第011話 王妃の招待状
閉架書庫への侵入事件は、名簿院の空気を変えた。
翌朝から、正門には警備職員が二人増え、裏門は封鎖された。閲覧記録はすべて確認され、閉架書庫へ入るには院長代理であるノア様と、記録係マルタの二重承認が必要になった。
わたしの机にも、小さな鈴が置かれた。
「何かあれば鳴らしてください」
マルタが真顔で言う。
「この鈴、受付まで聞こえますから」
「ありがとうございます。でも、わたしが鳴らすより先に、自分で逃げた方が早い気もします」
「逃げながら鳴らしてください」
「難易度が高いですね」
冗談のようなやり取りをしていても、緊張は消えなかった。
王宮書記官の徽章を持つ者が、名簿院の閉架書庫に侵入した。これは、単なる泥棒ではない。王宮の一部が白の名簿に関心を持ち、聖女エレノアの記録を改竄しようとしている。
そして、その中心にはたぶん、王太子府だけでなく、もっと上の権力がいる。
その予感が当たったのは、昼過ぎだった。
王妃から招待状が届いた。
封蝋は王妃オレリアの紋章。白百合と金の糸。王妃は病弱だと聞かされていたが、政治から遠い人ではない。王宮内の儀礼や名簿関係は、表向き王太子府が扱っていても、最終的な承認には王妃の印が必要なものが多かった。
招待状の宛名は、名簿院職員リネア殿。
旧名ではない。
その一点だけで、王妃がただ者ではないことが分かった。
「王妃陛下は、君を個人名で呼んでいる」
ノア様が招待状を読んだ。
「罠でしょうか」
「罠かもしれないし、警告かもしれない。どちらにせよ、無視は難しい」
「行くべきですか」
「行かなくてもよい。ただし、行けば分かることもある」
わたしは招待状の文面を見た。
午後の茶会。参加者は王妃と女官長のみ。場所は王宮西棟の小サロン。目的は、名簿院の業務に関する意見交換。
丁寧すぎるほど丁寧だった。
けれど、丁寧な言葉の中に、逃げ道を塞ぐような隙のなさがある。
「行きます」
わたしは言った。
「ただし、名簿院の業務として」
ノア様は頷いた。
「私も同行する」
「王妃陛下は一対一を望んでいるのでは」
「名簿院職員への聴取には、監督者が同席できる」
それを聞いて、少し安心した。
王宮西棟の小サロンは、以前のわたしなら入ることを許されなかった場所だ。王妃と親しい高位貴族の女性だけが招かれる部屋。壁紙は淡い緑で、窓辺には白百合が飾られている。
王妃オレリアは、白い椅子に座っていた。
銀色に近い金髪を結い、病弱という噂に反して、目だけはひどく強い。微笑みは柔らかいのに、こちらの動きを一つも見逃さないような視線だった。
「よく来てくれました、リネア」
王妃は言った。
その声は澄んでいた。
わたしは礼を取る。
「名簿院臨時職員リネアです。本日は業務上の意見交換として伺いました」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
王妃はノア様へ目を向けた。
「アステル公爵。あなたは昔から堅いのね」
「名簿院の規定です」
「規定。便利な盾だこと」
「名を守るには必要です」
王妃は小さく笑った。
茶が運ばれた。香りのよい紅茶だったが、わたしはすぐには口をつけなかった。王宮で出される茶に毒があるとは思わない。けれど、名前を奪おうとした場所の茶を、無防備に飲む気にはなれなかった。
王妃はそれに気づいたようだった。
「警戒しているのね」
「はい」
「正直でよろしい」
彼女は自分の茶を一口飲み、カップを置いた。
「あなたに謝罪しましょう。王太子とベルレイン伯爵の行いは、軽率でした」
軽率。
わたしはその言葉を心の中で噛んだ。
軽率で済む話ではない。名前を奪うことは、生活と記憶と居場所を奪うことだ。
けれど、王妃は続けた。
「ただし、王宮には事情もあります」
「事情があれば、本人同意のない名譲りが認められるのですか」
「認められません。建前では」
「建前」
「王国は建前だけでは動きません。辺境では小競り合いが起き、貴族の家系は断絶し、都市では名札を持たない子どもが増えている。白の名簿を開ければ、救える者がいる」
その言い方は、どこか聖女エレノアの本来の目的に近かった。
だからこそ、危ういと思った。
「救うために、誰かの名前を奪うのですか」
「奪わずに済むなら、それが一番です」
王妃はわたしをまっすぐ見た。
「でも、扉が開かないの。聖女名を持つ者は何人も試した。王家に嫁いだ者も、修道院の高位聖女も。誰も開けなかった」
「名を守る意志に宿る、と記録にありました」
「読んだのね」
王妃の目が細くなった。
「では、あなたが鍵かもしれないことも分かっているはず」
ノア様が声を低くした。
「王妃陛下」
「脅しているわけではありません。頼んでいるのです」
王妃は立ち上がり、窓の外を見た。
「リネア。あなたが白の名簿を開き、王宮と名簿院が共同で管理する。その条件なら、あなたの旧名照会はしない。ベルレイン家にも干渉させない。王太子との婚約問題も、正式に白紙へ戻しましょう」
それは、取引だった。
わたしが最も望んでいる安全を差し出し、その代わりに白の名簿を開けと言っている。
「共同管理とは、具体的に誰が署名権を持つのですか」
わたしが聞くと、王妃はわずかに笑った。
「あなたは本当に名簿師なのね。感情より署名欄を見る」
「感情で署名してはいけないと学びました」
「王、王妃、名簿院長、そして鍵となるあなた」
「王太子殿下は?」
「彼はまだ、名を器だと思っている」
その言葉は意外だった。
王妃は息子を庇うのではなく、正確に見ている。
「では、なぜ殿下に名譲りを止めなかったのですか」
わたしの声が少し震えた。
王妃はしばらく黙った。
「止めれば、あなたは自分で名を選ぶ機会を得なかったかもしれない」
「それは、わたしが傷つくことを見越していたという意味ですか」
「政治は時に、誰かの傷を利用します」
小サロンの空気が冷えた。
ノア様が一歩前に出た。
わたしは手で止めた。
怒りはあった。けれど、今ここで怒鳴っても、この人は動かない。王妃は、優しい言葉で人を縛れる人だ。なら、わたしは書類の言葉で返すべきだ。
「王妃陛下」
「何かしら」
「白の名簿に関する共同管理案を、書面で提出してください。署名権、閲覧権、本人同意条項、強制名譲り禁止条項、違反時の処分まで明記してください」
王妃の目がわずかに見開かれた。
「それを読んでから、検討します」
「あなた、面白いわね」
「わたしは真面目です」
「ええ。だから面白い」
王妃は椅子に戻った。
「分かりました。書面を作らせましょう。ただし一つ、覚えておきなさい」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「白の名簿を狙っているのは、王宮だけではありません。名を売る商人、断絶した貴族、辺境の軍閥。あなたが鍵なら、あなたはもう小さな逃亡者ではいられない」
「逃げるのをやめるかどうかは、わたしが決めます」
王妃は笑った。
「その答えを、聖女エレノアも気に入るでしょうね」
茶会はそこで終わった。
帰りの馬車の中で、わたしはずっと黙っていた。
ノア様も急かさなかった。
名簿院へ戻る直前、わたしはようやく口を開いた。
「王妃陛下は、敵ですか」
「今は、味方ではない」
「では、利用し合う相手」
「正確だ」
わたしは窓の外の王宮を見た。
白く美しい建物。その中で、たくさんの人が名前を持ち、肩書きを持ち、役目を持っている。そのどれもが、本人の意志と一致しているとは限らない。
「ノア様」
「何だ」
「わたしは、白の名簿を開けることになる気がします」
「なぜ」
「開けないままでは、誰かがわたしの名前を使って開けようとするからです」
彼は少し黙った。
「そのときは、君の署名欄を守る」
「ありがとうございます」
「ただし、君自身も守れ。怒りで署名するな。恐怖で署名するな。同情だけでも署名するな」
「はい」
その言葉を、わたしは胸に刻んだ。
名前も、契約も、署名も、わたし自身のものだ。
それを守った上で、誰かを助ける方法を探す。
難しい。
けれど、それがリネアとしての最初の仕事なのだと思った。




