第20話。ある日の猫カフェ。
(平常心平常心……)
店長・芦澤みのりは心の中でその単語を繰り返す。
スタッフルームの椅子に座り、そっと息を吐いた。
ブォーン……という空気清浄機の機械音とともに、ヒック……としゃくりあげる音が響いている。
チラリと目を向ければ――スタッフ以外の女性が、目の前で肩を震わせていた。
その姿を見て、内心ではぁ……とため息を漏らす。
みのりがそっとティッシュを差し出せば、シュッと引き出す音の後にズビーッと鼻をかむ音が聞こえた。
「お客様……」
「…………ッ」
みのりが声をかけると、女性がビクリと肩を振るわせた。
「……猫は、残念ながら気まぐれです。犬のように寄り添ってくれない子が多いです」
「……っ、て、……もっ……」
「ええ、お辛かったんですよね。
よく分かります」
そういう時もありますよ――そう言えば、女性の目からはさらにボロボロと涙が零れた。
「それでも。自分の想いだけで振る舞っちゃうのは違います。
怒ってる人は、人間でも怖いでしょう?」
ヒグッ、とすすり上げる音が目の前から聞こえてくる。
そう、そもそも――
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来店した時から、見るからに彼女は不機嫌だった。
「いらっしゃいませ、ようこそ『よりみちねこのカフェ』へ。
お時間は30分からで、ワンドリンク制でペットボトルの購入をお願いしております」
そう声をかけるとフンッと鼻を鳴らした後、メニューを指差した。
「30分で、ドリンクは……コレで」
「ありがとうございます。
ペットボトルは後でお持ちしますね。お荷物をこちらのロッカーに入れて、おくつろぎください」
ゆかりさんと二人で頭を下げると、また彼女はフンッと鼻を鳴らす。荷物をロッカーに入れた後、窓際へとノシノシ歩いていった。
ゆかりさんとチラリと目を交わし、肩をすくめ合う。
スタッフルームに向かうゆかりさんを見送り、みのりはそのまま彼女の様子をうかがった。
いつもならクッションで丸まっている猫たちが、誰もいない。窓際にいるのは、そこで立ち尽くす彼女一人だ。その背中が、プルプル震えているように見えた。
ゆかりさんはまだ出てくる様子はない。
カウンターから立ち上がり、声をかけに行こうとした瞬間――彼女が急に振り返り、キャットハウスと兼用の棚に飛びついた。
「?!」
その様子に驚く間もなく、バタバタと走り回る音と「シャーッ!!」と威嚇する声が聞こえる。
(ああ、ダメだ――)
「お客……」
「ッ! なん、でッ……! っ、アタシ、ッ……!!」
兼用棚の影で姿は見えないが、食いしばるような声が聞こえてくる。
……猫たちの声がしない、ということは、あの子たちは彼女の手の届かないところに逃げたのだろう。
「お客様」
みのりが近寄って声をかけると、彼女が顔を上げた。その目には涙が溢れていて――
「……本来お招きする場所ではないんですが。
こちらで、少しお話しませんか?」
コクリと彼女が頷いた。カウンター側まで戻っていたゆかりさんからペットボトルを受け取り、店をお願いする。
彼女と一緒に、みのりはスタッフルームへと入った。
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「朝から色々あったんですね……」
コクリと彼女が頷く。
スタッフルームでペットボトルを飲んだ彼女の第一声は「ごめんなさい」だった。
朝から踏んだり蹴ったりで――そう零す彼女は、癒やしを求めて立ち寄ってくれたらしい。それなのに猫たちに逃げられてカッとなった、そうつっかえながら話してくれた。
自分がいない間に、狙っていた仕事が人に取られた。陰口を言われているのが聞こえてきた。
(嫌だなぁ……)
どれか一つでも嫌なのに、重なるときつい。
癒やされたくて立ち寄ったのに、猫が寄ってきてくれない――それも、きつい。
もちろん猫は悪くない。猫だってイライラした人が来たら逃げたくもなる。
本当にたまたま。それが重なって、彼女の限界が来てしまった。
聞けば一人暮らしで、友達もいないらしい。話を聞いてくれる人もいない、とか……
(地獄すぎる……)
自分だったらと思うとゾッとする。
どうしようかな――そう思った時、ふと視線を感じた。見れば、そこに朔夜がいる。
「さく」
かけた声に、朔夜がじっと見……フンと鼻を鳴らした。
のそりのそりと仕方なさそうに近づき、テーブルに乗ってくる。目の前の女性が目を丸くしていた。
「朔夜、って言います。
良かったら撫でてやってください」
おそるおそる、といった感じで女性の手が伸びる。触れたその手が、朔夜の背中をゆっくりと滑っていった。
「……あったかい」
もう一度女性の手が朔夜の背に伸びる。朔夜は動かずにその手を受け入れ、また背中を手が滑っていく。何度か繰り返された後、女性の口元が少し緩んだ。
「猫は追っちゃダメですよ。
家具になったつもりで、待ってみてください」
そう声をかければ、女性がコクリと頷いた。
少し笑みを浮かべて何度も朔夜の背中を撫でる彼女を見て、もう大丈夫そうかな、と思う。
「……戻りましょうか」
女性がコクリと頷いた。
こちらを心配そうに見つめる金橋さんやゆかりさんに頭を下げて、一緒に窓際に戻る。
彼女が帰るまで、朔夜が寄り添ってくれた。




