第54話 最終話
アパートに戻ると一は既に帰って来ていた。
オレのすっきりした顔に驚いた顔をしていたが、
「いいことあった?」
と、優しく問いかけた。
「ううん。だけど、薫さんのお陰で離れるのも悪くないのかなって思えるようになった」
オレが笑って答えると、さらに驚いた顔をした。
「寂しくないわけじゃないけどさ。普通の恋人たちみたいに何処かで待ち合わせってのもいいのかなって思ったんだ」
そっか、と一は微笑んだ。
「でも、寂しくなって毎日電話しちゃうかもしれない」
「俺からするよ。俺は父さんと暮らすことになるんだ。携帯代が馬鹿にならないから、家電からかけるよ。俺が毎日電話する」
「会いたくて夜中に一の家まで行っちゃうかもしれない」
一が一歩一歩オレに近づいてくる。
「いいよ。父さんはつばさがいつ泊まりに来ようが気にしないよ。どっちかっていったら、喜ぶんじゃないかな。俺が会いたくなったらつばさの所に行くよ」
とうとう一に抱き締められた。やっぱり一の腕の中は安心する。
「今度来る女の子が一のこと好きになったらやだな」
「誰になんと言われようと、俺はつばさ一筋だから心配はいらない。それに、つばさ以外の女の子はいまだに駄目みたいだから」
「一のいた部屋を他の女の子に使わせるの、何かイヤだな。オレ、一の部屋に移ろうかな」
オレの髪の毛を弄っていた一の手がぴたりと止まった。どうしたのかと顔を上げると、熱い目で見下ろされた。
「俺の使っていた部屋を他の女の子に使わせるのはイヤ?」
「だって、一がいた空間に他の女の子が入るのはイヤなんだ」
その瞬間、息が止まるほど強く抱き締められた。
「つばさは本当に可愛い」
何で突然そんな事を言われたのかはよく解らなかったけど、自然と顔を赤らめた。
一がオレを可愛いという度に、一がオレを好きだという度に、オレは女であるって気持ちが高まって来る。一が女であるオレを求めてくれているようで嬉しかった。
幸一と一の新居はうちのアパートの目と鼻の先だった。一のたっての希望でそうなったらしいけど、幸一の方でもオレの近くを所望したらしい。幸一は早くもオレを娘扱いしていた。
その日、オレは春休みと称してこっちにしばらく滞在していた両親を駅まで見送りに行った。一も行きたそうにしていたが、引越しのあれこれでどうしても来られなかった。
「つばさ。新しい同居人とも上手くやるんだぞ。それから、一君以外は俺は認めんからな」
は? 一の名前が出て、首を傾げているオレを横目で睨んで、ふらりと歩き出した。
「親父? 何処行く……」
「便所だ」
周りにたくさん人がいるのに恥かしいと苦笑した。そんな親父を母さんも微笑みを浮かべて見ていた。
「あれね、照れ隠しよ。一君ね。毎日私達の所に来てくれてたの。娘のあなたよりも沢山会ってたわよ。一君毎日来て、娘さんを俺に下さいって土下座してたのよ。最初は渋ってたお父さんだったけど、あまりに一君が熱心だったものだから最終的には、根負け。つばさと一君の結婚を前提としたお付き合いを認めたのよ。最近では、一君がお気に入りみたい。今日は一君が来れないのちょっとがっかりしていたのよ。でもね、朝、一君電話くれてね。つばさのことは俺に任せて下さいって言ってたのよ。私も一君だったら大歓迎だわ。親戚付き合いも幸一君とだったら楽だものね。今時あんなにいい男はいないんだから、逃がしちゃ駄目よ」
一が毎日土下座って、なんだか最近よく出かけるとは思っていたけど、それは幸一との引越しの件で出掛けてるんだと思っていた。
「親父、一のこと殴らなかった?」
「まあ、初めはね」
やっぱり殴ったんだ。全然気付かなかった。オレの知らない間にそんなことになっていたなんて。
暫くして電車がきて、二人は乗り込んだ。
「親父、ありがとう。一のこと」
「ふんっ。俺は一君以外の男は認めないからな。フラれたら、お前は一生結婚出来ないと思え!」
「うん、解った」
オレがこんなに親父に素直な態度を示すのは珍しい。親父も少なからず驚いている様子だった。
電車のドアが閉まり、オレは手を振った。笑顔で手を振り返す二人を見えなくなるまで見送った。
二人の姿が見えなくなると、途端に一に会いたくなった。一はアパートにいるだろうか、それとも、新居の方だろうか。何となく一はアパートにいるような気がした。それは予測ではなく、ほぼ確信に近いものだった。早く一に会いたくて帰りは気付けば走り出していた。逸る気持ちがオレの足を前へ前へとかき立てる。
アパートに着いた時、一は頭にタオルを巻いて、本を束ねているところだった。
「お帰り、つばさ。どうした? そんなに汗だくで。オジさんもオバさんも無事に行った?」
オレは一の胸に走り込んだ。あまりに勢い込んで突っ込んだものだから、一が尻もちをついた。
「オジさん、オバさんなんて呼んでないくせに。もう、お父さんお母さんって呼んでくれてるって喜んでたぞ。どうして話してくれなかったんだよ。親父に殴られたんだろ? 無茶しやがって、ボケっ! でも、ありがとう。オレの為に頭下げてくれて、嬉しかった。親父に結婚相手は一しか認めないって言われた。オレが一にフラれたら一生独身だ」
自分の言いたいこと全部一気にぶちまけてから、体を放して一の顔を覗き込んだ。
「話さなくってごめんな。でも、俺一人で説得したかったんだ。一発殴られはしたけど、本気では殴ってないよ。それから、つばさをフるなんてことは絶対ないから」
一は笑っていた。
「親公認の仲になったね。お父さんから結婚前に妊娠だけはさせるなよって言われたけどね。それって、避妊に十分気をつければそういう行為も認めるってことだよね」
ニタニタと笑いながら一はそう言った。オレは一の頬を抓った。
「エッチ」
「男はみんなエッチなんだよ」
そう言ってオレの頬にキスをした。
「一、引越しの準備は?」
「ちょっと休憩」
ゆっくりとオレの体を押し倒すと、幾多のキスが降って来た。目を閉じ、再びその瞳を開けると、一の瞳と視線が絡み合った。どちらからともなく微笑み合い、愛の言葉を幾度となく囁き合う。
「一、やっぱりオレ、こっちの部屋に移るよ」
「じゃあ、手伝うよ」
そして、また快楽の世界へ二人で堕ちて行った。
一がアパートを出たのはその2日後のことだった。
オレの荷物ももと一の部屋に運ばれた。一のベッドは置いておく事になっていた。僅かに薫る一の匂いがあれば夜もぐっすり眠れそうだ。
「つばさ。寂しい時はいつでも呼ぶんだぞ」
「うん、解ってる」
「毎日メールする。電話もする」
「この距離じゃ、行った方が早いよ。男の二人暮らしだから料理作りに行くし、寂しくなんかないよ」
苦笑しながらそう言った。ほんとに近所だから、気軽に行き来出来るんだから心配ない。
「じゃあ、何で泣いてるの? つばさ」
「えっ? あれっ? おかしいな」
頬に手をあてると濡れていた。自覚なんかなかった。勝手に零れ出ていた。
「大丈夫だよ。つばさ。俺を信じて」
抱き締められて、耳元で低い声で囁かれ、くすぐったかった。
「ごめん。大丈夫だよ」
「本当に俺の前だと泣き虫だな」
一が嬉しそうに言う。オレが泣くのは一の前でだけって知っているから。一はオレの頬の涙を舐め取った。奇麗に涙を舐め取ってから、唇を重ねた。獣に食べられるように激しいそれにオレも夢中で食らいついた。
一と出逢って大人のキスも出来るようになった。でも、いつまでたっても一の方が一枚上手で、オレはいつも頬を赤らめるはめになった。
名残惜しそうにオレの頭を撫でた後、一は颯爽とアパートを出て行った。
これは終わりじゃなくて、始まりなのだ。だから、涙は似合わない。
オレは一を笑顔で見送った。
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「ごめん、待った?」
「ううん、今来たところだから大丈夫」
一の笑顔にオレも笑顔を返した。
あれから何度こうやって待ち合わせをしたのだろうか。それはもう数えられないほど……。
一への想いはあの時から少しも変わることはなく、寧ろ想いは膨らむばかりだった。
「緊張するよ、つばさ」
「馬鹿だな。もう既に認めて貰ってるんだから、緊張する必要ないじゃんか」
「それでも緊張するの!」
オレは本当に今にも吐きそうに緊張している一を見てくすりと笑った。
「あのねぇ、男が彼女のご両親にご挨拶に行くってのがどれだけ緊張するか解ってないでしょ?」
「ごめんごめん、許して」
「つばさがキスしてくれたら、許すよ」
腰に手を回されて、体は一の体にぴたりと寄り添った。
駅前の人がたくさん集まる待ち合わせスポットで、一は今日もオレにキスをせがむ。
周りの視線を気にしながらも、素早く唇を押しつけた。
「これでいい?」
首を傾げてそう聞くと、一に唇を奪われた。人目を気にしない大胆なキスだった。
「駄目。それじゃ足りない」
唇が離れたほんの僅かな隙にそう言って、再び唇を塞がれる。オレが何かを言う隙はない。
「つばさ、愛してる」
耳元で囁かれた言葉に周囲を忘れ、オレは一の首にしがみついた。
「オレも愛してる……」
幾度となく囁かれた言葉を今日も甘く囁き合う。
今日も明日も明後日も、10年後もずっと、この命が尽きるまで。
オレの隣りには当たり前に一がいて、一の隣りには当たり前にオレがいる。
その当たり前がずっと続くことをオレは知っている。
この命尽きるまで、一を愛し抜くことを……オレは知っている。
〜終〜
<あとがき>
ここまで読んで下さいまして、有難うございました。
この作品、作者としましては早く終わって欲しい作品=全く自信がない作品となりました。私には、どうにもコメディは書けないのだなっと作品の途中から諦めていました。それでもまたいつかコメディを書いてみたいと思います。
次回作は、『雨の雫』というお話です。先生と生徒のお話を書いてみたいと思います。前半はかなりシリアスになっています。この作品は、一日休んで、9月9日から始動したいと思いますので、よろしかったら読んで下さい。
※再びこの場をかりて……。健様、メッセージ有難うございます。いつも応援して頂いて嬉しく思います。次回作は、コメディじゃなくシリアス系ですが、よろしかったら読んで下さいね。