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婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


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第009話 名を売る商人

 名簿院の裏門に、見知らぬ男が立っていた。


 夕暮れ時だった。作業を終えた職員たちが帰り、空の色が藍色へ沈み始めるころ。わたしは北門守備隊からもらった毛布を宿直室へ運んでいた。


 男は、石壁にもたれていた。


 高級そうな外套を着ているが、貴族の紋章はない。手袋の指先だけがやけに白く、目は笑っていなかった。


「リネアさんですね」


 男は言った。


 わたしは足を止めた。


「どちら様ですか」


「ただの商人です。名を扱っております」


 名を扱う。


 その言葉だけで、警戒すべきだと分かった。


 正規の名簿師は、名を扱うとは言わない。名を記録する。名を守る。名を直す。言い方には、その人の考えが出る。


「名簿院へのご用件なら、受付時間内に正門へお願いします」


「いえ、あなた個人への話です」


 男は小さな銀の箱を取り出した。


「あなたが白紙に戻した聖女名を、買いたい方がいます」


 背筋が冷えた。


「お帰りください」


「金額を聞く前に?」


「聞く必要がありません」


「一生遊んで暮らせる額ですよ。ベルレイン家も、王太子も、あなたを正当に扱わなかったのでしょう。ならば、名前くらい売ってしまえばいい」


 男の声は柔らかかった。


「どうせもう名乗れない名です。誰かが使うなら、代金を受け取った方が賢い」


 わたしは毛布を抱え直した。


 怒りより先に、吐き気がした。


 名を売る。


 名を商品にする。


 それは、父たちがしようとしたことと同じだった。


「あなたのお名前は?」


 わたしが尋ねると、男は片眉を上げた。


「私ですか」


「はい。商談なら、まず名乗るべきです」


「名は多い方でして。今夜はロアンとお呼びください」


「では、ロアン様。わたしの返答は明確です。売りません」


「もったいない」


「わたしの名前は、在庫ではありません」


 男の目が細くなった。


「あなたはまだ分かっていない。聖女名エレノアは、ただの個人名ではない。王国の古い扉を開ける鍵です。持っていても使えないなら、持つ意味がない」


「鍵なら、なおさら売れません」


「鍵を持つ者は狙われますよ」


 その声が、わずかに低くなった。


 わたしは一歩下がった。


 裏門の向こうから、足音がした。


「リネア」


 ノア様だった。


 男は、ほんの一瞬だけ表情を変えた。警戒、あるいは苛立ち。


「アステル公爵」


「名簿院職員への私的接触は禁止している」


「偶然の挨拶です」


「裏門でか」


「王都は狭いので」


 ノア様は男の手元の銀箱を見た。


「名売りか」


「人聞きが悪い。合意ある譲渡の仲介です」


「本人が拒否した。これ以上は脅迫になる」


 男は肩をすくめた。


「では、今夜は失礼します。リネアさん、考えが変わったら、白鳩通りの三番倉庫へ」


「行きません」


「そうでしょうね。けれど、あなたが行かなくても、名前は流れます」


 男は笑った。


「名は水と同じです。堰き止めれば、別の場所から溢れる」


 そう言い残して、彼は路地の闇へ消えた。


 わたしはしばらく動けなかった。


 ノア様が毛布を受け取ってくれた。


「怪我は」


「ありません」


「怖かったか」


「はい。でも、それよりも」


「腹が立った?」


「はい」


 正直に言うと、ノア様は小さく頷いた。


「その怒りは正しい」


 裏門の灯りが点く。


 わたしは男の消えた路地を見つめた。


「聖女名エレノアは、古い扉を開ける鍵だと言っていました」


「知っていたのかもしれないな」


「何をですか」


 ノア様はすぐには答えなかった。


 名簿院の古い石壁には、夕闇が濃くなっている。彼の横顔は、いつもより険しかった。


「白の名簿」


「白の名簿?」


「王国建国時代に作られた、最初の総名簿だ。そこには、王家、貴族、都市、孤児、移民、死者に至るまで、国に属するすべての名の原型が記されていると言われる」


「言われる?」


「所在は王宮地下書庫。だが、開ける鍵がない。聖女エレノアの名だけが、扉を開くとされている」


 わたしは胸元の名札を押さえた。


 白い布の下で、古い名が静かに眠っている。


「王太子妃に聖女名が望ましいというのは」


「古例というより、王宮の都合だ。王太子妃が聖女名を持てば、王家は白の名簿へ近づける」


 それなら、父やユリウス殿下がわたしの名前を妹へ譲らせようとした理由も、ただの恋愛や体面だけではないのかもしれない。


 もっと大きなものがある。


「白の名簿を開くと、何ができるのですか」


「正しく使えば、災害時に行方不明者を探し、断絶した家系を救い、名前を失った者を保護できる」


「誤って使えば?」


 ノア様の目が暗くなった。


「国中の名を、王宮の都合で書き換えられる」


 喉が乾いた。


 名前を奪われかけたわたしには、その恐ろしさが分かる。個人の名を消すだけで、記憶も居場所も曇る。もし国中の名を操作できるなら、それは武器だ。


「ユリウス殿下は、それを知っているのでしょうか」


「分からない。だが、王宮の誰かは知っている」


 わたしは男の言葉を思い出した。


 名前は流れる。


 堰き止めれば、別の場所から溢れる。


「ノア様」


「何だ」


「わたし、もっと学びたいです。名簿院の規則だけでなく、白の名簿のことも。聖女エレノアのことも」


 彼はわたしを見た。


「危険だ」


「知らないまま狙われる方が、もっと危険です」


 少し沈黙があった。


 やがて、ノア様は頷いた。


「明日から、閉架書庫への閲覧許可を出す」


「ありがとうございます」


「ただし、一人で動かないこと」


「はい」


「それと、裏門は使うな」


「はい」


 彼の声はいつもより厳しかった。


 けれど、その厳しさが嫌ではなかった。


 誰かがわたしの身を案じてくれることに、まだ慣れない。


 宿直室へ戻ると、北門の毛布をベッドに掛けた。厚くて、少しだけ兵士たちの煙草の匂いがした。


 わたしは灯りを消す前に、胸元の白い名札を取り出した。


 エレノア。


 わたしが手放した名。


 けれど、誰にも渡さなかった名。


 その名の奥に、王国全体を揺るがす秘密が眠っている。


 もう、ただ逃げるだけではいられないのだと思った。

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