第三章 消えた男
紬と別れた翌日。
誠司は休みを取った。
昨夜からほとんど眠れていない。
机の上には古びた封筒が置かれていた。
紬から渡されたものだった。
何度も手に取った。
だが開く勇気が出ない。
美咲の名前を見るたびに胸が痛んだ。
十五年経っても変わらない。
自分でも呆れるほどだった。
窓の外では小雨が降っている。
誠司は意を決して封を切った。
中から出てきたのは便箋ではなかった。
一枚の地図だった。
手描きの地図。
山奥へ続く細い道。
そして赤い丸印。
その横に書かれた文字。
『悠人の場所』
誠司は眉をひそめた。
悠人。
神崎悠人。
昨夜、写真で見た男だった。
美咲の夫。
そして、すでに亡くなったはずの男。
なぜ今さら。
なぜ自分に。
答えは分からない。
だが行かなければならない気がした。
誠司は車を走らせた。
町を離れ。
山道へ入る。
雨に濡れた木々が窓の外を流れていく。
一時間ほど走った頃だった。
地図の示す場所に辿り着いた。
湖のほとりだった。
静かな場所だった。
風もない。
鳥の声も聞こえない。
湖面だけが灰色の空を映している。
その岸辺に小さな木造小屋が建っていた。
古びている。
だが手入れはされていた。
誰かが定期的に訪れているようだった。
誠司は扉を開けた。
中へ入る。
そして息を呑んだ。
一面の写真だった。
壁という壁に写真が貼られている。
美咲。
美咲。
そして美咲。
笑っている。
怒っている。
眠っている。
料理をしている。
桜を見上げている。
どの写真も自然だった。
誰かを信頼している顔だった。
誠司は動けなかった。
自分の知らない美咲がそこにいた。
十五年前で止まったままの記憶ではない。
結婚し。
子どもを育て。
人生を歩いた美咲だった。
胸の奥が痛んだ。
嫉妬ではない。
喪失感でもない。
もっと複雑な感情だった。
ふと机が目に入る。
一冊のノートが置かれていた。
表紙には名前があった。
神崎悠人。
誠司はゆっくりページを開く。
日記だった。
最初のページにはこう書かれていた。
『今日、美咲と出会った。』
誠司は読み進めた。
ページをめくるたびに神崎という男が見えてくる。
不器用で。
真面目で。
誰かを愛することに全力な男。
そして。
あるページで手が止まった。
『高橋誠司という男のことを知った。』
誠司は息を呑む。
『美咲は何も言わない。
けれど分かる。
その名前を聞く時だけ少し顔が違う。』
鼓動が速くなる。
ページをめくる。
『嫉妬した。
本当は嫌だった。
だが責めることはできない。
俺にも忘れられない人がいたからだ。』
さらに先へ進む。
『美咲は俺を愛している。
それは分かる。
でも人の心は一つじゃない。
誰かを愛しながら、
別の誰かを大切に思うこともある。』
誠司の視界が滲んだ。
読みたくない。
でも目を逸らせない。
『もし俺がいなかったら。
美咲は高橋と幸せになっていたかもしれない。』
その一文が胸に突き刺さった。
長い沈黙。
小屋の外で雨が強くなる。
誠司は椅子に腰を下ろした。
初めてだった。
神崎悠人という男を憎めなくなったのは。
むしろ。
会ってみたかった。
話してみたかった。
同じ人を愛した男として。
その時だった。
ノートの最後のページから何かが落ちた。
一枚の封筒だった。
真新しい。
他のものよりずっと新しい。
宛名はない。
ただ一行だけ書かれていた。
『午後十時四十五分 三番線で待っています』
誠司は眉をひそめた。
三番線。
そんなものは存在しない。
十五年前に廃止されたホームだった。
列車事故のあと閉鎖されたままになっている。
誰も使わない場所。
誰も近づかない場所。
なのに。
なぜそこに呼び出すのか。
誠司は封筒を握りしめた。
窓の外を見る。
湖面が揺れていた。
灰色の空の下で。
まるで誰かが待っているように。
その夜。
午後十時四十五分。
誠司は十五年間立ち入ったことのない三番線へ向かうことになる。
そしてそこで、
彼の人生を変える再会が待っていることを、
まだ知らなかった。




