第3章 千葉
千葉県には思い出がたくさんあります。
懐かしい。
翌日、有給休暇をとって千葉へ向かった。
総務部長から見せてもらった住所。
千葉県千葉市美浜区・・・
紗良の実家に行くだけ。
そう自分に言い聞かせて、電車を乗り継ぐ。
窓の外を流れていく景色を、俺はほとんど見ていなかった。
頭の中にあるのは、昨日見た住所だけだった。
千葉市美浜区。
その文字を見た瞬間に感じた、あの嫌な感覚。
人のざわめき。
誰かの叫び声。
そして、赤いもの。
そんなことを考えているうちに、電車は海浜幕張駅へ到着した。
改札を出てすぐ、足が止まった。
「……ここや」
全てを失った場所。
駅の景色も。
周りの建物も。
何もかも、見覚えがある。
俺は駅を出た。
そして、しばらく歩いた。
見覚えのある場所。
見覚えのある道。
俺は、立ち止まった。
その瞬間。
頭の中に、昔の映像が一気に流れ込んできた。
十五歳。
あの頃の俺は、サッカー選手になることに何の疑いもなかった。
最年少でU-18の日本代表にも選ばれていた。
関西のJリーグクラブの下部組織に所属していて、周りからは、
「このままいけば、チーム最年少でトップデビューするんちゃうか」
そんなことを、よく言われていた。
俺自身も、そうなると思っていた。
高校在学中にプロデビュー。
18歳になったら海外に移籍。
15歳の俺にとって、プロサッカー選手という未来は、夢というより、現実の延長線上にあった。
今回も、代表活動でJFA夢フィールドで合宿をしていた。
代表の合宿中は、いつも散歩をするのが日課だった。
もっとうまくなるために。
プレーを頭で整理するのに散歩が1番効果的だった。
気づけば海浜幕張駅のバスロータリーを歩いていた。
ふと周りを見渡すと
1人の青年が女の子に怒声を浴びせていた。
突然女の子の悲鳴が聞こえた。
青年の手に、何かが見えた。
刃物。
そして――
俺は走った。
考えるより先に身体が動いていた。
サッカーで何度も繰り返してきたように。
前へ。
ただ前へ。
女の子との距離を詰める。
次の瞬間。
強い衝撃が、脚に走った。
「――っ!」
何が起きたのか分からない。
足元を見る。
赤い。
血だった。
それでも俺は倒れなかった。
女の子をかばうように、その前に立った。
そして、青年が逃げる背中を最後に目の前が真っ暗になった。
ほんの数十秒。
たぶん、それくらいの出来事だった。
でも、その数十秒が。
俺の人生を変えた。
目の前の景色と、十年前の記憶が重なる。
海浜幕張駅。
ここだった。
間違いない。
俺は、自分の脚を見た。
刃物が刺さった箇所。
今でも大きな傷が残っている
刺さった場所が悪く神経を傷つけていた。
その後、サッカーを続けることはできた。
でも、以前のような繊細なコントロールを失った。
あの日俺の描いたサッカー人生は終わった。
犯人が、その後どうなったのか。
俺は知らない。
知りたくもなかった。
どんな顔をしていたのかも覚えていない。
その場所に、紗良が残していた住所がつながっている。
「……なんでや」
俺は、駅前を見つめた。
そして逃げるように紗良の実家に向かった。
住所を頼りに歩いていく。
駅から少し離れた住宅街。
しばらくすると、古い一軒家が見えてきた。
表札を確認する。
新見
間違いない。
俺は一度、深呼吸をしてからインターホンを押した。
少しして、年配の女性が出てきた。
「はい……」
俺は名前を名乗った。
「突然すみません。紗良さんとお付き合いさせていただいている、玉田といいます」
女性の表情が変わった。
「……紗良の?」
「はい」
少しの沈黙。
そして、
「どうぞ」
と、家の中へ通された。
居間には、祖父らしき男性もいた。
二人とも、俺を見る目が少し不安そうだった。
「紗良に何かあったの?」
「……突然行方が分からなくなりました」
俺は正直に答えた。
「昨日まで、普通に一緒にいました。それなのに、突然いなくなって……会社も辞めていました」
祖父が静かに聞いた。
「警察には?」
「行きました」
そこで二人に、自分のこと、紗良との出会いからこれまでのことを簡単に話した。
祖母は何度も頷きながら聞いていた。
そして、しばらくすると、
「……昔のことなら、少し話せることがあるわ」
そう言った。
「昔?」
「紗良の中学生、高校生の時のこと」
祖母は立ち上がり、奥の部屋へ向かった。
しばらくして戻ってきた祖母の手には、古いアルバムがあった。
テーブルの上に置かれる。
祖母がページを開いた。
そこには、派手な衣装で踊る女の子が写っていた。
大人びた顔立ちに幼さが残っていた。
でも――
俺には分かった。
「……紗良」
思わず声が漏れた。
祖母が頷く。
「中学の頃よ」
祖母が、ゆっくりと話し始めた。
「この頃ね、紗良はアイドルをしていたの」
「……アイドル?」
俺は聞き返した。
「ええ。スカウトされたのがきっかけだったの」
俺はアルバムの写真を見た。
そこにいる少女と、今の紗良が頭の中で重なる。
「両親は反対したんだけどね」
「それで、ここに?」
「そう。紗良は実家を出て、うちで暮らすようになったの」
祖父が続けた。
「本人は、本気でやりたかったみたいだからな」
「人気は……あったんですか?」
俺が聞くと、祖母は少し困ったように笑った。
「そんなに売れたわけじゃないわ」
「そうなんですね」
「でも、熱心なファンは何人かいた」
祖母の表情が、少し曇った。
「その中に、一人だけ……ちょっと怖い人がいたの」
俺は黙った。
胸の奥が、嫌な感覚を覚えた。
祖母は続けた。
「精神的にも色々あって紗良は十五歳で、アイドルを辞めることにしたの」
祖母が俺を見る。
「ある日帰宅途中その人に襲われたわ」
俺は何も言えなかった。
あの事件のことだ。
祖母の口から聞くと、あの日の記憶が現実として重なってくる。
「アイドルを辞めた後、紗良はどうしてたんですか?」
俺は聞いた。
「高校へ進学したわ」
「普通の高校に?」
「そうよ」
祖母は頷いた。
「高校を卒業して、そのまま大学に進んだわ」
「高校では、普通に過ごしてたんですか?」
「ええ」
祖母は答えた。
「高校でも大学でも、アイドルをしていたことは誰にも話していないと思う」
「誰にも?」
「ええ。本人が、絶対に知られたくないって言ってたから」
俺はアルバムの別の写真を見つめた。
高校の写真。
そこには、俺の知らない紗良がいた。
アイドルだった女の子。
事件に遭った女の子。
そして、その過去を誰にも話さず、普通の高校生、大学生として生きてきた紗良。
俺は七年間、紗良と一緒にいた。
それなのに。
俺は、彼女の人生の一番大きな部分を何も知らなかった。
そして、もう一つ。
どうしても気になることがあった。
――紗良は、俺があの日の男の子だったと知っていたのか。
もし知っていたのなら。
大学で俺と出会ったとき、紗良は何を思ったのか。
俺には、まだ分からなかった。
ただ。
紗良がアイドルを辞めたあと、高校、大学へ進んだこと。
そして、その過去を誰にも話していなかったこと。
それがわかっただけでも紗良の背中に少し近づいた気がした。
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