第6話 『切なる願い』
彼が浮かべる、満面の笑みを見たのはいつのことだったろう。
「……できるんだ、新しい家族が」
そう、きっとあのときだ。晴れ渡った休日の、一緒に散歩に出かけた先の木陰で休んでいたあのときだ。
それは唐突な告白だったように思う。同じ樹の幹を背もたれにして、わたしは隣にいるカイルに顎を向けた。
「以前からそうかもしれないって、実家から手紙があってね。主治医の診断で確定した。母上がご懐妊された」
「うわ……それ、すごいじゃない!! おめでとうカイル!!」
寝耳に水のお話で面食らいもしたけれど、カイルの笑顔に圧倒されて、わたしは思わず手を叩いていた。当のカイルはといえば、照れくさそうに頬を掻く。
「まさかこの年で兄になれるなんて思わなかったよ」
「生まれてくるのは弟? 妹?」
「あとのお楽しみだね……どちらにせよ、僕は溺愛してしまうだろうけれど」
まるで天上にいるかのようにしあわせそうなカイルを見て、その通りだろうなと思った。
「知らなかった。カイルって小さな子どもが好きだったのね」
「というより、きょうだいがかな。ほら、僕ってひとりっ子だったから」
「モルテム様には相当厳しく躾けられてたもんねえ」
わたしがユースティー家に赴いたとき、木剣を使った立ち合いで何度も地面に転がされているのを見た。それだけじゃない、モルテム様は倒れて抵抗できなくなったカイルの上から、何度も木剣を振り降ろしていた。
剣のことは詳しくはわからないけれど、わたしの眼から見てもあれはやりすぎだったように思う。
「父上は良かれと思ってやってたと思うよ。僕は嫡男で、いずれユースティー家を負って立つ身だから」
「そうなのかな。稽古やしごきのレベルじゃないように見えたけど……」
というか、わたしは見ていられなくて実際に止めに行こうとして、家の者に止めに行くのを止められていたわけだけど……。
懐疑的な眼で見ていると、カイルにも思うところがあるらしい。さっきと比べて幾分厳しい顔つきで、決意を改めるようにいった。
「同じことは、新しく生まれてくるきょうだいにはさせないさ」
「カイル……」
「自由に生きて欲しいんだ。そしてしあわせになって欲しい」
それは心からの願いだったのだろう。
見慣れたはずカイルの横顔が、わたしの眼にも眩しく見える。
空のように青く澄んだ瞳が、急にわたしの方へ向いた。
「リラにとっても他人事じゃないよ。僕たちが結婚すれば、生まれてくる命は君にとってのきょうだいにもなるんだから」
突きつけられた事実に、胸の奥を突かれたようにハッとする。
「そ、そういえばわたしもひとりっ子だったわ……どうしよう、お姉ちゃんってどんな風に振る舞えばいいのかな!?」
「それはもちろん、僕に訊かれたってわからないよ」
「慕われたいわ!! 好かれたいわ!!」
「僕も同じだよ。良いお兄ちゃんになりたいよ」
それから顔を見合わせて、わたしたちは笑い合った。語らう内容は未来への希望に満ちていて、生まれてくる新しい命を先んじて祝福するかのようだった。
人は忘れる。いずれ誰にも別れが来ることを。
違いは、それが早いか遅いかだけでしかないことを。
この世界に生まれることのできなかった赤子が、母親の手を引いた。お産によって増えるはずの家族が、逆にその数を減らしてしまう。それはきっと、人の世にはありふれた悲しみで、取り立てて大きなニュースになることもない。悲劇に見舞われた当事者にしか、その痛手の大きさを伺い知ることはできない。
カイルは変わらなかった。表面上はそのように見えた。他の人の眼なら誤魔化せたかもしれない。だけどわたしだけは知っていた。カイルが悲しみをひた隠しにしていることを。
ときおり、ぼうっとすることがあった。遠い瞳はどこを見ていたのだろう。無事に生まれることのできたきょうだいと、お母さまと家族一緒に過ごす団欒の光景だろうか。なんでもないような幸福は、手に入る直前で失われて、二度と戻ることはない。その先を見つめ続ける時間は、あまりにも空虚すぎる。
カイルは、子どもの声に敏感になった。通りからはしゃぎ声が届くと、身体ごとそちらを向いて呆けたようになる。声が通りすぎると我に返って、ずっと放置していたわたしに向かって心からすまなさそうに謝るのだ。わたしは、そんなカイルのことが見ていられなかった。
婚約者。同じ航路を行く者。きっとこの頃、わたしはその意味を深く考え始めていたのだと思う。カイルという羅針盤に導かれ、その道行きの伴走者となる。そんな自分の未来に疑いを挟むことはなかった。だけど、きっともうそれだけじゃ足りないのだ。カイルがわたしを導いてくれるように、わたしもまたカイルの力になりたいと心の底から願い始めていた。
だから、わたしは――。
◇
万人にとって平等なものがあるとすれば、それは時の流れだ。
祈りと、手紙の日々は続いた。季節が一巡りし、冬から春に戻る。地下礼拝堂にひざまずく膝の冷たさが和らぎ、赤く腫れた霜焼けも治りかけた頃、郵便馬車の馭者であるレオナルドが最新の情報を話してくれた。
「南の拠点近くの村で、守備兵のうわさを耳にした者がいたのです。南方遊牧民の国境への侵入頻度が上がっているらしいと」
「カイルの身が危ないってこと!?」
矢も楯もたまらず問い返すと、レオナルドが難しい顔をした。
「カイル様の配置がわからないので、そこまではなんとも」
「そっか……そうよね」
「追って情報が入り次第、リラお嬢様にお伝えするとお約束します」
「うん、頼りにしてる……それで今日の分は?」
話題を本筋に戻すと、レオナルドはさらに渋面を浮かべて首を振った。
「申し訳ありません。今日も色よい返事はできかねます」
「激戦区だもの。わたしの手紙も、拠点のどこかに紛れてしまってるのかも」
「カイル様はきっと読んでくださっていますよ」
「ありがとう、いつも慰めてくれて」
「慰めなどでは……自分はこれで」
去ってゆくレオナルドの見送りも、随分と長い間繰り返してきた。大きく手を振って馬車を見送るわたしの姿を、村の人たちは見て見ぬ振りしてくれている。
今やわたしの存在は、この村にとっての公然の秘密だ。
「……うわさ話か」
なんとなく独りごちた。ヘレナおばあさまとは久しくそんな話をしていない。
そんな話を楽しく思っていたわたしも、きっともういないのだろう。
離れに訪れ、いつものようにヘレナおばあさまの身の回りのお世話をする。終われば、今度は館に帰って夕食までの間に所用を済ませる。
それが最近のわたしのルーティーンだったのだけれど、今日やる分の仕事は昨日のうちに済ませていた。
館の中はとても静かだ。朝方おとうさまは使用人を連れて、隣のご領主の元へ出かけになっている。人気のない廊下を、わたしは目的地を目指して歩んだ。
日の落ちていない時間に、その場所を訪れるのは不思議な感じがした。壁に据え付けられた燭台の灯りを頼りに、おっかなびっくり足を踏み出す必要もない。採光窓から差し込む陽の光だけで十分に行き先が見てとれる。
もっとも、それも地下の階段を降りるところまでなのだけれど。
「これは、ヘレナおばあさまとの約束に入っていないのだけれど」
扉を開けるとき、そんな言い訳が口をついた。悪いことをしているわけじゃない。けれどなんとなく、後ろめたいものがある。
所定の箇所に火を灯し、女神像を眼に入れる。相変わらずなにをお考えになっているかわからない表情だけれど、最初の頃よりは随分と親しみが持てる。わたしの中にあるひとつの想いを、ずっとその身で受け止め続けてくださったからだろう。
いつもの場所で、わたしはひざまずいた。
両手を組み、瞼を閉じて、一心に大切な人のことを想う。
カイルの無事を、それだけを――。
「……どうか、女神様」
深い意識の奥から、ときおり泡のように浮かび上がるものがある。それは記憶の残滓。わたしの中に残っている、かつてのわたしが経験したこと。幸も不幸もないまぜになったそれが、まるで眼の前で起こったことのように鮮明に見えてくる。
貴族学院を無事卒業し、前倒しで行われた結婚に異議を挟む人はいなかった。カイルはわたしの意を汲んでくれていたし、ユースティー家の人々もまた、悲しみから立ち直る機会を探していた。
わたしがリラ・ユースティーであった期間はそう長くはない。それは決意と不安の時間だった。ユースティー家に招かれたわたしは、自らが決めた役割を果たすためだけに日々を生きていた。
程なく、新しい命を授かった。主治医からその旨を聞かされたときは頬を涙が伝い、すぐ傍で手を握ってくれていたカイルもまたうれし涙を滲ませた。
「いったでしょ、あなたへの贈り物があるって」
「リラ、本当にありがとう……僕を父親にしてくれて」
涙を拭って、わたしのお腹に手を当てる。とても暖かで、やさしい手。
「気が早いよ。この子がもっと大きくなるまで、カイルには会えないんだから」
笑顔で、母親が子どもにそうするように愛する夫の髪を撫でた。カイルはきっと知らなかったはずだ。わたしが笑顔の下で、どんな重圧に耐えていたかなんて。
――このお産は、失敗できなかった。
表面上は祝福された結婚に見えても、胸の内で快く思わない人もいる。それがユースティー家現当主のモルテム・ユースティー様で、カイルの実の父君でもあられるお方だった。
「学校出たての若造が、結婚などと生意気にすぎる」
仮に両家のほぼ全員が賛成を表明し、裏でおとうさまが取りなしてくれていなければ、最後まで反対の意思を納めなかったかもしれない。そのくらい、モルテム様はわたしたちの結婚を嫌悪していた。
館で出会う際も、まるで虫けらでも見るような眼でわたしを見た。
熊のように身体の大きな壮年男性に睨まれると、威圧感に身が竦んで動けなくなる。固まってしまったわたしの脇を通りすぎながら、ぽつりとこぼした言葉を今も忘れられない。
「……邪魔だ、どけ」
擦れ違い際、肩で押されてよろけてしまった。勢いで逆側の肩を壁にぶつけた痛みを押し殺し、わたしは去ってゆくモルテム様の大きな背中を見た。
大丈夫だと、自分に言い聞かせた。わたしのわがままを快く思わないモルテム様も、初孫の顔さえ見ればきっと理解してくださる。今はまだじっと耐える時間なのだ。ここで音を上げてなんていられない。
忙しい日々のさなかにあって、カイルはわたしの元へと足繁く通ってくれた。
日に日に大きくなるわたしのお腹に耳を当てて、祈りのように瞼を閉じる。
「そんなに頻繁に会いに来なくたって大丈夫だよ。生まれてくる子は逃げたりなんてしないから」
「僕が会いたいんだ」
お腹から耳を離して、カイルはとびきりの笑顔でわたしを見た。
「ずっと願っていたことだから。新しい家族を迎えることが、僕の生きている意味なんだ」
「大袈裟だなあ」
思わず吹き出してしまうと、カイルは大真面目に首を振った。
「大袈裟なんかじゃないよ。リラ、君は僕に最高の贈り物をくれようとしている。新たな命の誕生は、人の営みの神秘だ。人にとって最高の希望なんだよ」
そう語るカイルの顔は生き生きとしていて、わたしはほろりときてしまった。
「リラ? どうしたの? なにか痛いところでも……」
「ああ、違う違う。これはうれし涙だよ」
人差し指で涙を拭って、わたしは自分の選択が間違っていなかったことを知った。
「わたし、あなたのそんな顔が見たかったの……ずっと、ずっとよ!!」
わたしの身体に宿った新しい命。それは自らを外の世界へ誘わんと、母親の力を借りてすくすくと育つ。
日に日に大きくなるお腹はきっと、母体から提供される栄養のみで育っているわけじゃない。それはきっと、私たちの心にある希望とともに育っている。
カイルの顔に、以前のような生気が戻ってきた。失われた命が新たな命で埋め合わされるなんて、きっとそんな単純な話じゃない。けれど今のカイルは未来を見つめている。わたしと、生まれてくるこの子と、三人で家族になれるそんな未来を。
だからわたしは、わたしのできる精一杯で、それに応えよう――。
新たな決意を固めたわたしの身に変調がきたしたのは、それから数日後のことだった。
微熱が続き、薬を飲んでも下がらなくなった。倦怠感と食欲不振、それに思考に靄がかかったような状態がずっと続く。
「わたし、がんばらなきゃ……元気にならなきゃ……!!」
そんな気持ちだけが空回る。カイルは心配して、以前に増して足繁く会いにきてくれた。彼に不安を感じさせないよう、わたしは体調を押して平気そうに振る舞う必要があった。
「リラ、まだ熱は下がらない?」
「うん……けど微熱だし大丈夫だよ。学校行ってた頃にもよくあったし」
軽はずみな嘘でも、いつものカイルなら信じた。わたしのことを信じてくれていたからだ。
けれど今、この瞬間に至っては疑心は晴れない。
「どうかわかって欲しい。もう君ひとりの身体じゃないんだ」
「うん……ごめんね」
「謝らないで。そんな必要ないよ。僕はただ、君のことが」
「それもわかってる。わたし、絶対に元気になるよ。約束する!!」
気持ちの、想いの力だけで肉体が完調するのなら、きっとわたしは元気になれていたはずだ。お腹の中にいる生まれてくる子どものため、出産のその日に向けて、身体を元に戻せたはずだ。
だけど、肉体は意に反した。一向に収まらない微熱は徐々に高くなり、連動して体調も悪化する。常に寒気が収まらず、自らを掻き抱いてガタガタと震えていないと我慢することができない。どんなに重い病に罹ったときにも、ここまでの症状が出たことはなかった。
「リラ」
「カイル……来てくれたのね……!!」
カイルがお見舞いにきてくれたときだけは、そんな姿を見せるわけにはいかなかった。高熱に頬を赤く染めながらも、訪れた夫にニッコリと微笑む。
「お産、もうすぐになったね。わたしのお腹も随分と重たくなったよ。生まれてくる子も、やっとあなたに会える……」
熱に浮かされて思考が定まらない。これも、用意していた文言を暗唱しただけだ。カイルはしかつめらしい顔をしている。
「今はそのことは考えないで」
「どうして? やっとなのよ。わたし、やっとあなたに……」
待ち焦がれた希望はもう眼と鼻の先にある。
なのにどうして、そんな泣きそうな顔をするの?
「君もわかってるはずだ。もうそんな次元の話じゃない。僕はもう、家族を失いたくないんだ」
「わかってる。だから、わたしがんばるよ!! あなたと、この子のためなら、いくらだってがんばれる……!!」
カイルはいったん口を閉じ、眼に涙の雫を作りながらいった。
「主治医に頼んできた。母体と子ども、両方の命が危なくなったら、母体の方を優先して欲しいと」
「カイル!!」
わたしの眼からも涙がこぼれる。その言葉を、心のどこかで予感していた……。
「お願い、子どもを優先して!! わたしはちゃんと、自分の力だけで生きられるから!!」
「もう決めたことなんだ……ごめん」
カイルは踵を返した。その頬には涙が伝っていた。わたしもまた自分の感情を制御することができない。高熱でブレーキが焼ききれてしまっている。
「どうしてよ……どうして……!!」
ひとりぼっちになった自室で、シーツを手繰り寄せて顔を覆った。堰を切ったように溢れる涙に納まる気配はない。
わたしが悪かったのだろうか。カイルのためになにかがしたい、そんな気持ちが間違っていたのだろうか。心を埋めるそんな後悔すらも遅すぎる。わたしはもう、自分が上手くやることでしか事態を好転させることができないのだから。
「……絶対に、無事にあなたを産んでみせるからね」
膨らんだお腹に両手で触れて、わたしはわたし自身の決意を呟くしかなかった……。




