第016話 白鳩通り三番倉庫
ロアンとの接触は、名簿院の保護区で行われることになった。
白鳩通り三番倉庫ではない。名簿院の南側にある古い保管庫だ。外から見ると普通の倉庫だが、壁には記録用の糸が仕込まれている。中で交わされた契約文や署名の揺らぎを、後から検証できる。
わたしは買い手に興味を示したという体で、ロアンへ伝言を送った。
返事は早かった。
「賢明な判断です。夜八つ、名簿院南倉庫にて。余計な同席者は不要」
余計な同席者として、ノア様とマルタと警備職員二人が隠れて待機した。
マルタは大きい版の鈴を持っている。
「それ、本当に鈴ですか」
「受付鈴です」
「形が鐘に近いです」
「大きめの受付には大きめの鈴が必要です」
その余裕に救われた。
夜八つ、ロアンは一人で来た。
白い手袋。灰色の外套。銀の箱。前と同じ姿だったが、今日は笑みが深い。
「こんばんは、リネアさん。気が変わりましたか」
「条件を聞く気になっただけです」
「十分です」
彼は倉庫の中央にある机へ銀の箱を置いた。
箱の中には、金貨ではなく契約書が入っていた。厚い羊皮紙。赤い縁取り。名隠し墨の匂いが微かにする。
「買い手は誰ですか」
「守秘義務があります」
「相手の名前を知らずに、自分の名前を渡す人はいません」
「あなたは名前を渡すのではなく、白紙に戻った聖女名の使用権を譲るだけです」
「言葉を変えても、意味は同じです」
ロアンは楽しそうに笑った。
「では、こう言いましょう。買い手は、王国の未来を案じる高貴な方々です。白の名簿を開き、国を救いたいと願っている」
「国を救うためなら、本人同意は不要ですか」
「大義の前では、小さな同意が足を引っ張ることもあります」
わたしは手を強く握った。
怒りを表に出しすぎてはいけない。今は相手に契約書を出させ、署名痕跡を取ることが目的だ。
「契約内容を読ませてください」
「もちろん」
ロアンは契約書を広げた。
そこには、巧妙な言葉が並んでいた。
譲渡ではなく委任。名ではなく使用権。永久ではなく必要期間。ただし必要期間の定義は買い手が判断する。本人の記憶への影響は免責。旧名に結ばれた祝福の移転を承諾。異議申し立て権の放棄。
ひどい書類だった。
けれど、ひどさを隠す技術は高い。
「署名欄が二つありますね」
「現在名リネアと、旧名エレノア。両方必要です」
「旧名照会は禁止されています」
「あなたが自分で書くなら照会ではない」
「書きません」
「まだ読んでいる途中でしょう」
ロアンは椅子に腰かけた。
「リネアさん。あなたは賢い。だから分かるはずです。名は使われて初めて価値を持つ。あなたが聖女名を抱えたままでは、誰も救われない」
「救われる人がいるとして、失われる人は?」
「多少の犠牲は避けられません」
「その犠牲を、あなた自身の名前で払えますか」
ロアンの笑みが薄くなった。
「私は商人です。商品を売る側であって、商品ではない」
「人の名前を商品と呼ぶのですね」
「現実を言っただけです」
その瞬間、倉庫の壁の糸がかすかに光った。
記録が取れた。
わたしは契約書を閉じた。
「署名しません」
「そうでしょうね」
ロアンは意外そうではなかった。
「では、なぜここへ来たと思います?」
「わたしに罠を仕掛けるためですか」
「いいえ。あなたが罠を仕掛けていることを確認するためです」
銀の箱が突然開いた。
中から赤い煙が広がる。名隠し墨を蒸気にしたものだ。視界が滲み、喉が痛くなる。
隠れていた警備職員が動いた。
けれど、ロアンは笑ったまま契約書を火に近づけた。
「署名痕跡を取られる前に燃やします」
そのとき、大きな音が倉庫に響いた。
マルタの受付鈴だった。
鈴というより鐘、鐘というより警報。耳が痛くなるほどの音に、ロアンの手が一瞬止まった。
ノア様が飛び出し、契約書を奪う。
警備職員がロアンを押さえようとしたが、彼の外套がほどけた。中身は藁人形のような薄い影だった。
「身代わり名札!」
マルタが叫ぶ。
ロアン本人ではない。誰かの貸し名で作った仮の体だ。
影は床に崩れ、白い手袋だけが残った。
赤い煙が消えると、倉庫には焦げかけた契約書と、銀の箱が残っていた。
ノア様が契約書を確認する。
「署名痕跡は残っている。燃えきっていない」
「買い手は分かりますか」
彼は紙の端を光にかざした。
そこに、薄い紋章が浮かぶ。
白百合と金の糸。
王妃の紋章だった。
わたしは息を止めた。
「王妃陛下が?」
「まだ断定できない。紋章の偽造もあり得る」
ノア様の声は冷静だったが、顔は険しい。
マルタが銀の箱を開ける。
中には、小さな名札がいくつも入っていた。
子どもの名札だ。
トマ・ミエル。
その名前を見た瞬間、血の気が引いた。
「トマ……」
昨日まで元気にパンを受け取っていた男の子の名札が、銀の箱の中で白くなりかけている。
ロアンは、わたしだけを狙っていたのではない。
名前を売る商人は、弱い人から順番に名を集めていた。
わたしは名札を握りしめた。
「ノア様」
「分かっている」
彼の声が低くなる。
「救貧院へ向かう」
白鳩通り三番倉庫ではなく、名簿院の南倉庫に残された子どもの名札。
罠を仕掛けたはずのわたしたちは、逆に突きつけられた。
名前を守る仕事は、もう王宮や貴族だけの話ではない。
下町の子どもたちの命に、直接つながっている。




