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恋人  作者: 纏天
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9/10

第九章 後藤真也

いつもありがとうございます!

仕事が終わり私は、もう一度図書館へ向かった。


昨日、古い新聞の中から、あの日の事件を見つけた。


海浜幕張駅周辺で起きた事件。


少女が襲われた。


助けに入った少年が負傷した。


犯人は逮捕された。


記事は、驚くほど小さかった。


事件の内容も、ほとんど書かれていない。


あれだけのことが起きたのに。


どうして、こんなに何も残っていないのか。


私は、もう一度その記事を読み返した。


そして、ふと思った。


この記事を書いた記者なら、何か知っているかもしれない。


私は新聞を閉じた。


そして、そのまま新聞社へ向かった。


新聞社に着くと、受付へ向かった。


「すみません」


受付の女性が顔を上げる。


「はい」


「昔の事件について調べているんですが、この記事を書いた記者の方にお話を伺いたくて」


私は、昨日見つけた新聞記事を見せた。


女性は記事に目を通した。


「こちらの記事ですか?」


「はい」


「少々お待ちください」


女性は、社内の誰かに電話をかけた。


「はい……ええ。昔の記事についてお客様が……」


しばらく話したあと、


「分かりました」


と言って電話を切った。


「担当の者が参りますので、少しお待ちください」


「ありがとうございます」


私は、受付の横にある椅子に座った。


数分後。


一人の男性がやってきた。


四十代くらいだろうか。


「お待たせしました」


「はい」


男性は、私が持っていた新聞記事を見る。


そして、


「ああ」


と声を出した。


「これは後藤さんかな」


「後藤……さん?」


男性は記事をもう一度確認した。


「かなり前の記事ですね」


「今も、こちらにいらっしゃるんですか?」


男性は少し困ったような顔をした。


「いや。もう退社しています」


「退社……」


「ずいぶん前です」


私は、少し迷ってから聞いた。


「今、どこにいるか分かりますか?」


男性は少し考えた。


「確か、今はフリーでライターをやっていたと思います」


「フリーライター……」


「はい」


「連絡先を教えていただくことはできますか?」


男性は、少し考えた。


「個人情報なので、普通はお教えできないんですが……」


そう言いながら、記事をもう一度見た。


そして、一枚の紙に電話番号を書いた。


「これ、個人の連絡先です」


「ありがとうございます」


「後藤さんに連絡するときは、私から聞いたと言ってください。」


「分かりました」


私は、その紙を受け取った。


新聞社を出る。


手の中には、一つの電話番号。


後藤。


あの日の記事を書いた記者。


この人なら、何か知っているかもしれない。


私は、少しだけ緊張しながら、その番号に電話をかけた。




何度か呼び出し音が鳴った。


「はい」


男の声だった。


「後藤さんでしょうか?」


「そうですけど」


「突然すみません。私田中と申します。昔、海浜幕張で起きた事件について、お聞きしたいことがあって……」


私は偽名を使って電話をかけた。


電話の向こうが、少し黙った。


「どの事件?」


「少女が襲われて、助けようとした少年が刺された事件です」


また沈黙。


「……何年前の話?」


「十年程前です」


「そんな昔の事件を、今さら?」


声に、警戒が混じった。


私は答えた。


「昨日、当時の新聞記事を見つけました」


「そう」


「記事を書いたのが、後藤さんとお伺いしたので」


しばらく沈黙が続いた。


「……それで?」


「もしよければ、少しお話を伺えませんか?」


「話すだけならいいけど」


「ありがとうございます」


すると、後藤は言った。


「ただし、タダでは話さないよ」


「……え?」


「取材するなら、それなりに払ってもらわないと」


私は言葉を失った。


「お金が必要なんですか?」


「当たり前でしょう」


淡々とした声だった。


「こっちも暇じゃないんで」


私は少し迷った。


でも、ここまで来た。


「分かりました」


「じゃあ、明日の夜19時に尾久駅の近くにある喫茶店で」


場所を聞いて、電話を切った。


翌日の夜。


私は、指定された喫茶店へ向かった。


店の奥に、一人の男が座っていた。


五十代くらい。


少し伸びた髪。


くたびれたジャケット。


テーブルには、灰皿とコーヒー。


私が近づくと、男が顔を上げた。


「田中さん?」


「はい」


「座って」


私は向かいに座った。


後藤は、私をじっと見ていた。


「それで?」


「海浜幕張の事件について、お聞きしたいんです」


後藤はコーヒーを一口飲んだ。


「いくら払える?」


いきなりだった。


「……いくら、ですか?」


「話す内容によるけど」


「私は、事件がどうしてほとんど報道されていないのかを知りたいんです」


「だから?」


「どうして、あんなに大きな事件だったのに、新聞にほとんど残っていないのか」


後藤は黙った。


そして、私を見た。


「10万円」


「……」


「10万円払うなら、話す」


私は財布に手を入れかけた。


でも、そこで止めた。


「そんなに払えません」


「じゃあ、話せないね」


あまりにもあっさりしていた。


私は、少し腹が立った。


「後藤さんは、あの記事を書いたんですよね?」


「そうだけど」


「だったら、どうしてそんなに……」


そこで言葉を止めた。


後藤が、私の顔を見ていた。


「田中?さん」


「はい」


「本当に、事件とは関係ないの?」


心臓が、一瞬だけ大きく跳ねた。


「……ありません」


私は答えた。


後藤は、私から目を逸らさなかった。


「そう」


短く答える。


そして、タバコに火をつけた。


「じゃあ、今日は帰って」


「……」


「話すことはない」


私は席を立てなかった。


ここで帰れば、何も分からない。


そう思った。


「…10万円払います」


後藤が顔を上げた。


「本当に?」


「はい」


私は財布を出した。


その瞬間だった。


後藤が、私の顔を見ながら言った。


「……いや」


「え?」


「やっぱり、いらない」


私は顔を上げた。


後藤は、じっと私を見ていた。


「あなた、本当に事件と関係ない?」


私は答えなかった。


「さっきから、事件の話をするときだけ、表情が変わる」


「……」


「それに」


後藤は、少し目を細めた。


「あんたの顔を、俺は昔見たことがある」


私は息を止めた。


後藤は、しばらく私を見ていた。


そして、静かに言った。


「もしかして……」


少し間があった。


「あんた、あの時の被害者の子?」


私は何も言えなかった。


店の中の音だけが、妙に大きく聞こえた。


後藤の表情が変わった。


さっきまで金の話をしていた男とは、まるで違っていた。


「……そうか」


小さく呟いた。


「田中ねえ...」


私は何も答えられなかった。


後藤はタバコを灰皿に押しつけた。


「だったら、金なんかいらない」


「……」


「話すよ」


その声には、さっきまでの軽さがなかった。


後藤は、しばらく黙っていた。


そして、ゆっくり口を開いた。


「あの頃はな」


コーヒーを一口飲む。


「毎日、面白かったよ」


私は黙って聞いていた。


「自分で取材先を見つけて、自分で話を聞いて、自分で記事を組み立てる」


後藤は、少しだけ笑った。


事件が起きれば現場へ行く。


事故が起きれば現場へ行く。


警察へ行って、担当者を捕まえる。


関係者を探す。


必要なら、朝でも夜でも関係ない。


「事実を知るためなら、どこへでも行った」


後藤の声に、少しだけ昔の熱が戻った。


「誰にでも聞いたよ。警察だろうが、被害者だろうが、近所の人だろうが、関係者だろうが」


自分が納得するまで聞く。


裏を取る。


一つの証言だけで記事を書くことはしない。


「記者って、そういうもんだと思ってた」


私は、黙って後藤を見ていた。


「特ダネを取るのも好きだった。でも、それ以上に……」


後藤は少し間を置いた。


「誰も知らない事実を、自分が最初に見つけるのが面白かったんだ」


その言葉には、昔の後藤がまだ残っていた。


「あの日も、そうだった」


海浜幕張で少女が襲われた。


人が集まっている。


警察も来ている。


救急車も来ている。


助けに入った少年が負傷している。


「俺は現場に着いた時から、これはちゃんと追わなといけねえ事件だと思った」


後藤は、当時の光景を思い出すように話した。


「少女のことも気になった。でも、それ以上に、どうしてこんなことが起きたのかを知りたかった」


犯人は逮捕された。


名前も分かった。


河村隆。


「そこから、俺は調べ始めた」


警察へ行く。


担当刑事に話を聞く。


近所を回る。


事件を知っている人間を探す。


「河村のことも調べた」


すると、少しずつ普通の事件とは違うことが見えてきた。


「家を調べれば調べるほど、親父の名前が出てきた」


河村宗治


当時から地域では知られた人物だった。


会社を経営し、いろんなところに顔が利く。


「俺は、そこをもっと調べようとした」


ところが。


その頃から、少しずつ空気が変わっていった。


上司から、


「そこまで調べなくていい」


と言われるようになった。


警察に聞いても、


「もう十分でしょう」


と返される。


別の取材先からも、


「その件は、もう話したくない」


と言われるようになった。


「最初は、急に情報がとれなくなった」


後藤は言った。


誰も取材に応じなくなった。


「違和感が確信に変わったのは、記事を書いてからだった」


後藤は私を見る。


「俺は、事実をできる限り書いた」


少女が襲われたこと。


助けに入った少年が刺されたこと。


河村隆が逮捕されたこと。


でも、次の日。


会社に呼び出された。


「お前、誰の事件だと思ってる?」


そう言われた。


私は何も言わず、後藤の話を聞いていた。


「俺には意味が分からなかった」


後藤は苦笑した。


「誰の事件って、被害者の事件でしょ」


でも、そういう話ではなかった。


河村家には、金もあった


人脈もあった。


地域の企業にも、政財界にも顔が利いた。


「直接、政治家から電話が来たわけじゃない」


後藤は言った。


「でも、分かるんだよ」


取材先が口を閉ざす。


上司の態度が変わる。


別の記者が同じ事件を追おうとすると、


「もういい」


と言われる。


「俺だけじゃなかった」


後藤はコーヒーを置いた。


「会社全体が、この事件に触れたくない空気になっていった」


それでも、後藤は取材を続けた。


警察へ行った。


関係者を探した。


裁判のことも調べた。


「事実があるなら、書けばいい」


当時の俺は、本気でそう思ってた。


だから、何度も記事にしようとした。


そのたびに止められた。


そして最後には。


「もう、この件には触るな」


そう言われた。


後藤は、しばらく黙った。


「俺は、納得できなかった」


「だから会社を辞めたんですか?」


私が聞くと、後藤はうなずいた。


「そう」


そして、


「それからフリーになった」


と言った。


「今でも記事は書いてるんですか?」


「まあな」


後藤は少し笑った。


「でも、昔みたいな使命感はもうないよ」


私は、何も言えなかった。


目の前にいる男は、さっきまで十万円を要求していた。


でも、その人は昔。


事実を報道するために、記事を書いていた。


そして、その記事を書いたことで、自分自身が追い込まれていった。


後藤は、もう一度私を見た。


「……あの事件、ずっと気になってた」


「どうしてですか?」


「事実が最後まで書けなかったからだよ」


その言葉が、胸に残った。


後藤は、しばらく黙っていた。


そして、コーヒーを飲み干した。


「……このあと、時間ある?」


「え?」


「まだ見せたいものがある」


私は、少し迷った。


「どこへ行くんですか?」


「俺の家」


後藤は、そう言って立ち上がった。


⸻


店を出て、後藤の後を歩いた。


駅から少し離れた住宅街。


しばらく歩いたところで、後藤が一軒の古いアパートの前で止まった。


二階建て。


外壁はところどころ剥がれている。


階段には赤茶色の錆が浮いていた。


後藤が階段を上るたびに、


ギシッ。


ギシッ。


と音がする。


「……これ、大丈夫ですか?」


思わず聞いてしまった。


後藤は振り返って、


「たぶん大丈夫」


と笑った。


そのまま二階まで上がる。


一番奥の部屋。


後藤が鍵を開けた。


「入って」


私は中へ入った。


部屋に入った瞬間、驚いた。


狭い。


そして、本だらけだった。


床にも本。


机の上にも本。


壁際には古い新聞や雑誌が積み重なっている。


どこに何があるのか、本人にしか分からないような部屋だった。


「すごいですね……」


「記者なんて、こんなもんだよ」


後藤は靴を脱ぎながら言った。


「捨てられないんだ」


そう言って、部屋の奥へ入っていく。


しばらく本や新聞をかき分けていた。


「あった」


後藤が、一冊の分厚いファイルを取り出した。


表紙には、古い日付が書かれていた。


私は、そのファイルを見つめた。


「それ……」


「当時の資料」


後藤は、机の上にファイルを置いた。


埃を払う。


そして、ゆっくりと開いた。


何枚もの書類が綴じられていた。


「俺は、事件そのものだけじゃなくて、裁判も追ってた」


ページをめくる。


「だから、事件がどう終わったのかも知ってる」


私は、黙って書類を見た。


そこには、事件の概要。


被告人。


判決。


そして、量刑が記されていた。


後藤が、一枚の紙を指で押さえた。


「ここ」


私は、その文字を追った。


被害者との間で、示談が成立している。


被害弁償が行われている。


そして――


執行猶予。


私は、しばらくその文字から目を離せなかった。


「……執行猶予?」


「そう」


後藤は短く答えた。


「実刑じゃない」


私は、もう一度書類を見た。


事件の内容を知っている。


十六歳だった自分が襲われた。


助けに入った少年が刺された。


それなのに。


裁判の記録には、淡々と結果だけが残っている。


「示談って……」


私が呟くと、後藤は言った。


「成立してる」


「誰と?」


「被害者の少年と」


私は息を止めた。


後藤は、書類から目を離さない。


「河村側が動いたんだろうな」


それ以上は、すぐには言わなかった。


私は、もう一度書類を見た。


河村隆。


その名前の下に、判決がある。


そして、その結果として――


執行猶予。


私は、手を膝の上で握った。


あの日の事件は、そこで終わったことになっていた。


犯人は逮捕された。


裁判も終わった。


示談も成立した。


そして、刑務所には入っていない。


でも。


私にとっては、終わっていなかった。


あの日から、ずっと。


後藤が静かに言った。


「だから、新聞も追わなくなった」


私は顔を上げた。


「……どういう意味ですか?」


後藤は、ファイルを閉じた。


「事件が終わったからじゃない」


少し間を置く。


「終わらせられたんだよ」


部屋の中に、沈黙が落ちた。


私は、閉じられたファイルを見つめていた。


その中には、私が忘れようとしていた十年前の出来事が、まだ残っていた。


――あの日から今まで。


河村隆は、何もなかったように生きてきたのだ。

読んでいただきありがとうございます!!

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