第010話 閉架書庫の聖女
名簿院の閉架書庫は、地下にあった。
石階段を降りるたび、空気がひんやりと変わる。壁に並んだ小さな灯りは、誰かの名を燃料にしているわけではない。無名灯と呼ばれるもので、火打ち石と油だけで灯る。
「名を扱う場所ほど、名に頼りすぎてはいけない」
ノア様が言った。
「便利だからと何でも祝福に結べば、名が傷んだときに生活が止まる」
「ベルレイン家のように」
「そうだ」
少しも遠慮のない答えだった。
けれど、わたしはそれでよかった。あの家が失敗例であることを、変に慰められるよりずっといい。
閉架書庫の扉には、鍵穴が三つあった。
ノア様は自分の署名札を一つ目に、院長代理の職印を二つ目に入れた。三つ目は空いたまま。
「三つ目は?」
「閲覧者本人の同意だ」
彼は薄い木札を差し出した。
「リネア。閉架書庫で知る情報は、君を守ることもあれば危険に晒すこともある。それを理解したうえで入るか」
「入ります」
「自分の名で?」
「はい」
わたしは木札にリネアと書いた。
鍵穴へ差し込むと、扉が静かに開く。
その仕組みに、少し感動した。
「本人同意を鍵にするのですね」
「聖女エレノアが残した規則だと言われている」
書庫の中は、想像していたより明るかった。高い棚には古い羊皮紙が並び、中央の机には布で覆われた写本が置かれている。埃っぽい匂いの中に、乾いた花の香りが混じっていた。
ノア様は一冊の記録を開いた。
「これが、聖女エレノアに関する最古の写しだ」
文字は古語だったが、名簿術の基本を学んでいたわたしには読めた。
聖女エレノア。
初代王妃の妹。戦乱の時代に名簿術を編み、人々の名前を記録した。焼かれた村、失われた家族、身元の分からない子どもたち。彼女は彼らの名を拾い、配給や保護や埋葬につなげた。
ここまでは、わたしが王太子妃教育で習った聖女像と同じだった。
けれど、続きが違った。
「王は、総名簿を王権の証としようとした。聖女はこれを拒んだ。名は王のものにあらず。家のものにもあらず。本人が名乗り、他者が呼び、共同体が認めることで生きるものなり」
わたしはその一文を読み、息を止めた。
「本人が名乗り、他者が呼び、共同体が認める」
「名簿院の基本原則だ。今の王宮では、ほとんど儀礼文としてしか扱われていないが」
ノア様の声には苦さがあった。
「聖女は王に従わなかったのですか」
「従わなかった。だから晩年は王宮から遠ざけられた。王家の記録では、彼女は献身的な聖女として美化されている。だが、名簿院の記録では違う」
ページをめくると、手紙の写しがあった。
聖女エレノアが、名簿院初代院長へ宛てたものらしい。
「もしわたしの名が、いつか誰かを縛る鎖となるならば、その者はわたしの名を捨ててよい。名を守るために、名を失うこともまた自由である」
視界が滲んだ。
知らなかった。
王太子妃候補として教えられた聖女エレノアは、王家に仕えた理想の女性だった。家と国のために尽くし、名を捧げた偉人だった。
けれど本当の彼女は、名前を王の所有物にしないために戦った人だった。
「わたしは、彼女の名を汚したのでしょうか」
気づけば、そう尋ねていた。
「家系図から消して、白紙に戻して。聖女の名を捨てて」
「逆だ」
ノア様は即答した。
「君は、聖女の規則に従った。自分の名を守るために、自分で選んだ」
胸元の名札が熱くなった。
母は、このことを知っていたのだろうか。だから、わたしに名前を守ることは人を守ることだと教えてくれたのだろうか。
さらに記録を読むと、白の名簿についても書かれていた。
白の名簿は、国中の名前を支配する道具ではなかった。戦乱で名前を失った人々を、本人の証言と周囲の記憶から再び社会へつなぐための救済名簿だった。
その最初のページには、聖女エレノア自身の署名があり、扉の鍵となっている。
ただし、重要な注釈があった。
「鍵は名そのものにあらず。名を守る意志に宿る」
わたしは声に出して読んだ。
「つまり、聖女名を持っていれば誰でも開けられるわけではない?」
「その可能性が高い」
「なら、リリアに譲っても開かなかったかもしれません」
「王宮の一部は、そうではないと思っている。名さえ移せば鍵も移る、と」
名を器だと言ったユリウス殿下の顔が浮かんだ。
器なら、中身を移せば使える。そう考える人には、白の名簿は危険すぎる。
そのとき、書庫の奥で小さな音がした。
紙が擦れるような音。
ノア様がすぐに灯りを消した。
暗闇の中で、わたしは息を殺す。
棚の向こうに、人影があった。
細い指が、古い記録の背をなぞっている。白い手袋。昨日の商人ロアンと同じような手袋だった。
「誰だ」
ノア様の声が低く響く。
人影は走った。
ノア様が追う。わたしも机の上の写本を抱え、後を追った。
人影は閉架書庫の裏扉へ向かった。そこには普段使われない搬入口がある。鍵はかかっているはずだった。
けれど、扉は開いていた。
人影は外へ出る直前、こちらを振り返った。
顔は薄布で隠れている。
ただ、胸元に王宮書記官の徽章が見えた。
「白の名簿は、王に返される」
それだけ言って、人影は闇へ消えた。
ノア様は追わなかった。
扉の前で足を止め、床に落ちた一枚の紙を拾う。
それは、聖女エレノアの手紙の写しだった。
ただし、最後の一文が赤いインクで塗りつぶされている。
名は王のものにあらず。
赤で消されたその文字を見て、わたしは理解した。
これは、ただの婚約破棄の後始末ではない。
誰かが、聖女の思想そのものを消そうとしている。
そしてそのために、わたしの名前が必要なのだ。




