会、不可。
妃候補名簿、凍結。
王宮内作業時の安全確保、王太子府負担。
最後に、担当者名を入れる。
リネア。
それだけを書いた瞬間、胸元の名札が温かくなった。
遠くの王宮で、誰かがわたしの名前を読んだのだろう。
もう、知らない娘ではない。
王宮が思い出せない令嬢でもない。
五倍の見積書を送ってきた名簿院職員、リネア。
その名前で、わたしは王宮に戻ることになった。




