第5話 『準男爵令嬢リラ・デッドロックの、新しい日常』
日が昇るより先に起き出したことはなかった。夜気に底まで浸かった廊下は冷えきっていて、履物越しにも足を凍えさせる。誰もが寝床の中にいる時間。わたしだけが眼を覚まして活動を始めているのは、どこか妙な心地がする。
今朝はいつもより何時間も早く起きた。なのに不思議と眠気はない。廊下を折れると手燭を片手に、地下へ続く階段を降りてゆく。
手燭を持ち上げて据え付けの礼拝堂の扉を照らすと、わたしは掌でそれに触れて、まるで氷のようだと思う。
「……カイル」
罪深い呟きは誰にも聞こえない。
聞いている者がいるとすれば、それは……。
デッドロック家の館地下にその場所はある。貴族が自宅に礼拝堂を持つことはそう珍しくない。ただしその規模は家格に準じている。下位貴族であるデッドロック準男爵家にとって、そこは石畳が敷いてあるだけのだだっ広い空間だ。奥に気持ちばかりの祭壇がなければ、きっと祈りのための場所だと誰も気づかないだろう。
わたしは奥へと歩み、祭壇の所定の箇所に火を灯す。すべて灯し終えると、中央に据えられた女神像が暗闇から姿を現した。そのお顔には光による陰影が刻まれ、絶えることなく複雑に揺らめき、捉えどころがないようにわたしには思えた。
「なにを考えていらっしゃるんだろう……ううん、そんな場合じゃなくて」
わたしは女神像から少し離れ、向き直って正対する。神々しいその姿の前で片膝を折り、もう一方の膝も同じようにする。石畳の冷たさが衣服を貫いて、直に肌に触れたように身を刺してくる。
まだ三時の鐘も鳴っていない。日の出すら遠い時間にあって、わたしにはやるべきことがあった。
胸の前で掌を合わせ、瞼を閉じて軽く俯く。そして脳裏に、愛する人の姿を思い描く。
(カイル……どうか無事でいて!!)
己の神へと捧げる祈りは、無力な人の身に許された最後の行為だ。誰にも邪魔したり、禁じたりすることはできない。
深く深い祈りのさなかに、わたしの記憶の底から浮かび上がるものがあった――。
◇
……うわさ話が好きな、ふつうの女の子だった。
貴族学院へ足を踏み入れたとき、期待と不安で半々だったのを覚えている。ここは高位貴族の子女も通う学校で、男爵令嬢だったおかあさますら通うことのできなかった場所だ。今後のためを思って、おとうさまが懐を痛めて、背伸びして入学させてくれたのだ。わたしは期待に応えなきゃダメだ。
そんな重圧が取り越し苦労だと気づいたのはいつ頃だったろう。
周りにいる他の令嬢たちも、大なり小なり似たような境遇だと知ったときだろうか。それとも一番の不安の種だった、上位貴族のご令嬢の取り巻きにあっさりとなれてしまったときだろうか。
「慣れない環境には最初、誰だって戸惑うものよ……私もそうだったわ」
下位貴族令嬢は通常、年上の高位貴族令嬢と姉妹のような関係を結ぶ。それはこの学校に伝わる古くからの慣わしで、わたしが姉と慕う高位貴族令嬢も通った道だった。妹想いの、とてもおやさしい女性だった。
お姉さまという大きな傘の下、庇護を受けての学生生活が始まる。クラスメイトの大勢とは打ち解けてポジションを得たし、寮生活の勝手も理解し始めていた。お勉強は苦手だったけど落第するってほどじゃない。あれよあれよといううちに、周囲の環境が整っていった。
生活に余裕が生まれると、肩の力が抜けて地の自分が顔を出すようになる。
「……リラってさ、うわさ話が好きだよね」
いつ頃だったか、面と向かって友だちにそんなことをいわれた。
「そうかな?」
「あれ、自覚ない? あたしらがうわさ話してると飛んでやってくるのに」
「うーん、そういえばそうかも」
指摘を受けるまで、深く考えたことはなかった。誰かが楽しそうに話していたら、聞きに行くのがふつうではないのか。
「自分でやってた話まで打ち切って、こっちにくるってのはふつうの定義からズレるでしょ。好奇心が強めっていうか」
「わ、わたしはふつうだよ!!」
「あはは、そんな大否定しなくていいって。誰だってみんな同じようなもので、リラはそれがちょっと強いってだけだからさ」
きっと悪気はなかったんだろう。だけどそのやりとりはわたしの心に残って、ことあるごとに気にかかった。
自覚的になって初めて、見えてくるものもある。たしかにわたしはクラスメイトの間のうわさ話に耳聡かった。談笑の声を聴きつければ無意識のうちにそちらに近づいていくし、自分が話す番でも気がそぞろになる。どうしてもその場から離れられないときは、心ここにあらずで耳だけそばだてている。
なぜか、と考える日々が続いた。なかなか答えを出せない疑問は、ある日まったく別の方向から氷解することになる。
とある授業の合間の休憩時間のことだった。訓練着に着替えた男子生徒が校舎の中から出てくるのを、窓際に寄ってみんなで見学していた。
「はー、やっぱりイバン様ってかっこいいなあ……もう婚約者いるのかなあ」
「そりゃいるんじゃない? エルドレ殿下だってミネルヴァ様とずっと前からご婚約されてたでしょ」
「あれは特別でしょ。今のうちに、私にもワンチャンくればなあ」
「貴族学院は出会いの場でもあるもんね。基本、男女交際禁止だけど」
「アベル様みたくガン無視してる人もいるけどね」
「顔は良くても、遊び人とは嫌だよね。つまみ食いされて、ポイ捨てされるのが落ちだし」
「はは、いえてる。ちょっと前にも下級生が舞い上がってて、見てらんなくてさあ……」
とそこで、友だちがわたしの方へと眼をやった。連動して周囲の視線も集中してくる。
「……ちょっと、なに?」
「いや、リラはいいなあって思ってさ。たしか婚約者いるんだよね。カイルくんだっけ」
未来の夫をくんづけ呼ばわりとはどんな了見だ、とは思ったものの、みんなも同じ気持ちらしくニヤニヤとしてこちらを見ている。
「どのくらい前から婚約してたんでしたっけ」
「わたしが十歳のときだから七年くらい前かな……それがどうかしたの?」
「幼馴染で婚約者かあ。お熱いですなあ」
ヒューヒュー、と一丸となってはやし立ててくる。傍目にはいじめのように見えるけど半ば冗談、半ば羨望といった感じだ。付き合いが長いからわかる。
「……からかってるならぶつよ?」
などと口にしながら、特に本気でもなく手を挙げる素振りをしてみる。
わっと蜂の子を散らして離れてから、みんな笑顔を浮かべた。
「ごめんて。でも羨ましいのは本当。あーあ、私も恋人欲しいなあ」
「作ればいいじゃない。ナンパでもなんでもしてさ」
「そんな簡単なものじゃないでしょ。親の許可とかね」
「そーそー、やっぱりデキる親は最初からちゃんと決めとくもんっしょ!!」
ざわざわと騒がしくしながら、周囲の視線がわたしに集中している。このクラスで婚約者持ちはわたしだけなのだから仕方ない。
「婚約者がいる気分ってどんな感じ?」
「どんな感じといわれても……一口に言い表しづらいというか」
問われて、考えた。わたしにとってカイルとは? 七年前の初対面のとき、恥ずかしがってモルテム様の後ろに隠れていたことは覚えている。そこから連れ出して、顔を隠していた両手を無理矢理引き剝がしたのはこのわたしだ。子どもの頃のこととはいえ、あまりにがさつすぎる。
掌の下から現れた顔はまるで茹でダコのように真っ赤で、だけど結構可愛い顔しているなと、幼心に思ったものだった。
「先が決まってることに不満はない?」
「カイルとの将来にってこと? そんなの別にないよ」
「でも、他にもっと良い男が現れるとかさ」
どうなんだろう? そんな仮定は考えたこともなかったけれど……。
「うーん、やっぱりないなあ。カイルに不満もないし、たぶん受け入れちゃってるんだと思う」
貴族学院入学まで、結構な時間をカイルと過ごしてきた。最初は特別だった時間も、会う頻度と回数が増すにつれ、空気のように自然なものになっていった。
今じゃお互いのいない未来は考えられないし、想像したことすらない。
「なんかリラ、ラブラブっていうより悟ってる感じがする」
「そうなのかな……これもやっぱり自覚とかないんだけど」
「ズバリ訊きます。カイルくんのこと好きか嫌いかでいえば?」
「えー? ……やっぱりそれは、好き、かな」
きゃーっという黄色い悲鳴が、教室中いっぱいに木霊した。
気づいたのはたぶん、この問答のとき。わたしはなぜうわさ話を好むのか。それは決まりきった自分の人生以外の、他人の人生を垣間見たかったからだ。
はにかみ屋で物静かでやさしくて、でもよく見たら可愛い顔をしているわたしの婚約者。カイルはわたしにとっての羅針盤だった。その瞳が見つめる先、同じ航路をわたしはただ伴走する。そんな未来に疑いを挟むことはなかったし、それで良いと思っていた。だから悩みらしい悩みが、このときまでずっとなかったのだと思う。
実のところ、カイルのことで騒がれるのは嫌じゃなかった。
準男爵令嬢であるわたしにとって、子爵令息であるカイルとの婚約はなかなかの好条件だし、カイル自身の容姿も気に入っていた。名だたる高位貴族令息たちに並び立つことはないけれど、あとで思い返したら良い線行ってたなって思うような、結構素敵な男の子だったのだ。
そんなカイルの心に翳りが差すことになるなんて、このときはまだ思ってもみなかった――。
◇
祈りの時間を終えると、わたしは自室に戻る。
書き物机はほこりを被っていた。貴族学院を出てからはとんと使った覚えがないので仕方ない。元々不勉強な娘で、長期休暇で戻ったときにもあまり出番はなかったのだけれど、今度はそれの比じゃない。数年単位で放置されていたものだ。
だからやることは、まず掃除。要らない物を捨て、天面のほこりを払って、雑巾でピカピカに磨き上げる。わたしの心の方もそうなってくれれば助かるのだけれど、さすがにそういうわけにはいかない。ほどほどで妥協して、椅子を引いて腰かける。
便箋を広げる。傍らに置いたインク瓶にペン先を浸して、その先端を広げた便箋の初めに置きにいく。
『親愛なるカイルへ』
それだけ書いて、限界がきた。ぼたぼたと落ちる大粒の水滴が邪魔をした。わたしの瞳から止めどなく涙がこぼれてゆく。
「なんで……」
こみ上げるもののせいで、続く言葉すらいえない。わたしは書き物机の上で腕を組み、顔を落としてわっと泣き出してしまった。
そんな日々を繰り返し、実際にその先を書き進めることができたのは、五日も経ってからのことだった。
『親愛なるカイルへ リラ・デッドロックです』
カイルの名前の隣に、自分の名を書き連ねた。同じ姓を名乗れない悲しみにまた涙が溢れそうになって、慌ててその先の文言を速記する。
書き終えた便箋を手紙に入れて、蠟で封をする。館を出ると坂を下って、一番近い村に出る。まだお昼には程遠い時間。賑やかな村の風景の中に、お目当ての姿を認めて足早になった。
「馭者さん」
「誰だ……って、リラお嬢様じゃないですか!? なんでこんなところにまで」
「届けて欲しい手紙があるの」
そういって、顔馴染みの青年に手紙を差し出す。少し前に父親から仕事を代替わりした青年が、驚いたようにわたしの顔を見た。
「わざわざ村まで降りられなくとも、お館にまで取りに伺いましたのに」
「ごめんなさい。でも……マーキスおとうさまに知られるわけにはいかなくて」
「どういうお手紙なんですか?」
彼は昔からデッドロック家の館に出入りしていて、実直な性格も知っている。わたしは正直に事情を明かすことにした。
「……そうですか、カイル様が」
「郵便馬車なら、馬車駅伝いに南まで届けられるはずよね」
馭者の青年は難しい顔をして、帽子で自分の目線を遮った。
「もちろん、届けます。他ならぬリラお嬢様のお心がこもったお手紙ですから……しかし、確実に到着するのは国境防衛部隊の拠点までです。そこから先は軍部へと管轄が代わります。カイル様の手元にまで無事に届くか、保証することはできません」
知っていた。南は激戦区だ。間欠的に攻撃を繰り返す南方遊牧民を撃退するため、前線部隊は国境をなぞって作られた長城に控えている必要がある。
「構わないわ、お願いできる?」
「しかと承りました」
彼に手紙を託して、来た道を戻る。館の正門を入ると玄関には向かわず、わき道から離れへと至る。
「来たね」
戸口を開けると、起き出していたヘレナおばあさまに出迎えられた。わたしは扉を締めると、無言のままヘレナおばあさまに向き直る。
「いつもより少し遅かったね。あたしに吉報を知らせてくれるんだろ?」
「はいヘレナおばあさま……わたし、今日はちゃんと手紙を書きました」
「マーキスには見つからなかったかい?」
「見つかっていません。街道を避けて村に降りて、馭者さんに託しました」
「そうかい」
言葉が途切れて、わたしはヘレナおばあさまのお世話にかかった。日々のルーティーン。やることが決まっている間はそれに集中して、多くを考えずに済む。
「膝の具合はどうですか?」
「牛歩だねえ。けど、徐々に良くなってる感じはする。リラのお蔭だね」
「いえ、そんな……」
なぜだか、面と向かって褒められることが多くなった。わたしは頬を火照らせながらも、ヘレナおばあさまの足のマッサージに注心した。
身の回りのことを一通り済ませたら、お茶を淹れて休憩時間だ。一度館に戻って持ってきたティーセットで、ふたり分のお茶を準備する。
「どうぞ、熱いので気を付けて」
「ありがとうね」
湯気の立つティーカップの中身を一口含み、それを見た。扉の内側に走った傷。短慮に走るわたしを止めるために投げつけた、ヘレナおばあさまの煙管が作ったものだ。
「ちゃんと約束は守ったかい」
「わたしはなにも求めない……カイルの無事以外は」
それは最初の取り決め。ヘレナおばあさまと交わした約束。
「手紙には、今のわたしのことを書きました。カイルに返事は求めていません」
「それでいい。きっと長丁場になるからね」
「ヘレナおばあさま」
名を呼ぶと、ヘレナおばあさまはティーカップを持ったままこちらに向いて。
「最近、祈りの時間に良く思い出すんです。昔のことを。貴族学院に通っていた頃の自分のことを」
わたしの表情が不安げに見えたのかもしれない、ヘレナおばあさまは人好きのする笑顔になって励ましてくれた。
「無心に祈りを捧げ続けるなんて、誰にでもできることじゃないさ。特にあんたは、日に何時間も祈っているわけだしねえ」
「そうかもしれません」
わたしも笑顔で受け取って、話を続ける。
「あの頃は無邪気で、未来を疑うこともしていませんでした」
「カイルとあんたは長かったからねえ。いわば半身みたいなもんさ」
「実際、そう思ってたんだと思います。ずっと一緒にいる人だって」
ティーカップを両手で包んで、中の水面に向けて話しかける。
「……けど、そうじゃなかった。今のわたしはカイルと遠く離れた場所にいて、もう二度と会えないかもしれない」
「愛別離苦は避けられない人の定めさ。誰もがいずれ直面する」
「一目会いたいって、願ってしまいそうになる」
「そうだろうねえ」
しみじみといって、ヘレナおばあさまはもう一度お茶を啜った。煙管は扉に投げつけたとき破損してしまっている。口寂しさを紛らすものがそれしかなかったのだ。
「……話、するかい」
「え?」
「前にいってたろう。あたしの気に入りそうな話があるって。仕事はほどほどにしてさ、今日はそれについて語ろうじゃないか」
そういえば、最近はヘレナおばあさまと長話する機会を持たなかった。手持ちにストックだってある。けれど……。
「ごめんなさい。そんな気分じゃなくて」
「たまには気を抜くことだって必要だよ」
「ありがとうヘレナおばあさま。けれど今は、カイルのことだけ考えていたいの」
お茶を飲み終えて、離れを辞した。去り際にヘレナおばあさまがくれた「がんばりな」という励ましがなによりもうれしかった。
そうだ、今日はまだ一歩前進しただけだ。わたしの行動はこれからだって続く。いつかカイルが無事に故郷へ帰ってくる、その日まで――。




