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ヘレナおばあさまはお見通し ~この婚約破棄、得したのは誰?~  作者: ソーカンノ


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第11話 『リラとカイル』

 前後が崖になっている沢の近くに、彼はいた。


 目当てを付けて、方々を走り回って、やっと辿り着いた当てのひとつ。そこには過去の思い出が眠る。親が取り決めた婚約者同士であるわたしとカイルの、本当の意味での馴れ初めがあった場所だった。


「運命の悪戯のようなものね……あのときはあなたが探しに来てくれた。今度はわたしの番だなんて」


 崖の狭間を、清流が流れる音がする。その手前側、見張り用に使われていたあばら家の傍にあるベンチに腰を降ろして、戦士が休息のときを迎えている。


「鎧を着用していますが、ユースティー家のものではありません。刻まれた紋章もここからではどこのものか判別しかねます。まずは私がお声がけを」


 馭者台越しにこちらを振り返るレオナルドに、わたしは首を振った。


「いいえ、あれはカイルです。わたしが迎えに出ます」

「ではご同行のご許可を」

「必要ないわ……わたしにはわかるもの」

「しかし」

「ごめんねレオナルド、ふたりきりにして欲しいの」


 じっと眼を見つめると、レオナルドが引き下がってくれた。浅く頷き、わたしの意思を尊重しつつも最善の判断を語ってくれる。


「もし危害を加える素振りがあれば、助けに出ます。それだけはご許可を」

「わかったわ。重ね重ねどうもありがとうね」


 スカートの両端を持ち上げて馬車から降り、カイルの元へ歩を進める。幾晩も寝ずに馬を飛ばしてきたのだろうか、その頭は前後に船を漕いでいて、いまだこちらに気づく様子はない。


 彼の姿が眼に入る距離にきてようやくわかることがある。破損した鎧。泥を被ったような汚れ。防具に守られていない箇所には無数の生傷があり、場所によっては乾いた血の痕もある。戦場帰りというより、いくさの場からそのまま抜け出してきたような凄惨な出で立ちに、わたしの足がたじろいだ。


 胸に手を当て、眼を閉じて一度考える。わたしがここに来た真の理由を思い返す。それは終わらせるためだ。そして今度こそ前に進むため。ここで恐れてなんていられない。


 わたしは深く息を吸い、そして声に出した。


「カイル」


 真に愛しい人の名を告げると、ベンチの彼の瞼が動く。そして。


「僕は……眠っていたのか? ここまで辿り着いて、気を軽くして……ダメだな。まだ本当の目的地まで着いていないというのに」


 空は晴れ渡り、雲の隙間から戦士に陽の光が降り注ぐ。筋になった光の帯が、目覚めたばかりの彼をこちら側の世界へと呼び戻す。


 疲れ切った肉体の目覚め。鋭敏になった感覚が人の気配を察知する。彼はゆっくり瞼を開くと、こちらに首を巡らせた。


「リラ? ……違うな、彼女がここにいるはずがない。僕はまだ夢を見ているのか……?」

「カイル」


 もう一度名を呼ぶと、その瞳が見開らかれてゆくのが見えた。

 飛び出すように身を起こし、立ち上がってわたしに正対する。


「リラ!! 夢じゃないのか!! でも、どうしてここに……!?」

「うわさを聞いて、あなたのことを探していたのよ」


 緊張に満ちた戦士の面持ちが、ほっと安堵のものへと変わる。

 カイルはわたしの元へと足を踏み出そうとした。


「来ないで」


 場に響く制止の声に、カイルの足が踏み出した先で止まる。


「わたしたちがここで会ったのは、久闊を叙するためではないわ」

「そう……だったね……」


 傷だらけで、鎧を纏ったままその場に直立する。二度と会えないと思っていた。わたしはそんなカイルの顔を今、真正面から見つめている。夢のような気持ちならわたしだって一緒。だけど本当に大切なのは、現実の続き。


「あなたの家からふるさとに帰って、ずっと考えていたことがあるの。わたしにとってのあなたは、いったいどんな存在だったんだろうって」


 お産で身体を壊して、なにも聞けないまま実家に帰ってきた。当時のわたしには考える時間だけがあった。かつての夫だった人、カイルのいない日々を過ごしながら、自分にとっての彼の意味をずっと探していた。


「あなたは、わたしの半身。それまで、あなたのいない人生なんて考えたこともなかったわ。だからどうにかしてもう一度会いたいと思った。あなたにも、モルテム様にも手紙を送って」


 カイルはものいいたげに口を開きかけたけれど、すぐに閉じて視線を落とした。話を聞く姿勢を取ってくれたのだ。


「……でも、会えなかった」


 深く俯くカイルの顔に、罪悪感のような翳りが滲む。


「寂しかったし、悲しかった。それからのわたしは、あなたのいない日常を精一杯繰り返していただけ。心の痛みに蓋をして、必死に見ない振りをして、自分の人生を人に押し付けて生きてきた……あなたが南の戦場に赴いたと耳にした、そのときまで」


 他人の絶望を逃避の糧にしていた、そんなわたしに突如として突きつけられた事実。


 それはまるで、これまで過ごしてきた日々の罰のようでもあった。


「それからは、祈りと手紙の日々だった。あなたの無事を願って祈りを捧げ、毎日手紙を書いた。そのうちに理解したことがあるの。あなたは本当はわたしの半身なんかじゃない。カイル・ユースティーというひとりの人間なんだって」


 さあっと風が吹く。血や泥で汚れたカイルの金髪が、無事な部分だけ金糸のように舞った。


「カイル、あなたが無事でいてくれて本当にうれしいよ」

「リラ、僕は……」


 わたしは首を振って、自分が話すべきことを話す。


「でも、ここじゃない。デッドロック領はあなたにとって通りすぎた過去の場所よ。あなたのしあわせはここにはない……お願いだから、ふるさとに帰って」


 別離の言葉を口にするとき、きっとわたしは泣くだろうと思っていた。馬車の中でも、カイルと相対するこの瞬間までも、その確信だけは揺らがなかった。


「あなたには帰りを待っている人がいる。でも、それはもうわたしじゃない……わたしなんかじゃないのよ……」


 打ち明けてしまえば、どこか胸の支えが取れたような気がする。ずっと抱えていた想いの丈を伝えられたからだろうか。それともこれで本当に終わりだと、今度こそ心から信じられたからなのだろうか。


 わたしは口を噤み、彼の姿を見る。その足が踵を返し、本来いるべき場所へと帰路を辿るその瞬間を、見届けようとする。


 カイルは動かなかった。わたしの前に立ったまま、静かにその眼から涙をこぼしていた。


「カイル……?」

「ごめん、すぐに収まる」


 右手に着けた篭手で乱暴に涙を散らして、真っ赤になった瞳をわたしに向ける。そして――。


「リラ、君の気持ちをないがしろにするつもりはない。だけど故郷に帰る前に僕からも話をさせてもらえないだろうか。かつての婚約者、かつて君の夫であった男として、どうしても伝えないといけないことがある」


 真剣な声音だった。わたしも息を飲んで頷きを返した。まさか昔のようなはにかんだような笑みが返ってくるだなんて、思いもよらない。


「……この場所のことは覚えている?」

「忘れたりしないよ。わたしのこと、あなたが見つけてくれた」


 カイルとともに崖を見た。十年以上昔のことを思い出す。花を摘もうとして谷底に落ちたわたしを、カイルが探し出してくれたことを。


「月のきれいな夜だった。ここにしか咲かない花を摘みに行って、誤って崖から落ちてしまった君のことを必死に探した。あのときは冷静ぶっていたけれど、本当は心配で気が気じゃなかったんだ」


 打ち明け話には打算があると思った。だけど直に眼にするカイルの姿と、彼らしい穏やかなその口ぶりに、わたしの心が懐かしい過去へと、失ってしまった過去へと引き戻される。


「正直にいうよ。君を見つけたとき、僕は自分が誇らしかった。婚約者である君の役に立てたって、あのとき初めて思えたんだ」


 当時を懐かしむ郷愁の笑みに、どこか自嘲の色が混じる。


「きっと年相応に、幼くて無知だったのさ」

「カイル……そんなことないよ」

「いいや、自己満足さ。無邪気なだけに最悪の」


 眼を瞑って首を振るうと、面差しから過去の影響が消える。


「この先の話は信じてもらえないかもしれない。だけど僕には君に伝えなくちゃいけない義務がある。どうするかは、話を聞き終えてから決めて欲しい」


 カイルの、彼なりの覚悟を持って発した言葉だった。無下にする権利ならわたしにだってあったはずだ。受け入れたのは未練のためじゃない。わたしもまた真実を知って前に進みたかったから。


 こくんと深く頷くと、カイルは浅い頷きでそれに応える。


「……ありがとう」


 どこか安堵した礼を告げて、己自身に向けた厳しい顔つきに戻る。


「君のお産の報を受けたあと、僕は父上に連れられてユースティー領の外側にいた。こちらからどれだけ懇願しても、君のいる館へと戻ることは許されなかった。家に関わる重大事だと聞かされていたんだ」


 当人のいう通り、にわかには信じがたい話だ。死産を経たわたしの身よりも優先すべき事情なんて、当時のカイルには考えられないはず……。


「モルテム様を置き去りにして戻ろうとは思わなかったの」

「それは……考えはした。いや、それこそがふつうの考えだと思う」


 カイルの顔に、当時の苦悩が現れる。相当苦しんだのだろう。


「馬車内で口応えする僕に業を煮やして、父上がいったんだ。僕たちにはこれからやんごとなき人物と面談する予定があると……それが、イバン殿だった」


 イバン・ガストン――王宮でアベル公爵令息を決闘の末に殺害し、その咎を受けて南の国境へと左遷された侯爵令息。


 だけれど……どうしてこの時点で彼の名前が出てくるの?


「イバン殿の話では、南の国境を守護する勇士を募っているとのことだった」

「嘘よ……そんなのありえないわ。だってイバン侯爵令息は、アベル公爵令息を斬り殺した罪で、南の国境防衛を命じられたはず……!!」


 そうだ、これではおかしい。時系列の前後が逆転してしまっている。

 カイルは淡々と、既に見聞きしたことを語るように告げた。


「南の国境防衛部隊の再編は、それより以前から計画されていたものだ。王宮での事件は、それに態のいい理由を付け加えたに過ぎない」


 混乱で言葉が出てこなかった。話すことでそれに応えるつもりなのだろう、こちらの反応を待たずにカイルが続ける。


「うわさに違わぬ美しい男だった。初対面でも実に堂々としていて、僕のことを足先から頭頂まで値踏みするような視線で見てきた。めったにしないおべっかを使う父上の姿を見て思ったよ……このふたりは、同じ穴の狢なんだって」


 このときのカイルの所見は正しかった。危篤状態にあるわたしを館に置いて出向いたにもかかわらず、カイルにはユースティー領への帰還が許可されなかったのだ。


 イバン侯爵令息の所有する修練場で、南へ赴くそのときまで、ひたすら鍛錬に打ち込むことを強要されていた。


「どうしてそこまでして……」


 絶句するわたしに、カイルもまたあきらめたように首を振る。


「僕にもわからなかった……いや、まだわからなかったんだ、このときは」


 子を喪い、妻にすら会えず、ただ肉体を痛めつけることのみを強要される。そんな日々に意味を見出すことなんて不可能だ。カイルもまた複雑な気持ちを抱えていたのだろう、モルテム様とは何度もやり合ったらしい。


「父上はいったよ……ユースティー家の嫡男ともあろう者が、くだらぬことに気を乱されるとは何事かと。それこそが貴様の忌むべき惰弱なのだと」


 周囲にはカイルと同じ境遇の勇士たちの姿があった。けれど当然の要求すら一顧だにされない状況で、カイルの心は孤独をかこつしかなかった。


 そんな状況に転機が訪れた。一時的にユースティー領に戻っていたモルテム様から、とある用件で直々に召喚がかかったのだ。カイルの心に一時の希望が灯った。剣を置き、馬を走らせて故郷へと戻る。


「まさか、その要件っていうのは……?」

「君に会うためだ」


 カイルの断言に、胸の奥がざわつきを覚えた。

 返事の来なかった手紙は、先にモルテム様の手に渡っていた……?


「それで、あなたはどうしたの?」

「約束の日に、館で君のことを待っていた……君は、来なかった」

「…………」


 わかっている。擦れ違いがあったはずはないと。雪が降りしきるユースティー家の館の前で、わたしは凍えながらその門が開くのをずっと待っていた。もしカイルが館の中にいたのなら、見えないはずがないのだ。


「父上と話をした。もしかしたらリラは、道中のどこかで足止めされているのかもしれない。そして直訴した。僕に、リラを探しに行かせて欲しいと」


 結果を示唆するように、カイルが首を振った。


「断固として拒否されたよ。礼を失し、約束を違えた娘をこちらが探しに行く道理などないと。それでも食らいつく僕に、父上は打ち明け話を聞かせたんだ」


 心臓が跳ねるような不穏な感覚を、カイルの言葉が裏付ける。


「僕たちの結婚の話だ……君が、早い結婚を望んだのは僕のためだったと聞いた」


 昏い瞳がわたしを見る。わたしは思わず視線を逸らしてしまう。わかってしまったからだ。その話は、他ならぬマーキスおとうさまの口からモルテム様へ伝わったものであると……。


「お産で母上を喪い、生まれてくるはずだったきょうだいも喪った。塞ぎ込んでいた僕を元気づけようとして、君は大切な贈り物をくれようとした。そのために結婚の予定を早めたんだね」


 それは……その通りだった。

 カイルに喜んで欲しくて、元気になって欲しい一心で、わたしは……。


 口を噤んで無言になることが、これほどまでに肯定を意味することもないだろう。カイルはすべてを察して続ける。


「なにも知らなかった。僕は浮かれていた。君の心中を理解しようともせず、父親になれることを無邪気に喜んでいた。家族が増えることの意味を、少しも考えていなかったんだ。だからあんなことが起こった。僕の願いが、子どもの命だけじゃなく、君の命までも奪いかけてしまったんだ……!!」


 ――違う!! カイルが罪悪感を覚える必要なんてない!!


 声を大にして否定したかった。なのにわたしの瞳からも止めどなく涙がこぼれてしまう。なにも乗り越えられていない。向き合えてもいなかった。我が身に起こった不幸も、あの子の死も……。


 カイルは首を振ると、自分にいい聞かせるように告げた。


「……これが、僕の中にある忌むべき惰弱の正体だった。失意のままに館を出て、修練場で剣を振り続けた。不思議なことに、自分の身体を痛めつければ痛めつけるほど、気持ちが楽になっていく気がした。敵は南にいる、それを打ち倒すのが僕の使命だと、信じようとしていたんだ」


 やがて時が満ちる。王宮で巻き起こった婚約破棄と決闘騒ぎ。そこで自らが負った傷が癒えるのを待って、イバン侯爵令息が南の国境へ打って出た。


「……帯同したのね、あなたも」

「僕の惰弱が、君を死の間際まで追い込んだ。僕には、どうしても自分が強くなった証が必要だったんだ。南にならそれがあると思った」


 カイルの境遇に想いを馳せる。心当たりならばあった。それはきっとヘレナおばあさまの離れにいたわたしと同じ。つらい現実から眼を背けて、当て外れな物語の中に逃げ込もうとした。


 カイルたち一行が南に赴いてからも、長城は南方遊牧民たちの間欠的な侵攻に遭遇した。転戦に次ぐ転戦の甲斐もむなしく、攻撃は激化の一途を辿る。多くの人死にが出た。頭数が足りなくなり、残された勇士たちも多忙を極める。


 そんな矢先、カイルの元にとある人物が訪れた。


「彼の名前はラルゴ・クレインといった。足りなくなった兵士の代わりに、拠点と長城を往復して物資を搬送する役目を負っていた。その彼が、僕宛ての手紙の束を持ってきてくれたんだ……けれど僕は、話すら聞かずに追い返そうとした」


 敵はまだ健在だ。いつ攻撃が再開するとも限らない。そんな緊張状態にありながら、必要物資ですらない手紙など運搬するとは何事か――!!


 血気に逸ったカイルは、なおも手紙を渡そうとするラルゴに激怒したらしい。


「感情的になっていたんだ。証を手に入れようとして。そんな僕を根気強くなだめて、彼は手紙の差出人の名前を読み上げてくれた……リラ、君だった」


 自室に戻ったカイルは、分厚い束になった手紙の紐を解いた。

 そして古い方から順に、その内容に眼を通していった。


「手紙の中には、懐かしい君がいた。南の国境から遠く隔たったデッドロック領で、今も生きている君の生活が書かれていた。手紙の中で君は、最後に必ず僕の無事を祈ってくれていた。それで僕にもやっと理解できたんだ。僕たちの道はもう、完全に別たれてしまったんだって」


 翌日、カイルはラルゴに平身低頭して謝罪した。


 頑なに凝った心が、戦場に残された最後の親切心すらもないがしろにしようとしたと。ラルゴは笑って許してくれた。そして彼らは、義兄弟の契りを結んだ。


「ラルゴは南には珍しい、瞳にふるさとを宿した男だった。クレイン領に残した小さな妹の結婚式を見るまで、絶対に死ねないと笑っていたよ。最初は不謹慎だと思った。この戦いは絶対に勝ちきらねばならない。甘さを残した勇士から先に死んでゆく。けれど……間違っていたのは僕の方だった」


 ラルゴは、カイルが必死に捨て去ろうとした世界に、今も生きていた。


 かつては己の中にもあったものを見せられて、カイルの心は感化される。そして、世界の見え方そのものが変わった。国境をわかつ堅牢な長城、その身を賭して守るべき土地、その真の姿を知ったのだ。


 カイルはいった。


「……僕たちがしていたのは、意味のない戦いだった」


 国境をわかつ長城の周囲は、草も生えない不毛の大地。農作物の栽培に適さないどころか、放牧の類すらも成り立たないほどの。そんな価値のない場所を、カイルたちは王国の尊き領土として決死で守らされていた。


 削れたところで誰の懐が痛むこともない、砂塵吹き荒ぶ荒野を――。


「それでも国境の守護は、ハーツ王国の版図を守ることになるわ」

「喪われた命の数に釣り合っていると本気で思うかい?」

「それは……」


 思えない。わたしがカイルの見てきた地獄を知らないからじゃない。カイルのように親類に無理に連れ出された勇士たちが、命を散らしていいような場所ではない。


「僕は父上に、ラルゴは叔父上に連れられて長城に訪れた。勇士に仕立て上げられた僕たちの戦いは、なにかを守るためのものじゃなかった。そこにあったのは鋼のような意地だ。イバン殿も南方遊牧民の長も、決して譲れぬ完璧な勝利のために、互いに命を削り合っていたんだ」


 敗北に等しい痛み分けが続き、司令部が狂気を帯びてきた。軍議の際には口汚い罵り合いが起こり、意見も平行線を辿ることが多くなる。刃傷沙汰に発展しなかったのは、きっと運が良かっただけに過ぎないのだろう。


 ……最後は、イバン侯爵令息がすべてを決めた。


「長城を出て、決戦に打って出ることが決定した。そのための敵情偵察部隊が組織された。投入される人員は最少数で、僕とラルゴがその任に当たった」


 名誉ある役柄に見えても、実態は決死隊だ。情報を持ち帰られればいくさを有利に進められるが、反面その身に降りかかる危険は大きい。


 カイルたちの隠密行動は、最悪なかたちで決着を見た。


「森を走っていたとき、待ち伏せを受けた。乱戦になって、僕とラルゴは何人か斬り伏せたけれど、代償も大きかった。ラルゴが負傷してしまったんだ」


 カイルは悲しげな眼で、自身が身に着けた鎧を見る。脇腹にある大きな破損部位は、その奥にある急所を守り通せたとは思えない。


「それで鎧を交換したのね……」

「馬も渡した。長城ではなく、妹の待つふるさとへと彼を送り出すためにね」

「…………」


 やっと事情がわかった。前に発見されたカイルと思しき亡骸の正体は、カイルの鎧を身に着けたラルゴのものだ。彼は愛する妹の待つクレイン領へと帰り着くことができなかったのだ。


「……命の使い道なら決めていた」


 右手を持ち上げ、開いた掌を見てカイルが呟く。


「その森は南方遊牧民のテリトリーで、馬なしでの脱出は不可能に近かった。最期まで足掻くと決めていた僕は足を止めることなく、やつらの追手を退け続けた。でも、それにも限界がきて、僕は連中の矢を受けて意識を失ってしまったんだ」


 幾日も森の中で昏睡していたカイルの鼓膜を、とある音が揺らす。


「遠くで人の声がした。目覚めた僕は必死に足を動かし、声の聴こえてくる方向へと突き進んだ。すると木々が終わって開けた場所に出たんだ。森の終端部から、僕はその光景を見た」


 視線の先にある平地で、最後の合戦が始まろうとしていた。


 色も模様も違う旗を掲げたふたつの軍勢が、睨み合って対峙している。放棄された長城を背中に負い、イバン侯爵令息率いる軍勢は国境の南側、南方遊牧民の地に布陣していた。


 先駆けて姿を見せたイバン侯爵令息が馬を反転させ、抜き放った剣で天を指す。それを見た男たちの勇ましい雄叫びが方々で上がった。追い詰められた国境防衛軍の士気は高く、カイルの眼からは右翼の指揮を任された、モルテム様の姿もはっきりと見えていた。


「……戻ろうと思った。戻って加勢しなければと」


 一度森へ入ろうと踵を返しかけたとき、カイルの眼があるものを捉える。


「暗雲があった。黒く分厚い暗雲が、両軍の頭上から垂れ下がっているのを見たんだ。それはまるで蛇のようにとぐろを巻いて、空から戦場にいるすべての人間を操作しているように、僕には思えた」


 我欲――いつかヘレナおばあさまから聞いた言葉が甦る。


 さして価値のない土地を奪い合うために、彼らはこれから悪魔に憑かれでもしたように、殺し合いを演じようとしていた。


 そして、それを見たカイルもまた――。


「でも、僕は戻らなかった……リラ、これを見て欲しいんだ」


 カイルの右手が、左腕の矢傷を覆っていた包帯を解いた。

 両手を使って恭しく広げたそれを、わたしへ差し出してくる。


「よく見て欲しい。そして思い出して。これがなんであったのかを」


 いわれた通り、わたしはじっと凝視した。滲んだ血で真っ赤に変色した布切れの質感が、記憶の中にある忘れられない思い出と符合する。


「カイル……あなた、これ」

「おくるみだよ。僕たちの子をくるんでいた毛布だ」


 わたしはそれを両手で受け取ると、耐えきれずに自分の顔を埋めた。

 止めようにも勝手に溢れ出てくる涙が、毛布の布地を濡らしてゆく。


「ユースティー領をあとにする際、お産に立ち会った病院修道女が手渡してくれたものだ。僕と君の、元気に生まれるはずだった子どもをくるんだものだと彼女はいっていた。僕はそれを、お守りとしてずっと身に着けていたんだ」


 おくるみを持ったまま膝を折って泣き崩れるわたしの肩にそっと触れ、カイルもまたその場に片膝を突いた。


「ずっと探していたの……あなたが持っていてくれたのね……」

「ああ、そして最後に僕の命を救ってくれた」


 カイルの差し出す手を取って、わたしたちは立ち上がる。


「急ぎ加勢に向かおうとした僕の腕を、このおくるみが引いてくれた。木の枝に引っかかったんだ。不意の出来事が、僕に冷静さを取り戻させた。ぶつかり合う両陣営の姿が、さっきよりもずっと見えるようになった」


 鬼神のように剣を振るい、並み居る敵を薙ぎ倒してゆく――イバン侯爵令息の姿は、まるで殺戮を楽しんでいるかのよう。


 居丈高に号令を飛ばし、自身は弓矢で遠方の敵を射抜いて笑う――モルテム様の瞳は、いくさを勝ち抜いた先に待つ報償に既に眩んでいた。


「……あれは誰のためでもない、自分のための戦いだった」


 カイルはきつく、そう断じた。


「不毛な戦いを見つめて、考えることがあった。それは僕の戦う意味だ。手にした強さを証明したいのなら、今からでも彼らの戦いに加わればいい。だけど今の僕に必要なのはそんな証じゃなかった。たったひとつの声に応えることだって、やっと気づいたんだ」


 ――『どうか無事で』


 それはわたしが手紙に必ず書き綴った、結びの言葉。


「自分がなにをしたかったのか、すべきだったのかやっと理解した。僕がすべきだったことは眼の前にいる敵を打ち倒すことじゃない。無事に君の元へと帰り着くことだったんだ」


 おくるみを胸に抱くわたしへと、カイルが微笑みかけてくる。


「リラ、もう一度君に会いたかった。君と話がしたかった。君に笑っていて欲しかった。君に触れたかったし、君に触れて欲しかった……帰る場所なら間違っていないよ。ふるさとは場所だけを指す言葉じゃない。僕にとってのふるさとは君なんだ」


 ずっと一緒にいた人だった。だからわたしにだってわかる。

 カイルは嘘をいっていない。その瞳は、今もふるさとを宿す。


「カイル……ダメだよ。だってあなたには、新しい女性ひとが……」


 泣きながら首を振っても、カイルの瞳はわたしから離れたりしない。


「君を忘れようとした。約束の日のあと、父上に連れられて新たな婚約者を紹介されたんだ……でもできなかった。うわさは父上の手の者が流したものだ。君とヘレナ様の耳聡さを懸念して、最小限度の情報だけを流したんだ」


 今のカイルは婚約を結んでいない……?

 でも、今さらそんなことをいわれたって。


 揺れるわたしの心を、揺らがない瞳の持ち主が引き寄せる。


「この命は失われていたものだ。君と、僕たちの子がいなければ。戦場から離れたあと、僕はずっと考えていた。君たちが守ってくれたこの命がなんのためにあるのか、今ならそれがわかる。リラ……僕は君のものだ」


 一歩近づき、カイルは自身の胸に手を当てる。


「自分でも虫が良いって思っているよ。君が本当に苦しくてつらいとき、ひとりきりにしてしまった。夫失格だっていわれても仕方ない。でも、僕には君しかいないんだ。忘れられなかった。夢に見ていた。いつかきっと、君に再会できることを」


 そしてその手を、わたしに向けて差し伸べた。


「どうかこの手を取って欲しい。そして僕にもう一度君と生きるチャンスをくれないか。今度こそ、僕は間違ったりなんてしないから」


 鼻を啜り上げて、わたしはカイルの顔を見上げた。やさしい笑み。とても懐かしくて、いつかのわたしが見たがっていたものに似ていた。


「……良いの?」

「ああ」


 篭手を嵌めたままのカイルの掌に、おそるおそる指先で触れる。たちまちのうちにわたしの手は握り込まれて、力強く引き寄せられ、気づけばわたしはカイルの胸の中にいた。


「カイル!! カイル!! わたし、本当はずっとこうしたかったの!!」

「僕もさ……リラ、君のいない人生に意味なんてない。もう離れたりしないよ」


 お互いに涙を流し、会えなかった時間を取り戻すかのように、思う存分抱き締め合った。それはまるで、失った半身が我が身に帰ってきたかのような抱擁。何日だってそうしていたい欲求を振り切って身を離したのは、わたしの方からだった。


「カイル……わたしね、あなたにどうしても伝えたいことがあるの」

「なんだい」


 わたしを慈愛の笑みで見つめているカイルへと、わたしは――。


「つらく悲しみに満ちた時間はもう終わり。これからは希望のために生きてみたいと思うの……だからね、だから……わたしたち、もう一度挑戦しよう!!」


 瞳を丸く見開いて驚いたように、それから納得したように眼を細めて、愛するわたしの夫は力強い答えを返してくれる。


「ああ、もちろんだとも」


 力強く頷き合ったわたしたちは、まるで胸に宿る気持ちを行為で伝えるかのように、お互いの唇を重ねたのだった。

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