犬 その4
森の中から現れた三人の男達は皆一様に顔の下半分を手拭いで覆い、薄汚れた毛皮を纏っていた。岩を思わせるような屈強な腕で松明を持った男を中心に、ゆらゆらと揺れる三つの放射状の影が、赤々と照らされた地面を這うようにして民家へと近付く。
松明を持つ男の両脇を歩く二人の男の青白く細い腕が、闇で染め上げたように黒い毛皮の外套から垂らされている。その腕は闇夜の中、風に吹かれる柳の枝を連想させる程に力無く揺れていた。
「なんだ、あいつらはよ。真ん中のヤツはなかなかに骨があるように見えるが、脇のヤツらは甘噛みするだけで骨まで砕けちまいそうじゃねえか。」
桃太郎とチビが寝床に到着した際に彼らに話しかけた若い山犬が言った。彼は丘の上に集まった山犬達を押し退け、男達の方へと近付いていった。
眉間に皺を寄せ剥き出しにされた鋭い牙。喉を鳴らす音。土に食い込む爪。白目の中に小さく浮かぶ虹彩。その全てから興奮に満ちた殺意が溢れ出す。月明かりを背に浮かび上がる眼光が地面に伏せられた。
「待て!ゴン!」
彼が身を投げ出そうとする直前、チビが彼の行く手を塞いだ。なだらかな丘の斜面の下から見上げるゴンの姿は、その体格差も相まって覆い被さるような圧倒感をチビに与えた。チビの視線は彼の語気とは裏腹に宙を泳いでいた。
「おう、なんだよお前。尻尾の次は何を取ってやろうか?」
頭上から投げ降ろされる威圧的な声。チビの短く途切れた尻尾が、その声の重さに押し潰されるように力無く垂れ下げられた。
「……ゴン。父上の姿を見てくれ。私達よりも鼻も耳も利く父上が背中に傷を負っている。それが何を意味するか、お主は分からぬのか? 父上はどれ程軟弱と見える者であろうと、それが敵だとするならば決して油断するような男ではない。あの者達、確実に何かある……。」
頭は民家の屋根から彼らを静観していた。月明かりを反射させたその目は、何かを語りかけるように彼らに向けられている。
「なんだなんだ、仲間割れか? 全く憐れなもんよのう、獣っていうのは……。これから殺されようってのに、味方同士で争っている場合じゃなかろうに。」
真ん中の男は悠々とした足取りで歩きながら腰に提げた鎚の柄を握ると、丘の麓で足を止めた。
「見ろ、ゴン。真ん中の男は武器に手をやったが、両端の男達はどうだ。まるで戦いを始めようとする様子がない。おかしいとは思わぬか?」
ゴンは身の毛を逆立てた。
「うるせえ! ごちゃごちゃ言ってんじゃねえぞ! お頭に傷を負わせたヤツらが目の前に居るってのによ、今すぐに殺さねえでいられるかよ!」
その怒号に触発されたかのように、他の山犬達が喉を鳴らしながらチビを囲い込んだ。
「へっ、腰抜けが。尻尾も誇りも無えヤツは引っ込んでろ。」
チビの頭上を飛び越え地面に足を着き背を丸めたゴンは、力を溜め込んだバネが解き放たれるように風を切り男に飛びかかった。
直後、周りの者達が耳にしたのは、彼が男の首に噛み付き骨を折る音ではなかった。地面に西瓜が叩きつけられるような、何かが鈍く砕ける音が辺りに響いた。男の足元には先程まで溢れるような殺意に満ちていたゴンが横たわっていた。左のこめかみは深く窪み、黒ずんだ血が湧き水のように流れ出し、土の上に小さな血だまりができていた。
ゴンは死んだ。誰もがそれを確信した。ある者は丘の上へと足を退け、またある者は殺気立ち天を突いていた体毛を萎ませた。桃太郎も彼らと同じく、ゴンの死に恐怖を抱いた。彼は興奮していたが油断はしていなかったはずだ。山犬の速さであれば、並の人間では対等に渡り合うことなどできるはずがない。ではなぜあの男は飛びかかるゴンを鎚で打つことができたのか。桃太郎の額には汗が滲み、刀の柄を握る掌は湿気を帯びていた。
「さて、と。まずは一匹。あとは……九匹と一人かね。」
男は血を滴らせた鎚を右肩に担ぎ、なにかを潜るように身を屈めながら丘の斜面に足を掛けた。
チビはゴンの死を目の当たりにし、身を竦めた。
――情けないヤツだ。
恐怖に震えるチビの脳裏に父の言葉が浮かんだ。父が自身を見限ってから度々口にしていた言葉。彼が次の頭としての器を持たないと失望し、突き放した言葉。
彼はいつからか誇りを失っていた。しかしその実、彼が失っていたのは誇りではなかった。彼の心の根底に潜むもの、それは打ち負かされることへの恐怖だった。打ち負かされたことにより他者から見限られる恐怖。その恐怖に足が竦み、打ち負かされる可能性自体から身を遠ざけ生きるようになっていた。
少なくともその恐怖に支配され抗うことなく生活を送れば、父親からされたように他者から見放される孤独感を味わうことはない。その生温い安心感の中で彼は戦うことから身を引いていたのだ。
チビは男が跨いだゴンの亡骸と、怯える山犬達を見て確信した。恐らくこの群は間も無く壊滅させられる。例え今までそうしてきたように逃げ出したとしても、残されるものは彼が最も恐れていた孤独のみだ。
「私はなぜ父上が私のことを情けないと揶揄するのか、たった今それを理解した。私は誇りを失ってはいなかった。寧ろ誰よりも強い誇りを自身の中に携えていた。しかしその誇りは些か尊大なものだったようだ。私が失っていたのは、自身が抱える尊大な誇りを傷付けられる可能性に立ち向かう勇気だったのだ。」
チビを見下ろす頭の目は細められ、覆い被さる瞼が満月の明かりを遮っていた。
「チビよ、お主はなんとも情けないヤツだ。それに気付くのにここまで時間が掛かるとはな。」
チビは頭を見上げ、鋭い目線を彼に送った。
彼は迫り来る男達に顔を向け、重心を低くし唸り声を上げた。チビの白い毛は緩やかに逆立ち、月の光を受けて銀色に輝いていた。




