犬 その3
「生憎布団はないが、居間でなら横になることはできるだろう。」
案内された民家の中にはかつてそこに人間が生活していた痕跡が残されていた。囲炉裏の中で燃え尽きたまま放置された薪。土間に転がり錆びついた鍋。埃を被った草鞋。その一つ一つがここで生活を営んでいた人々のことを思い起こさせると同時に、突如として襲い掛かった禍に全てが消し去られてしまったという生々しさを感じさせた。
すまないな。チビにそう言うと、桃太郎は放り投げるように荷物を下ろし、居間の縁に腰を掛けた。
「今夜はゆっくりするがいい。と、言いたいところではあるが……。」
チビは大きく息を吐いた桃太郎を横目に、戸に開いた穴から民家の外を覗き込んだ。
「父上はもうすぐそこまで帰って来ているようだ。匂いから察するに何者も見つからなかったと見える。しかしながら父上が不穏な匂いを感じたと言うのであれば、やはり何者かがこちらに近付いているということは事実であろう。」
チビは民家の外に目を向けたまま後ろ足を畳んで座った。彼の精悍な横顔が桃太郎にある疑問を持たせた。
「チビ、お前はなぜあの若い山犬や父親から蔑ろにされても何も言い返さないんだ? 父親はともかく、あの山犬程度お前にとってはそこまで恐れる程の相手には思えないのだが。」
桃太郎の問いかけに対して、チビの表情は一切の変化を見せなかった。
「ここへの道中で話したと思うが、私は父上との関わりの中で誇りを失ってしまったのだ。私を蔑ろにする相手に敵うか否かなど私にとっては問題ではない。己の為に戦う。私にはその気概がないのだ。」
彼の凛々しい横顔は決意にまで昇華された諦めの念を感じさせた。
「気概が無い、というのは少々違うかもしれん。次代の頭としての期待を掛けられながらそれに報いることができなかった。その事実から自身に対して失望をしていると言った方が正しいだろう。己に失望した者が己の為に奮い立つことができると、お主は思うのか?」
雲の消えた夜空には満月が浮かんでいた。戸の穴から差し込む月光に照らされたチビの目は、波の無い澄んだ水面のように透き通っていた。
自身を嘲笑するかのように鼻を鳴らしたチビの耳が、突如鋭く立ち上がった。直後、彼は戸の外れた窓から外へと飛び出した。
「――父上!」
叫ぶ彼の視線の先には山のような巨体を引き摺りながら森の方から歩いてくる頭の姿があった。その大木の幹のように太い前足には折れた矢が刺さり、背中を覆う白銀の毛は鮮血で赤く染められていた。桃太郎は彼の叫び声を聞くと居間の縁に立て掛けた刀を左腰に携え戸の外に走った。
「チビよ……。私がここまで近付いてきてやっと血の匂いに気付いたのか。情けない奴だ。」
彼はふらつく足で民家の前まで辿り着くと、崩れ落ちるように座り込んだ。体を覆う逆立った毛が、荒くなった息に合わせて波打った。
「父上、どうしたのです! ここに近付いて来ていた者達に襲われたのですか?」
絶対的な強さの象徴としてチビの中に君臨していた父。その父が血を流し、息を荒げている。チビはその状況に深い絶望と不安を感じ、狼狽えていた。
「チビよ、お前のそのような態度が私を失望させるのだ。」
そう言うと頭は足に刺さった矢を鋭い牙で挟み、一思いに抜き取った。彼は矢の跡から血が噴き出すのも構わず立ち上がり、身を屈めた。一瞬の後、彼はその場に血飛沫を残し民家の屋根へと飛び乗った。鋭い爪が茅葺屋根に食い込み、梁が音を立てて軋んだ。
頭を垂れ静かに空気を吸い込む。体中の毛が膨らむ。息を吸い込む摺れるような音が途切れ、一瞬の静寂が訪れた。直後、怒りと警告を群れに知らせる怒号のような遠吠えが放たれた。大気を揺らし夜の闇を劈くその声は、満月に照らされた森の木々の葉を小刻みに震わせた。
丘の上に点在する民家から禍々しい唸り声を上げながら姿を現す影。彼らの目は一様に殺気に満ち、月明かりを鈍く反射させている。彼らの見つめる森の方角からは、松明の薄明かりが浮かんでいる。
桃太郎は民家の周囲に集った山犬達の中に立ち、左腰に差した刀の柄に右手を添え、木々の隙間から漏れ出る薄明りを睨みつけた。
チビ ボツ絵




