第十章 聞き覚えのある声
ありがとうございます!
本部長と一緒に河村本部長のもとへ向かった。
昨日、斉藤部長から聞いた話。
その指示を出したのは、河村本部長。
俺一人で行く話ではなかった。
本部長にも同行してもらい、河村本部長に直接話を聞くことになった。
応接室に通される。
しばらくして、ドアが開いた。
「お待たせしました」
河村本部長が入ってきた。
昨日と同じ。
落ち着いた雰囲気。
きちんとしたスーツ。
無駄のない動き。
「本日はお時間いただき、ありがとうございます」
本部長が頭を下げる。
「こちらこそ」
河村本部長も軽く頭を下げた。
俺も続いて、
挨拶した。
河村本部長は、俺を一瞬見た。
「よろしくお願いします」
それだけだった。
俺たちは席についた。
本部長が切り出す。
「早速ですが、今回の発注見直しの件について、少し確認させていただきたいことがありまして」
「はい」
河村本部長は落ち着いていた。
「今回の件については、営業としても、もう一度原価を精査する必要があると判断しました」
「原価については、かなり詰めていたと認識しおります」
「承知しています」
「斉藤部長からも、価格についてはかなり厳しいところまで詰めていると伺っています」
「そうですね」
河村本部長は淡々と答えた。
「ただ、会社として最終的に判断するには、もう一度確認が必要だということです」
本部長が聞いた。
「それは、他社からも再度見積もりを取るということでしょうか?」
「はい。その可能性はあります」
「価格だけの問題でしょうか?」
「現時点では、そう考えていただいて結構です」
俺は、そこで口を挟んだ。
「すみません」
河村本部長が俺を見る。
「かなり具体的なところまでお話が進んでいましたよね」
「そうですね」
「先日の会食でも、河村会長から前向きなお話をいただいていました」
「会長がどう考えているかと、私が営業本部長としてどう判断するかは別の話です」
「それは分かります」
俺は続けた。
「ただ、今回の金額については、弊社としてももう限界まで下げています」
「それも理解しています」
「それでも、もう一度下げる可能性があるということでしょうか?」
「可能性はあります」
冷静だった。
あくまで冷静だった。
だからこそ、俺も引かなかった。
「でも、どこまで下げればいいのか分からない状態では、こちらも対応できません」
「それは、これから社内で決めます」
「では、弊社としては、どの金額を基準に再提出すればいいんですか?」
「現時点では、まだ決まっていません」
「いつまでに決まりますか?」
「分かりません」
本部長が口を挟んだ。
「河村本部長、昨日までの話を考えると、今回の見直しは少し急ではないでしょうか」
「社内で状況が変わった。それだけです」
「何が変わったんですか?」
河村本部長の表情が、わずかに固くなった。
「それは、弊社の事情です」
「今回の見直しについて、何か私共に問題があったのでしょうか?」
「ありません」
「では、なぜここまで進んでいた話を、今になって見直すことになったんですか?」
「先ほどから申し上げている通りです。原価をもう一度確認する必要があると判断したからです」
俺は、河村本部長を見た。
「それだけですか?」
「はい」
「本当に?」
その瞬間。
河村本部長の眉が動いた。
でも、まだ声は落ち着いていた。
「玉田さん」
「はい」
「これ以上お話ししても、同じことの繰り返しになると思います」
「でも、私は営業です」
俺は言った。
「発注に向けて話が進んでいて、弊社としてもメーカーと何度も交渉して、できるところまで価格を下げたんです」
「分かっています」
「それを、理由も分からないまま、もう一度見直すと言われても……」
俺は少し身を乗り出した。
「納得できません」
河村本部長は、黙った。
本部長も続ける。
「弊社としても、今回の案件をここまで進めてきた経緯があります。もし価格以外に何かあるのであれば、そこだけでも教えていただけませんか」
「ありません」
「本当に価格だけですか?」
「はい」
「何が変わったんですか?」
「……」
「そこを説明していただけないと、私共も社内に持ち帰れません」
河村本部長の顔が、少しずつ変わっていった。
そして――
「だから!」
突然、声が響いた。
俺は反射的に身体を固くした。
「何度言えば分かるんですか!」
さっきまでの落ち着いた声とは、まるで違った。
「こちらが見直すと言っているんだから、それでいいでしょう!」
応接室に怒鳴り声が響く。
本部長も、俺も黙った。
河村本部長は、さらに続けた。
「いちいち理由を説明しろと言われても、こちらにも事情があるんです!」
その声を聞いた瞬間だった。
俺の中で、何かが引っかかった。
――この声。
どこかで聞いた。
間違いなく、聞いたことがある。
でも、どこで?
俺は河村本部長の顔を見る。
会食の日に初めて会った。
顔には、見覚えがない。
それなのに。
妙に引っかかる。
「……」
俺は黙った。
河村本部長は、まだ何か言っている。
でも、その声が遠くなっていく。
俺の頭の中には、別の景色が浮かび始めていた。
誰かが叫んでいる。
女の子の声。
そして――
怒鳴り声。
昔。
どこかで聞いた。
あの声。
俺は、思わず息を止めた。
――まさか。
そんなはずはない。
俺は目の前の男を見つめた。
河村隆。
昨日、初めて会った男。
その男の声だけが。
なぜか、俺の記憶の奥を叩いていた。
「本日は、ここまでにしましょう」
本部長が、静かに言った。
河村本部長は、それ以上何も言わなかった。
俺たちは席を立った。
「お時間いただき、ありがとうございました」
本部長が頭を下げる。
「こちらこそ」
河村本部長も頭を下げた。
応接室を出る。
エレベーターに乗って、会社を出た。
車に乗り込む。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
俺は、さっき聞いた声のことを考えていた。
車が走り始めて、しばらくしてから、本部長が口を開いた。
「……ああいうタイプだったとはな」
「そうですね」
「初めて会った時は、あんな感じじゃなかったよな」
「全然違いましたね」
本部長は苦笑した。
「まあ、あれだけの会社の営業本部長だ、いろいろあるんだろ」
俺は、窓の外を見ながら答えた。
「……でも」
「ん?」
「私、あの声……どっかで聞いたことあるんですよね」
本部長が俺を見る。
「声?」
「はい」
「お前が?」
「たぶん……」
本部長は少し考えてから、笑った。
「仕事ができるお前が、どこで怒鳴られたんだよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、誰だよ」
「それが分からないんですよ」
本部長は、
「気のせいだろ」
と言った。
俺も、
「……そうですよね」
と答えた。
でも、胸の中の引っかかりは消えなかった。
あの声。
絶対に聞いたことがある。
そんな気がしていた。
家に帰った。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はない。
いつもなら、紗良の声がする。
「おかえり」
それがない。
静かな部屋だった。
俺は靴を脱いで、リビングへ入った。
テーブルの上にも、何もない。
紗良がいない。
その事実を改めて感じた。
俺はソファに座った。
そして、今日のことを思い出した。
河村隆。
あの声。
――聞いたことがある。
そう思った瞬間、また別の記憶が浮かんだ。
海浜幕張。
人の声。
ざわざわした音。
誰かの叫び声。
そして、怒鳴り声。
紗良がいなくなってから、俺は何度もあの日のことを思い出していた。
考えることなんてなかった。
でも今は違う。
紗良が消えた。
祖父母の家を訪ねた。
そこで、昔の写真を見た。
海浜幕張の事件のことまで、もう一度思い出した。
だからなのかもしれない。
俺は、今日聞いた河村本部長の声を、無理やり昔の記憶と結びつけようとしているのかもしれない。
そもそも、俺はあの男の顔を覚えていない。
覚えているのは、あの時の景色だけ。
それも、何年も前の記憶だ。
「……似てるような気がする」
口に出してみた。
でも、自分でも確信が持てなかった。
「……考えすぎやな」
そう呟いた。
俺は立ち上がって、冷蔵庫を開けた。
でも、頭の中から、あの声だけは消えなかった。
読んでいただきありがとうございます!




