犬 その2
暗い森の中にはキリギリスの鳴く声と二人の足音だけが響いていた。険しい岩山は徐々に隆起を低くしていき、辺りが夜闇に包まれる頃には緩やかな起伏を持った土の地面が辺りに広がっていた。
川沿いから少し離れることになる。桃太郎はチビの言葉を聞き、彼らの寝床まではそう遠くないと踏んでいたものの、やはり人間と山犬、その二者の持つ感覚の間には幾ばくかの隔たりがあったようだ。湿った土に草履が沈み込む。その感覚が桃太郎の足取りを更に重いものにした。
「お主が集落を離れたのは夜明け前と言っていたな。」
チビは一切の呼吸の乱れを感じさせない口調で桃太郎に問いかけた。
「ああ、そうだ。それよりもお前の言う寝床にはいつ着くんだ?」
桃太郎は息を切らし、脚を引きずるようにチビの斜め後ろを歩いていた。額には汗が浮き上がり、服は霧のような雨と汗でじっとりと湿り肌に張り付いていた。
「なんだお主、人間にしては図体が大きいと思っていたが、案外に情けない奴だな。まあ心配するでない。寝床はもうすぐそこだ。」
暫く歩くと開けた丘に出た。丘の上には数軒の民家が軒を連ねていた。
「桃太郎、ここが私達が寝床にしている場所だ。山犬の寝床と聞いて穴蔵のような場所を想像していたか?」
桃太郎は丘の下で立ち止まり、上がった息を整えた。
「この場所はな、つい十数年前までは人間が暮らしていたんだが、鬼の手下共の襲撃に遭い人々が根絶やしにされたんだ。」
丘の上の民家の輪郭は暗闇の中にぼんやりと浮かんでいながらも、屋根や壁の所々が崩れていることがはっきりとわかった。
「――ここにもかつては人々が生活していたんだな。」
桃太郎は集落に思いを馳せた。自身の故郷もいずれこうなるかもしれない。最悪の事態を想像する彼の胸に沸き上がったもの。それは闘争心ではなく、恐れと不安であった。
「……そうだ。桃太郎よ。歩き続けて疲れただろう。生憎、人間が食えそうなものはこの寝床にはないが、雨風を凌ぎ身を横たえる場所ならある。今日は早めに休むがいい。」
チビは桃太郎の表情から彼の心情を察し、民家の方へと歩き出した。
「おお、チビ。帰りが遅いもんだからどこかで野垂れ死んじまったのかと思ってたぜ。」
丘の上の民家からのそのそと出てきた若い山犬がチビに近づいてきた。彼の声は低く落ち着いて聞こえたが、その声色は嘲り笑うような抑揚を含んでいた。その山犬は太い前足をチビの目の前の地面にめり込ませ、俯く彼の頭を見下ろすように話を続けた。
「お前みたいな貧弱な奴は群れから離れたらすぐに死んでしまうだろうよ。なんせ群れの中に居ても尻尾を失ってしまうぐらいだからな。」
山犬は顔を俯けるチビに吐き捨てるように言い放つと、桃太郎の顔を見上げた。
「なんだ、人間なんて連れてきて。群れから相手にされずについに人間と慣れ合うようになったか。」
伏せられたチビの目からはその山犬に対しての怒りも、恐れさえも感じられなかった。諦めたように地面を見つめるチビを見て、桃太郎はその山犬に一歩近づいた。
「すまんな、俺が無理を言って一晩の寝床を貸してもらうことになったんだ。世話になるぞ。」
その言葉とは裏腹に、桃太郎の視線はその山犬を鋭く貫いていた。
「……好きにしろ。」
山犬は桃太郎に背を向け、わざとらしく悠々と民家の中へと戻って行った。
「お主の言わんとしていることは重々承知している。」
チビは頭を垂れたままだった。
「見ただろう、奴の逞しい体つきを。私では到底奴には適わない。本望ではないがな、群れで暮らす私にとっては自分の感情を押し殺してでもこうして生きていくのが一番の得策なのだ。」
チビは背中を丸めたまま民家の方へと再び歩き出した。
「疲れているところ悪いが、休む前に私の父上に顔だけ見せてやってくれんか。いくら人間に対して敵意が無いとは言え、ここは私達の縄張りだからな。要らぬ面倒事を起こさぬよう挨拶だけでもしてやってくれ。」
――直後、彼らの背後に一陣の風が通り抜けた。
「やはり人間だったか。」
地を揺らすような低い声が語り掛けた。桃太郎が腰に差した刀を抜き身を翻すと、声の方向には何者の姿もなかった。
「ほう、人間にしてはなかなかの反応だな。」
移動した声の方角に目をやると、そこには熊にも引けを取らない、大木の幹を思わせるような影があった。前足は大地に根を下ろす大樹のように力強く、その青く澄んだ目は暗闇の中でさえも光を放っているかのような錯覚を覚える程に鋭い。どんな手段を用いてもこの存在に敵うことはない。桃太郎は禍々しささえ感じさせるその圧倒的な存在に、精神的にひれ伏す感覚を禁じ得なかった。
「――父上。」
頭を伏せたまま上目遣いにその巨体を見つめるチビは、どこか落ち着かない様子だった。
「雨が弱まり始めた頃から、嗅ぎ慣れぬ匂いがこちらに近付いてくるのを感じ、念の為辺りを見張っていた。人間の姿を見るのは何年ぶりだろうか……。」
群れの頭はまじまじと興味深げに桃太郎の身なりを観察すると、隣に小さく佇むチビを一瞥した。
「チビ、お前と違って立派な青年だな。彼からは決して折れぬ強き心と誇りを感じることができる。青年よ。お前達の会話は聞かせてもらっていたぞ。寝床なら好きに使うと良い。だが……」
群れの頭は桃太郎の後ろに広がる森に目をやった。
「お主とは違う匂いがここに向かってくるのを感じる。念の為、今夜は見張りを付けることにするが用心しておいた方がいいだろう。」
桃太郎は手に握った刀を腰に戻した。
「チビよ。雨が降っていたとはいえ、ここに近付く者達の匂いさえ感じぬことができぬとは、なんとも呆れたものだな。」
群れの頭は風を切る音を上げながら桃太郎の頭上を軽々と飛び越し森の中へと去って行った。彼が去った後に見るチビからは頼りない子犬のような臆病さが滲み出していた。




