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婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


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第017話 消えた子どもたち

 救貧院の門は、夜だというのに開いていた。


 嫌な予感がした。


 普段なら、子どもたちが寝静まる時間には木の閂が下り、門番の老人が小さな灯りを持っている。けれど、その夜は門番の姿がなかった。灯りもない。中庭には、洗濯物が風に揺れているだけだった。


「トマ!」


 わたしは思わず声を上げた。


 返事はない。


 ノア様が警備職員へ合図する。マルタは帳簿を抱え、名簿院の緊急保護印を準備していた。


 救貧院の食堂に入ると、院長のエダが床に座り込んでいた。


 年配の女性で、いつも厳しいが子どもたち思いの人だ。今は顔が真っ白で、手に破れた名簿を持っている。


「名簿院……?」


「何がありました」


 ノア様が尋ねる。


「夕食のあと、子どもたちが点呼に返事をしなくなりました。名前を呼んでも、誰も自分の名だと分からない。そうしたら、白い手袋の男が来て、名札を直してやると言って……」


「何人連れて行かれましたか」


「七人です」


 わたしの心臓が強く鳴った。


「トマ・ミエルは?」


 院長は名簿を見た。


 そこには、トマの名前が薄く滲んでいる。


「連れて行かれました」


 足元が揺れた。


 昨日、わたしが直した名札。母親がつけた名前。トマ坊と呼ばれていた記憶。それが、銀の箱に入れられていた。


 怒りで視界が赤くなる。


 ノア様がわたしの肩に手を置いた。


「リネア。呼吸」


 短い言葉で、我に返った。


 怒りで動いてはいけない。署名と同じだ。怒りは正しい。でも、怒りだけで針を持てば、糸を切る。


「連れて行かれた方向は?」


「白鳩通りの方です」


 ロアンが最初に指定した場所。


 三番倉庫。


 わたしたちはそこへ向かった。


 下町の夜は暗い。王宮の祝福灯とは違い、街角の灯りは弱く、路地には影が多い。けれど、名を失いかけた子どもたちの痕跡は、わずかに残っていた。


 薄く白い糸。


 誰かに引かれるように、石畳の上を伸びている。


「名糸が見えるのか」


 ノア様が驚いたように言った。


「はい。トマの名札を直したからかもしれません」


 トマの名前と、わたしの針が一度つながっている。その縁が、わずかな道しるべになっていた。


 三番倉庫は、川沿いにあった。


 扉には鍵がかかっていない。中から、子どもの小さな泣き声が聞こえた。


 ノア様が警備職員へ合図し、扉を開ける。


 倉庫の中には、七人の子どもが座らされていた。胸元の名札は外され、代わりに白い紙札がつけられている。


 商品番号。


 そこに名前はなかった。


 トマは奥にいた。目がぼんやりしている。わたしを見ても反応しない。


「トマ!」


 駆け寄ろうとした瞬間、倉庫の梁から声がした。


「名前を呼んでも無駄ですよ」


 ロアンの声。


 今度は本人かどうか分からない。梁の上に座る影は、白い手袋をはめている。


「名札を外せば、子どもはすぐに曖昧になる。孤児や救貧院の子は、呼んでくれる家族が少ないから特にね」


「返してください」


 わたしの声は低くなった。


「彼らの名前を」


「返す? 面白いことを言う。名前を守れない社会が、彼らをここまで落としたのです。私は価値を見つけただけですよ」


「価値とは」


「白の名簿を開くには、聖女名だけでは足りない。多数の弱い名を束ね、扉に流し込む必要があるという説がある」


 ノア様の顔が険しくなる。


「人柱か」


「古い言葉を使えばそうなります」


 ロアンは笑った。


「でも、名のない子どもが七人消えたところで、王都は困りません。困るのは、あなたのように名にこだわる人だけだ」


 その言葉が、わたしの中の何かに火をつけた。


 名のない子ども。


 違う。


 トマには名前がある。母親が呼んだ名がある。救貧院の食堂でパンを受け取る名がある。わたしが直した糸がある。


「困ります」


 わたしは針箱を開けた。


「わたしが困ります」


 ノア様が低く言う。


「リネア、無理をするな」


「無理ではありません。仕事です」


 わたしはトマの前に膝をついた。


「トマ・ミエル」


 返事はない。


 胸が痛む。


「トマ。お母様は、急いでいるときあなたを何と呼んだの?」


 トマの瞼がかすかに揺れた。


「……トマ、坊」


 小さな声。


 残っている。


 名前の芯は、まだ消えていない。


「そう。あなたはトマ・ミエル。パンを落とさないように両手で抱えて走る子。名札を破っても、自分の名前をちゃんと言えた子」


 わたしは薄青い糸を紙札に通した。


 商品番号を切る。


 白い紙が裂け、下からかすかな文字が浮かび上がる。


 トマ・ミエル。


 トマが息を吸った。


「お姉さん……リネアさん?」


「はい」


「俺、何して」


「帰りましょう」


 その瞬間、梁の上のロアンが動いた。


 赤い名隠し墨の瓶が落ちる。


 わたしは避けられない。


 けれど、ノア様がわたしの前に立った。瓶は彼の外套に当たり、赤い煙が広がる。


「ノア様!」


「続けろ」


 彼は咳き込みながらも、短剣で煙の糸を切った。


 マルタの受付鈴が鳴る。警備職員がロアンへ向かう。倉庫内は混乱したが、わたしは子どもたちの前を離れなかった。


 一人ずつ名を呼ぶ。


 ミア・ロッテ。左の頬にそばかす。歌が好き。


 エルド・ナフ。靴紐を結ぶのが苦手。妹の手を引く。


 サナ・ピリカ。いつもパンを半分残して、年下の子にあげる。


 名前は、ただの文字ではない。


 その人が世界と結んだ記憶だ。


 わたしはそれを一つずつ拾い上げた。


 最後の子の名札を結んだとき、倉庫の白い糸が一斉に切れた。


 ロアンの影が崩れる。


 警備職員が梁の上へ駆け上がったが、そこに本人はいなかった。残っていたのは、また白い手袋だけ。


 けれど今回は、手袋の内側に一片の名札が縫い込まれていた。


 ノア様がそれを剥がし、光にかざす。


 薄い文字。


 セラ。


 その名が、また現れた。


 ノア様の顔から血の気が引く。


「妹の名を、身代わりに使っている」


 低い声だった。


 怒りと痛みが混じっている。


 わたしは子どもたちを抱き寄せながら、倉庫の奥を見た。


 ロアンは逃げた。


 けれど、もうただの商人ではない。彼はセラの名を持っている。王妃の紋章ともつながっている。そして白の名簿を開くために、弱い名を束ねようとしている。


 トマがわたしの袖を握った。


「リネアさん、俺の名前、まだある?」


「あります」


 わたしははっきり言った。


「あなたの名前は、ちゃんとあります」


 その言葉を言いながら、わたしは自分にも言い聞かせていた。


 名前は奪われても、拾い直せる。


 でも、奪われる前に守る仕組みを作らなければならない。


 わたしの仕事は、名札を直すだけでは足りなくなっていた。

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