表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/25

第016話 白鳩通り三番倉庫

 ロアンとの接触は、名簿院の保護区で行われることになった。


 白鳩通り三番倉庫ではない。名簿院の南側にある古い保管庫だ。外から見ると普通の倉庫だが、壁には記録用の糸が仕込まれている。中で交わされた契約文や署名の揺らぎを、後から検証できる。


 わたしは買い手に興味を示したという体で、ロアンへ伝言を送った。


 返事は早かった。


「賢明な判断です。夜八つ、名簿院南倉庫にて。余計な同席者は不要」


 余計な同席者として、ノア様とマルタと警備職員二人が隠れて待機した。


 マルタは大きい版の鈴を持っている。


「それ、本当に鈴ですか」


「受付鈴です」


「形が鐘に近いです」


「大きめの受付には大きめの鈴が必要です」


 その余裕に救われた。


 夜八つ、ロアンは一人で来た。


 白い手袋。灰色の外套。銀の箱。前と同じ姿だったが、今日は笑みが深い。


「こんばんは、リネアさん。気が変わりましたか」


「条件を聞く気になっただけです」


「十分です」


 彼は倉庫の中央にある机へ銀の箱を置いた。


 箱の中には、金貨ではなく契約書が入っていた。厚い羊皮紙。赤い縁取り。名隠し墨の匂いが微かにする。


「買い手は誰ですか」


「守秘義務があります」


「相手の名前を知らずに、自分の名前を渡す人はいません」


「あなたは名前を渡すのではなく、白紙に戻った聖女名の使用権を譲るだけです」


「言葉を変えても、意味は同じです」


 ロアンは楽しそうに笑った。


「では、こう言いましょう。買い手は、王国の未来を案じる高貴な方々です。白の名簿を開き、国を救いたいと願っている」


「国を救うためなら、本人同意は不要ですか」


「大義の前では、小さな同意が足を引っ張ることもあります」


 わたしは手を強く握った。


 怒りを表に出しすぎてはいけない。今は相手に契約書を出させ、署名痕跡を取ることが目的だ。


「契約内容を読ませてください」


「もちろん」


 ロアンは契約書を広げた。


 そこには、巧妙な言葉が並んでいた。


 譲渡ではなく委任。名ではなく使用権。永久ではなく必要期間。ただし必要期間の定義は買い手が判断する。本人の記憶への影響は免責。旧名に結ばれた祝福の移転を承諾。異議申し立て権の放棄。


 ひどい書類だった。


 けれど、ひどさを隠す技術は高い。


「署名欄が二つありますね」


「現在名リネアと、旧名エレノア。両方必要です」


「旧名照会は禁止されています」


「あなたが自分で書くなら照会ではない」


「書きません」


「まだ読んでいる途中でしょう」


 ロアンは椅子に腰かけた。


「リネアさん。あなたは賢い。だから分かるはずです。名は使われて初めて価値を持つ。あなたが聖女名を抱えたままでは、誰も救われない」


「救われる人がいるとして、失われる人は?」


「多少の犠牲は避けられません」


「その犠牲を、あなた自身の名前で払えますか」


 ロアンの笑みが薄くなった。


「私は商人です。商品を売る側であって、商品ではない」


「人の名前を商品と呼ぶのですね」


「現実を言っただけです」


 その瞬間、倉庫の壁の糸がかすかに光った。


 記録が取れた。


 わたしは契約書を閉じた。


「署名しません」


「そうでしょうね」


 ロアンは意外そうではなかった。


「では、なぜここへ来たと思います?」


「わたしに罠を仕掛けるためですか」


「いいえ。あなたが罠を仕掛けていることを確認するためです」


 銀の箱が突然開いた。


 中から赤い煙が広がる。名隠し墨を蒸気にしたものだ。視界が滲み、喉が痛くなる。


 隠れていた警備職員が動いた。


 けれど、ロアンは笑ったまま契約書を火に近づけた。


「署名痕跡を取られる前に燃やします」


 そのとき、大きな音が倉庫に響いた。


 マルタの受付鈴だった。


 鈴というより鐘、鐘というより警報。耳が痛くなるほどの音に、ロアンの手が一瞬止まった。


 ノア様が飛び出し、契約書を奪う。


 警備職員がロアンを押さえようとしたが、彼の外套がほどけた。中身は藁人形のような薄い影だった。


「身代わり名札!」


 マルタが叫ぶ。


 ロアン本人ではない。誰かの貸し名で作った仮の体だ。


 影は床に崩れ、白い手袋だけが残った。


 赤い煙が消えると、倉庫には焦げかけた契約書と、銀の箱が残っていた。


 ノア様が契約書を確認する。


「署名痕跡は残っている。燃えきっていない」


「買い手は分かりますか」


 彼は紙の端を光にかざした。


 そこに、薄い紋章が浮かぶ。


 白百合と金の糸。


 王妃の紋章だった。


 わたしは息を止めた。


「王妃陛下が?」


「まだ断定できない。紋章の偽造もあり得る」


 ノア様の声は冷静だったが、顔は険しい。


 マルタが銀の箱を開ける。


 中には、小さな名札がいくつも入っていた。


 子どもの名札だ。


 トマ・ミエル。


 その名前を見た瞬間、血の気が引いた。


「トマ……」


 昨日まで元気にパンを受け取っていた男の子の名札が、銀の箱の中で白くなりかけている。


 ロアンは、わたしだけを狙っていたのではない。


 名前を売る商人は、弱い人から順番に名を集めていた。


 わたしは名札を握りしめた。


「ノア様」


「分かっている」


 彼の声が低くなる。


「救貧院へ向かう」


 白鳩通り三番倉庫ではなく、名簿院の南倉庫に残された子どもの名札。


 罠を仕掛けたはずのわたしたちは、逆に突きつけられた。


 名前を守る仕事は、もう王宮や貴族だけの話ではない。


 下町の子どもたちの命に、直接つながっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ