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ハードボイルド桃太郎  作者: 閃光
犬編
17/24

犬 その1

 東の空に浮かぶ太陽は薄い雲に覆われ鈍い光を放っていた。桃太郎は林の中を静かに流れる川沿いを足早に歩いた。集落の人々が洗濯や飲み水の確保に用いるこの川は遥か北で海と交わっており、河口の横に位置する港町へと向かう商人達の道標となっている。北の海に浮かぶ鬼ヶ島へと向かうには港から船に乗るしか術はない。また、桃太郎はこの川を流れる水を生活の糧とする集落や町々が存在していることを予てから集落の商人達に聞かされており、旅の便を勘案し川沿いを行くことに決めたのであった。


 昼時になる頃、ふと来た道を振り返ると集落の南に広がる山々の姿がすっかりと見えなくなっていた。空を覆う雲は厚み掛かり、辺りは暗さを増していた。桃太郎は林の中の倒木に腰を下ろし、振り分け荷物から握り飯を取り出した。もうどれ程歩いたのだろうか。夜明け前から歩き続けた足に早くも疲労を感じ始めていた。旅が順調に進んだとしても、鬼ヶ島までは一月ほど掛かる。桃太郎は一刻の猶予も許されぬ状況を案じ、握り飯を頬張ると重くなった脚で再び歩き出した。


 暫く川沿いを歩くと、小雨が降り始めた。桃太郎が歩を進めるに連れ雨脚が強さを増していった。湿った土で覆われた林を抜け、なだらかな起伏を持った岩場に辿り着いた頃、急に雨が激しさを増し始めた。ゴツゴツと隆起した岩場の合間を流れる眼下の川は突然強まった雨に流速を増しており、桃太郎は足場の悪い岩場を雨に打たれながら歩くのは危険だと判断し立ち止まった。辺りを見渡すと左手の少し下った場所に地面との隙間に細長い横穴を持った岩を見つけた。雨に濡れた岩々の上を注意深く下りその岩の前まで辿り着いたものの、その横穴は想像よりも高さが無く、少々窮屈に身を屈めなければその中に入り込めない程であった。桃太郎は他に雨のしのげそうな場所はないであろうと考え、付近に転がっていた比較的平らな上面を持つ岩を横穴の中に置き、その上に腰を下ろした。


 集落を出てから間も無くの雨に進路を阻まれ、桃太郎は焦燥感に襲われていた。地面の上に着実に水溜りを作っていく雨は、暫く止みそうもない。落ち着かない様子で地面から跳ね返る雨を眺めていると、桃太郎の視界の上から突如大きな影が姿を現した。桃太郎は左腰に差した刀の柄を右手で握り、その大きな影の方を睨んだ。


 横穴に背を向け音も立てずにしなやかに地面に足をついたそれは、桃太郎の方をゆっくりと振り返り彼を一瞥すると、ゆっくりと横穴に入り込みその身を伏せた。


 桃太郎が山犬を見るのは初めてのことだった。幼い時分に聞かされていた幼子が山に迷い込むと山犬に食い殺されるという話から連想される野蛮さとは異なり、緩やかな弧を描くその背中や雨を滴らせる白銀の毛に神々しさのような印象さえ感じる。その山犬は桃太郎に敵意は愚か、興味さえも抱いていないかのように目を閉じていた。


 山犬の様子を受け、桃太郎は刀の柄から手を離し、浮かせた腰を再度岩の上に下ろした。恐らくこの山犬も突然に強さを増した雨を凌ぐ場所を求めてここに辿り着いたのであろう。そう考えるとその山犬に対して妙な一体感のような感覚が込み上げてきた。


 暫くの間、降り続ける雨の音をぼんやりと聞いていると、やや西に傾いた太陽が雲の隙間から顔を覗かせるのが見えた。桃太郎はじきに雨も止むであろうことを予感し、岩の壁に立て掛けた刀を左腰に差した。


「まだ行かぬ方が良い。」

立ち上がろうとする桃太郎に山犬が話し掛けた。桃太郎はそれまで目を開ける気配すら見せなかった山犬の突然の忠告に体を強張らせ、彼の方に咄嗟に目を向けた。とぐろを巻くように体を伏せたその山犬の目は、澄んだ池を思わせるような薄い青色をしていた。


「この辺りでは雨が降ると地面が緩み岩が落ちてくることが多い。それを知らぬ旅の者が岩の下敷きになり命を落とすことも珍しくはない。察するにお主、先を急いでいるようだな。悪いことは言わない。目的地に急ぐのであれば、時には暇を持つことが一番の近道となることもある。」

桃太郎は彼の言葉を聞き、自身が焦っていることに気付いた。敵とは見えない彼の言葉を聞き入れ再度岩に腰を掛けた。


「礼を言う。山犬というのは随分と思慮深いようだな。俺が幼い時分に聞かされていた話とは少々違うようだ。」

桃太郎は腰に差した刀を岩壁に立て掛けた。

「お主が言うように思慮深い者もおるが、先の忠告はここら一帯をよく知る私達からすれば単なる常識に過ぎない。それにしても、そのような大振りな刀を携えた人間を見かけることも珍しい。商人であれば護身用の小刀を携えるのが精々だろう。お主、商人ではないのか?」


 彼の忠告を聞き、暫しの間この場に残ることに決めた桃太郎は、暇を潰す術もないこの状況を鑑み、彼が旅に出るに至った理由を山犬に話した。


「ーーなるほど、鬼退治に。」

桃太郎の話を聞き終えると、山犬は憂いを帯びたような表情を浮かべ、伏せた前足を伸ばし、座る体勢をとった。

「お主の話を聞くに父上は単なる疲労から体調を崩したのではなく、やはり病に侵されているようだな。お主が先を急ぐのも頷ける。」

桃太郎は彼の表情の曇りを目にして、彼の話を促すように遠くを見つめながら黙っていた。


「私の父上は所謂群れを率いる頭を務めているのだがな、お主の家とは違い、息子である私よりも父上の方が未だに逞しい体付きをしており、そして強いのだ。そんな父上は私を次の頭の器として不足と判断し、半ば私を見捨てているような状態だ。」

桃太郎はそう話す山犬の逞しい肉体や知的な立ち居振る舞いから受ける印象と、彼が父から受けている評価との間の差異に違和感を覚えた。


「お前は十分に屈強で頭も切れるように見えるのだが。見た所、体も七尺程度はあるだろう。」

「驚くかもしれんが、私は群れの中で最も体が小さいのだ。無論、雌も含めてな。我々は所謂普通の犬とは違い体が大きいのだ。」

山犬は卑屈そうな声色でそう言い、顔を俯けた。

「父上は一人息子である私に群れの頭を継ぐ者としての期待を掛けていた。幼き頃から長の何たるかを叩き込まれ、時には親ならぬ言葉を投げつけられることもあった。そんな父上も私の体が成長を止め、もうこれ以上大きくならないことを知ると、それまでの熱意が不意に冷めたようだ。それまで度々受けていた厳しい言葉が発せられることも無くなり、終いには私という存在がまるで居ないかのように振る舞うようになったのだ。」

一時は晴れ間を見せた空は再び雲に覆われ、辺りは薄暗さと冷たく降り注ぐ雨の音に包まれていた。


「そんな父上の私に対する態度が群れの者達にも伝播したのだろう。私は群の若者達に虐げられるようになっていった。見てくれ、この尻尾を。」

山犬は体の後ろから太い尻尾を持ち上げ桃太郎に見せた。彼の尻尾はその太さに見合わず不自然に短かくなっていた。

「群の若者達に面白半分に切られてしまったんだ。情け無い話ではあるが、私はこの尻尾を切った彼らに対して怒りの感情を持つことが無かった。その時私は気付いてしまったんだ。私は己の境遇に抗うことなく、最も大切な物である誇りを失ってしまっていたことに。」


「お主は誇り高いな。大切な人々の為に自身の力を尽くす強さと優しさを兼ね備えている。どちらも私が持たぬ物だ。」

桃太郎は自身に向けられた鉈の刃先を思い出した。彼はあの時、紛れもなく恐怖を感じていた。山犬の言う強さなど自分も持ち合わせてはいない。桃太郎があの時彼自身を奮い立たせた物が一体何だったのかを考えながら山犬の話を聞いていた。


 山犬は一頻りの身の上話を終えると、暗くなり始めた東の空に目をやり、静かに立ち上がった。

「この様子だと雨も止みそうにない。川沿いから少々離れることにはなるが、今夜は群の者達が寝床にしている場所に泊まっていくといい。」

桃太郎は彼の提案に顔を曇らせた。山犬に限らず動物の中には縄張り意識が強いものが多い。彼はそれを懸念し、彼の提案を即座に受け入れることができなかった。


「なに、心配することはない。私の父上はかつて人間の友人がいてな。詳しい話は聞いたことはないのだが、その青年と共に大量の小判を掘り当てたことがあるらしい。山犬である父上にとって小判は何の役にも立たぬ物だったのでその青年に全て譲り渡したのだがな。今でこそ彼はどこに行ってしまったのか、そしてまだ生きているのかさえもわからないが……。兎に角、私達は人間に対して敵意を持っているわけではない。安心してもらって構わない。」

桃太郎は山犬の目を見つめた。澄んだ彼の瞳からは一切の邪念のようなものは感じられなかった。山犬も桃太郎の目を見つめ返し、少々の間の後に目を逸らし、桃太郎を案内するように歩き始めた。


「お前、名は何と言う?」

桃太郎は小走りに山犬へと駆け寄り横に並んだ。

「笑わないで欲しいのだが……私の名はチビ、だ。」

「精悍な顔付きをしているわりには可愛らしい名前だな。」

静かに微笑む桃太郎の様子を見て、チビもバツが悪そうに笑っていた。


挿絵(By みてみん)

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