第7話 『うしなわれるもの、よみがえるもの』
特に露骨な描写があるわけではないのですが、本話は人によっては苦手な展開となるかもしれません。嫌だなと思ったら無理に読み進めようとせず、ご自衛くださるようお願いします。
カイルとは、お産のその日まで会うことはなかった。
わたしはひとりきりで自分の体調と向き合い続けた。
弱った母体は出産に耐えられないかもしれない。もしそうなったらカイルの生きる意味はどうなるの? 生まれてくる赤ん坊はどうしたらいい? 黒い靄のような不安が、わたしの胸の中でずっと燻り続けていた。
やがて運命の日がやってくる。わたしは寝台に横たわり、陣痛の痛みに耐えながら、ずっと握っていてくれたカイルの手を離した。
「……ここから先は、わたしの仕事だから。カイル、待っててね」
「リラ、君を失いたくない」
離れがたいといいたげに、カイルがもう一度わたしの手を握る。
今生の別れに見せるような顔で、その眼から止めどなく涙をこぼしながら。
「もう、泣き虫さんね……子どもがもうひとりいるみたい」
「どうか生きて。そしてもう一度僕と会って欲しい」
「赤ちゃんと、あなたの三人でね。やりたいことがいっぱいあるの。わたし、本当にいっぱいあるのよ……!!」
どこか浮遊するような夢うつつの心地で、わたしは付き添いのひとりがカイルを伴って部屋を出るのを見送った。
これで室内には妊婦であるわたしと、医療に心得のある専門家しかいなくなったことになる。
「……カイル様からお話は伺っております。リラ様も既にご承知であると」
母体優先の話なのだろう、汗みずくでわたしは頷いた。
「構わないわ。夫の意志に従ってください」
「承知いたしました」
「ただし、本当に命が失われる寸前まで粘ってください。わたしの身にどんな障害が残ろうと、決してあなたたちを責めたりはしませんから」
主治医は力強く頷き、付き添いの病院修道女たちへ迅速に指示を出した。始まる前から難産になることは織り込み済みだ。場にひりつくような緊張が走る。
それからのことはよく覚えていない。痛みは波のように押し寄せた。気が遠くなるたび、わたしはそれを引っ掴んで手元へと手繰り寄せる。
いっそ気を失ってしまった方がどれほど楽だったろうか。それは絶対に許されないことだった。わたしが意識を手放せば、ふたりともそのまま帰ってこれないような気がしていたから。
何時間も、何十時間も時が経過したようだった。自分の身から流れ出た汗で、ベッドが海のようになっている。身体の内側から打ち寄せる波の律動に合わせて、ひとつの身体から別の命を取り出そうとする。その試みが何百、何千と繰り返され、やがてそのときがやってくる――。
荒い呼気を刻んでいた。視界は眩んで、上手くものごとが考えられなくなっている。研ぎ澄まされた体感覚だけが、わたしにすべて終わったことを教えてくれていた。
「……わたしの、わたしたちの赤ちゃんは……?」
首を巡らせると、修道女がいる。毛布にくるまれた赤ん坊を大事に抱きかかえて、わたしのことを見ている。彼女の眼元には涙が見える。だけど、その意味がわたしにはまだわからなくて――。
「お願い、わたしにも触らせて」
修道女は首を捻り、主治医の許可を窺った。
頷きが返ってくるのを確認すると、力尽きてベッドに横たわるわたしの傍へと屈みこみ、毛布にくるまれた赤ん坊が見えるように高さを整えてくれる。
気づくべきだった。本来あるべきものがないことを。
赤ん坊ののどから泣き声が聴こえていないことを。
「わたし、わたしの……」
震える手を差し伸ばす。汚れがまだ完全に拭われきっていない、真っ赤なその頬に触れる。そこから滑り降りるようにして次は手。赤子の五本の指は力なく垂れ下がり、わたしの突き出した人差し指に触れようともしない。
「……リラ様」
ああ、いやだ。どうしてそんな泣きそうな声を出すの……こんなの違う、違う!!
「どうかご子息様のお身体に触れてあげてください。じきに身罷られます」
「ああ、そんな……!!」
昂った感情が行き場を失くし、尽き果てたはずの涙となって視界を濁す。
わたしはわたしの産んだ赤子の顔をじっと見た。ほんのわずかな身体の揺れは、赤子の繰り返す微かな呼吸。小さな命を燃やし、必死に生きようとする意志もむなしく、徐々にか細く弱まってゆく。
修道女は抱いた赤子をさらに近づけ、自身は顔を背けた。声を押し殺して泣き始める彼女に構わず、わたしの両手が赤子に触れる。生きて、生きて。ああ、この手を伝ってわたしの命がすべて赤子に移ってくれたらいいのに。
どれほどの時間そうしていたのだろうか。わたしの心は麻痺していた。止めどなく流れ出る涙に納まる気配はなかった。意識はぼやけ、恍惚状態なのか陶酔状態なのかもわからない。鏡がないからわからなかったけれど、きっとわたし自身も死者のような顔をしていたに違いない。
「これ以上は、母体が」
誰かが役割を担わなければならなかった。この場の責任者である主治医がそれを担った。泣き続けるわたしと修道女の元へ近づき、わたしの手首を取ると、気付けのように大きく声を放った。
「もう構いませんね」
「いやよ……いや……こんなの認められない……!!」
口元を歪めて首を振った。現実から眼を背けるように。
「このままではあなたの命まで危険に晒される。医療の道に殉じる者として、私もそれだけは看過することができません」
「お願い、子どもを助けて……助けて先生……!!」
風前にあるのは赤子の命だけじゃない。そんなことはわかっていた。
今わたしの中にある命もまた、肉体から失われようとしている。それでも願わずにはいられなかった。例えこの身がどうなろうと、愛しい赤子の命だけは助けたかったから。
主治医は怯み、頭を上げた。膠着した状況を打破するため、心を鬼にすることに決めたのだろう。
わたしと、そして自分自身とに向けて深く頷くと、誰もが眼を逸らそうとする事実をはっきりと口にした。
「非常に残念ですが、もう亡くなられております」
まるで自分のものとも思えない、のどが張り裂けんばかりの絶叫が迸って、わたしの意識は遠くなっていった――。
◇
……お産のあと、目覚めたときのことを思い出す。
あれからわたしは生死の境をさまよった。何日間も昏睡状態が続き、目覚めたときには周囲にカイルの姿はなかった。
身の回りの世話をしてくれていた病院修道女が、お産に立ち会った主治医を呼んでくる。診察を受けて病状を確認し、これ以降は安静にしていれば回復するだろうというお墨付きを得た。昏睡した当日が峠だったようだ。
「……あの」
「なんでしょうか」
そこで言葉に詰まった。わたしは赤子を喪ったことを覚えている……。
「カイルは、今どこに?」
「ユースティー家のことはあなた様に一切口外せぬよう、きつく厳命されておりまして」
「えっ?」
素っ頓狂な声が出た。慌てて言葉を紡ぐ。
「わたしの夫のことですよ!? 居場所くらい教えてくれたって」
「申し訳ありませんが、ご当主様のご意向なのです」
「モルテム様が……!?」
絶句していると、主治医はとても申し訳なさそうな顔で。
「私どもも説得はいたしました。かような仕打ち、病に臥せられたリラ様のためにもならないと。しかし頑としてお首を縦に振ってもらえなかったのです。どうか、何卒ご理解のほどお願い申し上げます」
命の恩人に深々と頭を下げられれば、わたしからはなにもいえなくなる。診察を終えてひとりぼっちに戻ると、手持ち無沙汰に室内の状況を確認した。
室内の様相、窓の外の風景からも、ここがユースティー家の館の一室であることはほぼ間違いない。ただし、カイルの妻としてここに訪れたとき宛がわれた部屋とは場所が違っている。
館内の、ふだんは使っていない部屋に押し込まれているようだった。
「どうして、こんなところに……?」
疑問は続いた。生死の境をさまよったというのに、デッドロック家の者もユースティー家の者も誰も見舞いに訪れなかったのだ。このときのわたしの世界は、わたしとわたしの世話人、それに主治医の三人でほぼ完結していた。
皮肉にも、それからの体調回復は早かった。お腹の中の子を失い、わたしの生命力がわたし自身を癒すためだけに使われたからだろうか。一日半経ったところで身体を起こせるようになり、三日後には室内を歩けるようになった。その際に確認したことだが、部屋の入口は施錠が施され、主治医や修道女にしか開けることができないようだった。
「もう大丈夫でしょう……リラ様のお身体は、全快に近づかれた」
ほっと安堵の吐息を漏らしたところ申し訳ないけれど、わたしはこの主治医に訊いておくべきことがあった。
「いくつか質問があります。答えてもらえますか」
「できる範囲で、という条件付きでよろしければ」
主治医もまた、わたしの置かれた不自然な状況を説明すべきと考えていたのだろう。そのための時間を割く意思があるようだった。
「わたしをここに閉じ込めた意図は?」
「モルテム様のご意志にございます。この部屋から、一歩も外に出さぬようにと」
やはりそうか。ここでもモルテム様が暗躍していた……。
「……そう、理由は明かせないのね」
「私の口からは……しかし、ご当主様に関して以外ならば、今ならばお答えできましょう」
「カイルの居場所を教えて」
「遠くとしか伺っておりません。出向事由も不明ですが、ユースティー領におられないことはたしかです」
そんなのおかしい。だってカイルがわたしを置き去りにしてどこかへ行くなんてあり得ない。だけど、眼の前の人物に嘘を吐いている様子はない。
次に脳裏に兆した疑問は、一介の主治医にぶつけるにはいささか剣呑すぎる内容だったかもしれない。だけどいわずにはいられなかった。
「わたし、これからどうなるの?」
「どう、とは?」
「お腹の子はいなくなってしまったわ……とても悲しいけれど、これからのことを改めて話し合う必要があると思うの。家の者で、集いを持って」
本題に切り込んだ手応えがあった。その証拠に、主治医は視線を逸らすと取り出したハンカチで額の汗を拭いた。
「お家のことは、我々には関知いたしかねます」
「なにか聞いてない? どんな些細なことでもいいの」
「それは……ご当主から仰せつかっている守秘義務もありますので……」
「お願い、先生」
真摯な眼で見る。根負けした主治医が小声で続けた。
「あと三日、この部屋でお身体を癒しながらお待ちください。さすれば御身を取り巻く環境に変化が訪れましょう」
「三日ね、わかったわ」
わたしが頷くと、主治医が重苦しい溜息をこぼす。
「ご体調が安定したばかりのところ恐縮なのですが、私は次に待たせている患者を診ねばなりません。リラ様には申し訳ありませんが、本日にてお暇をいただきたく存じます」
平身低頭する主治医に、わたしからも頭を下げた。
「どうもありがとう。わたしの命を救ってくれて」
「御身のお力になることができず、大変申し訳ありません」
別れ際のセリフとしては対照的なものを残して、主治医は肩をこごめながら部屋を出ていった。
わたしは彼が去ったあとを見る。開かれたままの扉は罪滅ぼしのつもりなのだろう。その気になれば、わたしはいつだってそこから外の世界へ飛び出して行けるはずだった。
少し考えて、わたしは時を待つことに決めた。再びベッドに横たわり、じっと枕に頭を預けていると、ぼんやりと意識が溶けてゆく心地がした……。




