第015話 リリアからの手紙
リリアから手紙が届いた。
封筒には、ベルレイン家の紋章が押されていなかった。代わりに、淡い桃色の糸で小さな花が縫いつけられている。差出人の欄には、リリア・ベルレインと丁寧な文字で書かれていた。
わたしはしばらく、その名前を見つめた。
リリア。
妹の名。
幼いころ、庭で転んで泣いた彼女を、わたしは何度もその名で呼んだ。リリア、大丈夫よ。リリア、立てる? リリア、こっちを見て。
その記憶はまだある。
抹名は、わたしと家の記録を断った。けれど、わたし自身の心からすべてを消すものではない。
手紙を開くと、短い文章が並んでいた。
「名簿院職員リネア様。突然の手紙をお許しください。王宮と父が、わたしの登録名を変更しようとしているようです。わたしはリリアとして登録されたいと望んでいますが、書類には別の名が仮記載されています。自分の名を守るためには、どうすればよいでしょうか」
最後に、小さく追伸があった。
「あなたがどなたであったか、わたしは思い出せません。でも、あなたがわたしの名前を大事にしてと言ってくれたことは覚えています」
わたしは手紙を畳んだ。
すぐには返事を書けなかった。
リリアを助けたいのか。助けたくないのか。自分でも分からない。彼女はわたしから婚約者も名前も奪おうとした。無邪気に、悪気なく、けれど確かに。
同時に、彼女は今、自分の名を奪われかけている。
わたしはノア様に手紙を見せた。
「これは正式な相談として扱えますか」
「本人からの名簿相談だ。扱える」
「わたしが担当すると、私情が入ります」
「入るだろうな」
彼はあっさり認めた。
「外すべきでしょうか」
「君が望むなら。だが、私情があることと、不公正であることは同じではない。自覚して記録し、必要なら第三者確認を入れればいい」
「第三者確認」
「私が見る。マルタも記録する」
それなら、できるかもしれない。
わたしはリリアへ返事を書いた。
本人同意のない登録名変更は無効であること。すべての書類の写しを取ること。署名欄に空白を残さないこと。圧力を受けた場合は、名簿院へ保護申請ができること。
最後に、少し迷ってから一文を加えた。
「ご自身の名前を声に出して確認してください。誰かの前で言いにくい名は、まだあなたのものではありません」
署名は、リネア。
翌日、リリアは名簿院へ来た。
以前より質素なドレスを着ていた。髪飾りはない。淡い金髪をリボンでまとめ、顔には疲れが見える。
受付で彼女は頭を下げた。
「名簿相談をお願いいたします」
その声は震えていたが、逃げなかった。
応接室で、リリアは書類を広げた。
王宮が用意した妃候補仮登録票。そこには、リリア・ベルレインの名の上に薄く別の名が重ねられていた。
エレノア。
見た瞬間、胸元の名札が熱を持った。
「これは、誰が」
「王太子府の書記官です。殿下は、古例に従うための仮記載だと」
「あなたは署名しましたか」
「いいえ。怖くて、持ち帰りました」
「正しい判断です」
わたしは書類を鑑定した。
薄い名隠し墨が使われている。エレノアの文字は正式な登録ではないが、何度も見せられれば、リリアの名に染み込んでいく仕組みだ。意図的だ。悪質である。
リリアは両手を膝の上で握っていた。
「わたし、以前は本当に思っていたのです。名前くらい、譲っていただけるものだと。お姉様は強くて、何でもできるから、名前を変えても大丈夫だと」
わたしは黙って聞いた。
「でも、自分の書類に別の名が重なっているのを見たら、怖くなりました。わたしが薄くなるようで。リリアだった時間が、誰にも必要とされていないようで」
涙がこぼれる。
「わたし、ひどいことをしました」
謝罪の言葉を聞く準備ができていたわけではない。
けれど、その言葉はユリウス殿下のものとは違った。許されるためではなく、自分がしたことの痛みをやっと理解した人の声だった。
「リリア様」
わたしは職員として呼んだ。
「あなたの登録名は、あなたが決めてください」
「はい」
「この書類は無効化できます。ただし、王宮と対立することになります」
「分かっています」
「王太子妃候補としての立場が危うくなるかもしれません」
リリアは目を伏せた。
長い沈黙のあと、彼女は言った。
「わたし、殿下を愛していると思っていました。でも、殿下の隣に立つために、わたしでなくなる必要があるなら、その愛はわたしをどこへ連れていくのでしょう」
わたしは答えなかった。
それは、彼女自身が考えるべき問いだ。
リリアは顔を上げた。
「無効化をお願いします。リリア・ベルレインとして」
「承りました」
わたしは名簿修正用の薄青い糸を取り出した。
彼女の名の上に重なったエレノアの仮文字を、慎重に剥がす。無理に引けば、リリアの文字まで傷つく。時間をかけて、一本ずつほどく。
リリアは泣いていた。
わたしも、少し泣きそうだった。
妹を救うことは、過去のわたしを救うことではない。傷が消えるわけでもない。
それでも、名前を奪われる怖さを知った人を、見捨てることはできなかった。
「リリア・ベルレイン」
最後に彼女の名を呼ぶ。
「はい」
リリアは、はっきり答えた。
その瞬間、書類の上で彼女の名前が淡く光った。
細く弱かった糸が、自分の形を取り戻す。
「これで、仮記載は無効です」
わたしは書類を渡した。
「この写しを保管してください。今後、同様の書類に署名を求められた場合は、すぐ名簿院へ」
「ありがとうございます」
リリアは深く頭を下げた。
そして、迷うように唇を開いた。
「あなたに、謝ってもいいですか」
わたしは少し考えた。
「聞くことはできます」
「許してほしいとは言いません。わたし、あなたの名前を奪おうとしました。あなたがどれほど怖かったか、今になって少しだけ分かりました。本当に、ごめんなさい」
部屋は静かだった。
わたしは胸元の名札を押さえた。
許すには、まだ遠い。
でも、謝罪を聞くことはできた。
「受け取りました」
わたしは言った。
「許すかどうかは、まだ分かりません」
「はい」
「でも、あなたがリリアとして生きようとしていることは、よいことだと思います」
リリアは泣きながら笑った。
その笑顔は、幼いころ庭で見た妹のものに少し似ていた。
帰り際、彼女は言った。
「わたし、殿下と話します。自分の名前で」
「お気をつけて」
「はい。リネア様」
初めて、妹がわたしの新しい名前を呼んだ。
その響きは少し痛くて、少し温かかった。




