表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/21

第018話 自分で署名する日

 救貧院の子どもたちは、名簿院の保護室で一晩を過ごした。


 全員、名前は戻った。けれど、名札を外されていた時間の影響は残っていた。トマは何度も自分の胸元を確かめ、ミアは眠る前に自分の名前を三回唱えた。小さなサナは、朝になってもわたしの袖を離さなかった。


 名前を失いかけることは、子どもにとって夜より深い闇なのだと知った。


 わたしは彼らの仮保護名簿を作りながら、あることに気づいた。


 救貧院の名簿は、院長が管理している。配給屋台は、名簿に載った名札を確認する。子どもたちは、その名札を持っている。けれど、彼ら自身が自分の名前を署名する仕組みはなかった。


 名札をなくしたり、破かれたり、奪われたりすれば、彼らはすぐに名簿の外へ落ちる。


 それは子どもだけではない。


 平民、移民、使用人、兵士。名簿に載る人は多いが、自分の名を自分で確認する機会は少ない。貴族は家系図があり、王宮には儀礼名簿がある。けれど、弱い立場の人ほど、名を他人に管理されている。


「自署名制度?」


 ノア様は、わたしの提案書を読んでそう言った。


「はい」


 わたしは緊張しながら頷いた。


「配給名簿や救貧院名簿に載っている人が、自分の名を定期的に自分で署名、または読み上げる日を設けます。文字が書けない人は、本人の声紋と名札の糸で確認します。幼い子どもは、本人が名に反応することを職員が記録します」


「つまり、名簿の管理者だけでなく、本人側にも名の控えを持たせる」


「はい。前世では、本人確認書類の再発行に複数の証明が必要でした。この世界でも、名札一枚に頼るのは危険です」


 前世の言葉が出てしまったが、ノア様はもう驚かなかった。


 彼には、わたしが別の世界の記憶を持つことを少しだけ話してある。窓口で名前を扱っていたこと。紙の手続きが、人の生活を支えること。彼は信じるとも信じないとも言わず、ただ「君の知識として扱う」と言った。


 それがありがたかった。


「制度としては有効だ」


 ノア様は提案書に印をつけた。


「だが、実施には人手と費用がかかる。王宮が渋る」


「王宮予算ではなく、名簿院の緊急保護費から始められませんか。救貧院三箇所で試験的に」


「できる」


「それから、北門守備隊にも協力をお願いできます。兵士たちは自分の名札管理に関心が高いはずです」


「グレン隊長なら乗るだろう」


 ノア様は少しだけ笑った。


「君は味方を使うのがうまくなった」


「使うというより、お願いです」


「お願いも、正しい相手に出せば力になる」


 マルタは提案書を読んで、目を輝かせた。


「これ、受付が楽になりますよ。名札をなくした人に“自署控えありますか”って聞けるようになる」


「仕事が増えるのでは」


「増えます。でも、揉めごとが減るならいいです」


 その日から、名簿院は救貧院で自署名日の試験を始めた。


 最初の日、子どもたちは不安そうだった。机に並んだ木札、薄青い糸、名前を書くだけの紙。文字を書けない子は、絵を描いてもいい。自分の名前を呼ばれて返事をするだけでもいい。


 トマは大きな字で、自分の名前を書いた。


 トマ・ミエル。


 少し歪んでいたが、強い字だった。


「これで、俺の名前、二つになる?」


「控えが一つ増えるわ」


「じゃあ、また取られても戻れる?」


「戻れる可能性が高くなる」


「よかった」


 その言葉が、胸に刺さった。


 子どもに、また取られることを前提に安心させなければならない世界。それを変えたいと思った。


 サナは字が書けなかったので、自分の名前の横に小さな丸いパンを描いた。ミアは歌を一節歌い、その音を糸に記録した。エルドは妹の名前も一緒に書こうとして、わたしに止められた。


「妹さんの名前は、妹さんが書くか返事をするの」


「でも、妹はまだ小さい」


「小さくても、自分の名前は本人のものよ」


 エルドは真剣な顔で頷いた。


 その様子を見ていた院長エダが、ぽつりと言った。


「今まで、私は子どもたちを守っているつもりでした。名簿も、配給も、寝床も。でも、名前まで私が預かりすぎていたのかもしれません」


「守るために必要だったのだと思います」


「ええ。でも、守ることと握りしめることは違うのですね」


 その言葉は、わたしにも刺さった。


 名前を守るとは、誰かの手の中に閉じ込めることではない。本人が持てるように支えることだ。


 自署名日の記録は、すぐに下町で噂になった。


 名簿院が子どもに自分の名前を書かせている。名札を奪われても戻れるようにしている。修復者リネアが、パンの絵でも名前として扱った。


 翌週には、救貧院の前に大人たちの列ができた。


 洗濯女、荷運び、靴磨き、老いた職人、移民の母親。彼らは自分の名札を握りしめていた。


「私たちも、自分の名前の控えを作れますか」


 そう聞かれたとき、わたしは言葉に詰まった。


 制度としてはまだ試験段階。人手も足りない。王宮の承認もない。


 でも、目の前の人たちは、自分の名前を自分で守りたいと願っている。


 ノア様はわたしの隣で言った。


「名簿院として、臨時受付を開く」


「よろしいのですか」


「必要な仕事だ」


 マルタが受付机を運び出した。


「では、並んでください。怒鳴る人は最後尾に戻します。名前は大事ですが、順番も大事です」


 下町の人々が笑った。


 その笑いの中で、わたしは受付に座った。


「お名前をどうぞ」


 最初の女性が、自分の名を言う。


「ミラ・コットです」


「では、こちらへご自身で書ける範囲で」


 ミラは震える手で名前を書いた。


 その文字は美しくなかった。けれど、彼女のものだった。


 自分で名前を書く。


 ただそれだけのことが、こんなにも人の背を伸ばす。


 夕暮れまでに、百二十七人の自署控えができた。


 名簿院の職員たちは疲れ切ったが、誰も不満を言わなかった。むしろ、いつもの書類仕事とは違う熱があった。


 帰り際、トマがわたしに小さな紙を渡した。


「リネアさんの名前も、俺が書いた」


 紙には、大きく歪んだ字でリネアと書かれていた。


「これは?」


「リネアさんの名前の控え。リネアさんも、取られないように」


 わたしはその紙を受け取った。


 涙が出そうになった。


「ありがとう」


 トマは照れくさそうに笑った。


 その小さな紙を、わたしは母の名札の隣にしまった。


 エレノアと、リネア。


 母が縫ってくれた名と、子どもが書いてくれた名。


 どちらも、わたしを支えている。


 この日を境に、下町の人たちはリネアの名を知った。


 王宮が思い出せない令嬢としてではなく、自分の名前を書く場所を作った名簿師として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ