第10話 『甘く、遠い思い出』
蹄の音とともに流れてゆく、車窓の風景。
幼い頃、年に何度かカイルがデッドロック領に訪れた。滞在には大好きだったお母さまがご一緒して、デッドロック家の館に泊まる手筈になっていた。
カイルの住むユースティー領には都市部が多い。だからだろうか、自然豊かなデッドロックの地に来ると、とても興味深そうに周囲を見回していた。木々の梢。鳴きやまない虫。繁茂する名もない草花。群れになって飛ぶ鳥。穏やかな田園風景。静かな川のせせらぎ……。
そういった風景をキラキラと眼を輝かせて見ているものだから、そこに住んでいるわたしとしても是非案内したくなる。
「リラ、そろそろ帰らない?」
「どうして? この先の崖にしか咲かない花、見たくないの?」
「そりゃ見たいけど……」
土地勘がない場所を歩くのに不安があったのだろう、カイルはわたしの後ろをおっかなびっくり付いてきている。
「臆病なのね。そんなんで立派な騎士様になれるわけ?」
「な、なるさ!! ……あんまり自信ないけど」
マーキスおとうさまはいっていた。カイルは将来、騎士になることが決まっているって。でも当時のわたしは思っていた。騎士様っていうのはカッコよくて勇敢で、女の子をグイグイ引っ張っれる男性じゃないとなってはいけないのだ。その点、わたしの婚約者様はどうにもダメダメな気がする。
「不安なら、ずっとそこで待ってれば? 崖に咲く花ならわたしが摘んできてあげるから」
「あ……待って!! リラ!!」
せっかく館から連れ出してあげたのに、不安そうにするだけでちっとも楽しそうじゃない。イラっときたわたしは、カイルを置き去りにして目的の場所へと走っていった。
「あった、これね」
岸壁を手がかり頼りに伝い降り、斜面に咲いた花へと手を伸ばす。
それは常日頃から、家の者に危ないと禁止されていた行為だった。
案の定というべきか、その代償は高くついた。
「あいたたた……」
崖下の沢に落ちてしまった。落下の衝撃は水が受け止めてくれたけれど、尻餅を突いた状態から起き出そうとしたとき、右の足首に鋭い痛みが走った。おそらく、足を挫いてしまっている。
わたしは半分遊泳、半分匍匐前進の奇怪な動きでようやく岸辺に辿り着いた。濡れた服もそのままに、頭上を見上げる。視界の大半を聳え立つ崖が埋めてしまっている。近くを通りかかっても、誰も気づいてはくれないだろう。
帰る当てをなくし、わたしは三角座りで落ち込んでいた。負傷した右足首がズキズキと痛んで、じんわりと涙を流し始める。
カイルは家の人を呼びに行ってくれただろうか。わたしのことを見つけてくれるかな。淡い期待は日の翳りとともに絶望に変わっていった。星々の光が瞬き始める頃合いになると、すぐ近くで獣の遠吠えがして、わたしは寒さに恐怖も相まってガタガタと震え始めた。
(誰か……誰でもいいから早く助けに来て……!!)
そんな手前勝手な泣き言、叶うはずがない。さらに時間が経過し、周囲は夜の底にどっぷりと沈んでいた。間断なく続く水の流れる音と、次第に増えてゆく遠吠えの数が、わたしの心をどんどん追い込んでいった。
(もう、助からないのかな……)
あきらめに似た思いで、空を見上げた。泣き腫らしたわたしの眼が、夜空に煌めく星々に混じって、不思議な軌道で動く光を見る。それは左右に不規則に揺れながらも、どんどんとこちらに降下しているようだった。
「リラ!! いるのかい!!」
カイルだ!! わたしは三角座りの体勢のまま、肺を痛めるくらい深く息を吸って大声を出した。
「わたしならここよ!!」
「待ってて!! すぐそっちに行くから!!」
大声での応答のあと、安堵で気持ちの糸が切れたのだろう。わたしは声を上げて泣きじゃくり始めた。程なく、ランタンを片手に持ったカイルが到着する。
「ごめん、待たせた。助けを呼ぶのと、これを持ってくるのとで」
「カイル……あなた、片手しか使わずにこの崖を降りてきたの?」
せっかく助けにきてくれた婚約者様に対して、あまりにもあんまりな一声だ。わたしとしてもついこぼしてしまった疑問なのだけれど、真面目なカイルは真摯に受け取った。
「父上にいわれてるんだ。デッドロック領でも鍛錬は欠かさないようにって。今朝も早起きして日が昇るまでずっと木剣を振ってたんだよ」
「そうなの、すごいね……」
「立てる?」
カイルの伸ばしてくれた手を掴む。腰を上げようとしたとき、右足首に激痛が走った。
「ごめん、無理みたい……」
「だったら僕が背負うよ。しゃがむから、肩を手で掴んで」
くるっと背を向けたカイルの肩に指先で触れたとき、わたしは自分の仕出かした不手際を痛感した。
「ごめんなさい……わたし、あなたにひどいことをいったわ」
「ん? なんのこと?」
「臆病だって、立派な騎士様になれないって」
ひょっとしたらこちらを思いやってとぼけてくれたのかもしれない。だけど、口にしたことを今さらなかったことになんてできない。
わたしにはちゃんと謝る義務があった。なのにカイルは――。
「その通りかもしれないね……未来の婚約者に、こんなに長くこわい思いをさせてしまったんだから」
「茶化すところじゃないよ。わたし、本当に悪いと思ってるんだから」
「リラは悪くない」
「…………」
一瞬、言葉を失った。そして良くないことを思ってしまった。
わたしを庇ってくれるその言葉が、本当のことだったらいいのにって。
「本当だよ……だってリラは、僕にふるさとを好きになって欲しかったんだろう」
「それは」
「だから今もそうやって、花を握っててくれてるんだよね」
見透かされていた驚きより先に、カイルの手がわたしの手の甲に触れた。日々の鍛錬で分厚くなった掌が、なにかを求めるように動いている。意図を察して、わたしはその手に自分の握りしめていた花を手渡した。
カイルはそれを、自分の頭上に翳すようにした。
「とてもきれいな花だ。太陽の下じゃなく、月の光で見るとより一層きれいに見える」
「お……お世辞いって機嫌取るところじゃないと思うよ!?」
なんていいつつ、わたしとしてはまんざらでもない気分がした。だってそれは本当にきれいな花で、絶対にカイルに見て欲しいものだったから。
「昼のこと、躊躇してごめん。本当は君の身が、館から離れすぎるのは良くないと思ったんだ。野生動物はときに獰猛なものだって、狩りを嗜む父上からは聞いていたから」
そうか、あの煮え切らない態度はわたしのことを思いやってくれていたからなのか……。
と納得したのも束の間、謝るべきはカイルではないことに気づく。
「わ、わたしこそごめん!! カイルのこと頼りないなんて誤解して、同い年なのにお姉ちゃんぶろうとした!! 偉そうぶって本当にごめん!!」
負ぶられながらも頭を下げると、カイルがクスッと鼻で笑った。
「頼りないのは当たってるよ。でも、そうだね……お姉ちゃんぶりたいその気持ちなら、僕も理解できるかもしれないね」
「どういうこと?」
「僕はね、お兄ちゃんになってみたいんだ」
一瞬、素に戻ってきょとんとしてしまった。気づいているのかいないのか、カイルはマイペースで話を進める。
「人に、家族に頼られる自分でありたいんだと思う。いつも弱気の虫にやられてしまっているから、憧れてるのかな」
「……カイルは弱くなんてないよ」
今度は上っ面だけでなく、心からの否定だった。話してくれたカイルの声がどこか寂しそうに聞こえたからかもしれない。
カイルはずり落ちそうになったわたしを再び担ぎ直し、歩きながら呟く。
「まだまだだよ。父上が求める域にはまったく達していない……だけど、今日の僕は意外と悪くなかったかも」
「それはどうして?」
「君を探すのに必死になれた。館に帰って、周りの大人たちに救助を求めて、僕だけ置いていこうとする彼らに抗って君を探した。お蔭で一番乗りになれた」
あのカイルが冗談をいうだなんて思えない。どこまで本気だかわからずに黙っていると、ランタンの光が照らす先になだらかな坂のようなものが見えてきた。
「ほら、あそこから上がれるよ。館に帰ったら一緒に怒られようか」
「カイル……どうもありがとう。わたしを探してくれて。見つけてくれて」
寒いのと暗いのとカイルの背中が温かいのとで、情緒がてんでメチャクチャになってしまっている。わたしはカイルの首に腕を巻きつけて、きゅっと後ろから密着するようにした。
「大袈裟だよ。僕じゃなくたって、大人ならきっと見つけたさ」
「でも実際に見つけてくれたのはカイルだわ。わたしの不安を取り除いてくれたのも」
「リラ……そうだね。君の婚約者として少しは務めを果たせたのかもしれないね」
負ぶられたまま、カイルの足取りを見る。
心なしか、さっきよりも自信に満ちた歩き方に思えた。
なぜだろう、さっきから全身が熱い。心臓が早鐘を打っている。水に濡れて、凍えて、熱でも出てしまっているのかもしれない。頭もぼうっとして、どうかしてしまっているのだと思う。
だからきっと、これは譫言のようなもので、心の底からの本音だった。
「ねえカイル、わたしね、本当にあなたのことが――」




