「フェンリル」
36話です。
湖の水面が、また揺れた。
ルクスの過去を映していた光景が薄れ、代わりに冷たい白が広がる。
雪ではない。
氷だった。
石造りの通路。
白く凍りついた壁。
割れた器具。倒れた研究員。
セリアは息を呑む。
「……ここも、王国の施設?」
ノクスは静かに頷いた。
「同じ場所。別の記憶」
カインの表情が変わる。
いつもの軽さが消えていた。
「……やめろ」
誰に言ったのか分からない声だった。
けれど、水面は止まらない。
景色の奥で、少年が膝をついていた。
幼いカイン。
息は荒い。
その背後で、巨大な氷の狼の影が揺れている。
研究員の声が飛ぶ。
「制御不能だ!」
「失敗作だ、処分を——」
その言葉が終わる前に、床が凍った。
白い氷が走り、部屋ごと飲み込んでいく。
セリアの手が震える。
「……カイン」
カインは答えない。
映像の中の少年は、周囲を見ていた。
壊れた扉。
逃げ惑う子供達。
その中に、小さなルクスがいた。
幼いルクスは、混乱したまま立ち尽くしている。
氷が迫る。
その瞬間、幼いカインが叫んだ。
「逃げろ!」
幼いルクスは動かない。
カインは歯を食いしばる。
「お前だけ逃げろ!!」
その声に、現在のルクスの目が揺れた。
何かが繋がる。
断片。
声。
冷たい廊下。
そして、誰かの背中。
「……ああ」
ルクスが小さく呟いた。
「これ、覚えてる」
カインが顔を歪める。
「……お前は、そこだけかよ」
ルクスはカインを見る。
「全部は知らない」
少し間を置いて、続けた。
「でも、お前が逃がした」
カインは笑わなかった。
「違う」
低い声。
「俺が壊したんだ」
映像の中で、施設が崩れていく。
氷が暴れ、壁を砕き、命を奪っていく。
幼いカインは自分の手を見ていた。
止められない力。
そして、遠くへ消えていく幼いルクスの背中。
セリアは言葉を失っていた。
カインはずっと知っていた。
ルクスのことを。
けれどルクスは、助けられた記憶だけを持っていた。
「……だから」
セリアがようやく口を開く。
「フェンリル戦の時、あんた……」
カインは目を逸らす。
「ああ」
短く答える。
「生きてるはずがねえと思った」
沈黙。
カインは拳を握る。
「壊したはずだった」
ルクスは少し考えてから言う。
「壊れてないぞ」
あまりに普通の声だった。
カインが目を見開く。
ルクスは続ける。
「逃げろって言われたから、逃げた」
「だから今いる」
カインは何か言おうとして、言えなかった。
セリアも同じだった。
過去の景色はさらに変わる。
凍った施設を抜け、幼いカインは外へ出る。
傷だらけで、凍えるような夜。
行く場所などなかった。
王国は彼を失敗作と呼んだ。
処分対象と呼んだ。
だから少年は歩いた。
何日も。
何も持たずに。
そして、雪原の奥で出会う。
巨大な氷狼。
その長。
咆哮が雪を揺らす。
幼いカインは震えていた。
けれど、引かなかった。
そこへ、白い少女が現れる。
魔王。
今と同じ姿。
変わらない瞳。
「生きたい?」
幼いカインは答えない。
魔王は首を傾ける。
「なら、証明して」
氷狼が襲いかかる。
少年は戦った。
獣のように。
人のように。
どちらでもないまま。
やがて、氷狼の長が倒れる。
雪原に静寂が戻る。
魔王は少年を見下ろした。
「これからは、フェンリルと名乗れ」
それは救いではなかった。
優しさでもなかった。
けれど。
存在を認める言葉だった。
映像が薄れていく。
セリアは黙ったままカインを見る。
「……じゃあ、急にいなくなったのって」
カインは視線を外す。
「そういうことだ」
その声は、少し苦かった。
「お前を置いていったわけじゃねえ」
セリアの胸が詰まる。
幼い頃。
王国に保護されて、眠れなかった夜。
ぶっきらぼうに隣へ座ってくれた少年。
「寝ろ」
それだけ言って、朝までいてくれた。
その人が、ある日突然消えた。
ずっと、少しだけ恨んでいた。
「……なんで言わなかったのよ」
カインは苦笑する。
「言えるかよ」
それだけだった。
セリアは唇を噛む。
怒ればいいのか、泣けばいいのか分からなかった。
その時、湖面が赤く揺れた。
炎。
燃える村。
泣き叫ぶ人々。
幼いセリアが、炎の中で立ち尽くしている。
そして、その前に一人の少年が飛び込む。
幼いルクス。
セリアを引っ張り、崩れる家屋から逃がす。
「……ルクス」
セリアの声が震えた。
ルクスは映像を見ても、どこか曖昧な顔をしていた。
「……これも、少しだけ」
覚えている。
でも全部ではない。
炎の向こうに、赤い影が見えた。
イグニス。
今よりも少し若いが、ほとんど変わらない姿。
カインが低く言う。
「あいつだ」
セリアの呼吸が止まる。
「イグニスは昔から魔王側にいた」
カインは続ける。
「少なくとも、俺よりずっと前からな」
「じゃあ……実験体じゃないの?」
カインは首を振る。
「多分違う」
燃える炎を見つめながら、言った。
「あいつは最初から“そういう存在”だ」
映像が消える。
湖は再び静かになった。
誰もすぐには話せなかった。
ルクスの過去。
カインの過去。
セリアの過去。
全部が、別々だと思っていた傷が、同じ場所へ繋がっていた。
セリアはゆっくり顔を上げる。
「……確かめなきゃ」
声は小さい。
でも、震えていなかった。
「王国に」
カインが見る。
「行くのか」
セリアは頷いた。
「知らなきゃいけない」
王国が何をしたのか。
自分が何を信じていたのか。
何を守ろうとしていたのか。
ルクスはセリアを見た。
「分かった」
止めない。
責めない。
ただ、そう言った。
カインは少しだけ目を伏せる。
「戻れば、敵になるかもしれねえぞ」
セリアは静かに答える。
「それでも行く」
湖の奥で、ノクスがこちらを見ていた。
何も言わない。
選ばせるように。
セリアは拳を握る。
王国へ戻る。
真実を知るために。
そして、自分で選ぶために。
36話でした小出しにしてた情報をようやく拾うことが出来ました




