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混沌の科学  作者: 藤原時照


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うるおい

「うーん、生活にもう少しうるおいがほしいかも」

 みゆきが変なことを言い出した。

「そういえば、良平さん、ヤ▽ハのキーボード持っていたわよね?」

「ああ、うん、レンタル倉庫の方に置いてある」

「ね、こっち持ってこない?良平さんのピアノ聴きたいな。私も久しぶりに弾いてみたいし」


 というわけで――

 レンタル倉庫から持ち出したキーボードはリビングに置くことになった。

 ヤ▽ハ、ピアジェー□。

 76鍵のキーボードだ。

 一般的なピアノは88鍵。

 市場に出回っているキーボードの主流は61鍵。

 ちょうどその間の鍵盤数だ。

 大抵の曲は61鍵盤で弾ける。

 弾けない曲も、61鍵向けのアレンジがある。

 だが、後藤は76鍵を選んだ。

 それは彼のプライドゆえの選択だ。

 後藤は子どもの頃、ピアノを習っていた。

 それなりの腕だったという自負があった。

 でも、小学校で、それは女のすることだと馬鹿にされてやめてしまった。

 やめてしまったが、後藤の中には、ピアノに対する感傷のような気持ちが残っていた。

 大人になってからもずっと。

 とある映画に、主人公がさりげなくピアノを弾いて見せるシーンがあった。

 それを見たら、自分だって、と思ってしまった。

 その後、ことあるごとに、またピアノを弾きたい気持ちが募っていった。

 そして、後藤はピアジェー□と出会った。

 しかし、現実は残酷だった。

 あまりにも長いブランクは、後藤からピアノのセンスを奪っていた。

 楽譜さえ読めなくなっていた。

 和音に差し掛かると、音を読みとり、さらには指の位置を確認する作業が必要だった。

 和音があると、そこで数秒間音が止まってしまう。

 結局、基礎からやりなおすことになったが、仕事人間の後藤には時間がない。

 練習する余裕がない。

 なんとか時間をやりくりして弾けるようになったのは、歌謡曲の初心者バージョンだけ。

 いい気になって買い揃えた上級者用の楽譜は、本棚でほこりをかぶっていた。


 みゆきは本棚からJ-POPの定番曲集を持ってきた。

 上級者向けの楽譜だ。

 彼女もピアノは久しぶりだったらしく、最初は何度もつっかえていた。

 しかし、三十分もすると、彼女の指の動きは滑らかになった。

 部屋にメロディが流れる。

 それはアイドルの歌う曲。

 その曲は、ただにぎやかなだけというイメージが強かったが、みゆきの手から流れるメロディは、記憶にあるものとはまるで違っていた。聴かせるために編曲された楽譜であるから、ちがうのは当たり前かもしれない。しかし、後藤には、理由はそれだけではないように感じられる。みゆきの中からやさしい何かが流れ出てくるようだ。

 ピアノの音にあわせ、部屋を覆う植物がリズムをとるように揺れている。

 植物たちからは、その気持ちを顕すアロマが湧き出ているようだ。

 部屋の中に何かが生まれている。

 後藤にはそう思えた。

「ああ、ひさしぶりだと指が動かないね」

「いや、それだけ弾ければ十分じゃない?」

「そんなことないわよ。はい、交代」

 あの演奏のあとでは……。

 そう思いはしたが、後藤はスツールに腰を下ろした。

 夜〇ノムコウ。

 後藤がなんとか間違えずに弾けるようになった曲だ。

 弾けるといっても、それは初心者用の楽譜。

 聴かせるようにアレンジは入っているらしいが、初心者用であることに間違いはない。

 だが――

 空間を支配する何かが、後藤に力を与えた。

 それは後藤の才能を押し上げる。

 後藤の指から流れるメロディは、子どもの頃の後藤と同等以上に引き上げられていた。

「良平さんもなかなかね」

「恐縮です、先生」

 これなら行けるんじゃないか。

 後藤は欲を出し、ずっと練習しているジャズナンバーを弾いてみることにした。

   Georgia On My Mind

   Lullaby Of Birdland

 つづいて調子に乗って、ちょっと難しい久〇譲氏の名曲を。

   人〇のメリーゴーランド

 部屋に広がる何かに助けられ、後藤の指は滑らかに動いてメロディをつむいでいく。

 後藤はだんだん楽しくなってきた。

 この日、ふたりはピアジェー□を何時間も弾きつづけた。

 部屋を覆う植物たちは楽し気に身体を揺らし、室内は不思議なアロマで満たされた。

 ふたりは気づいていないが、いつの間にか帰って来た小太郎も、ソファで演奏に聞き入っていた。

 

 後藤家の部屋を覆う植物たちは、図鑑には載っていない異界の生き物だ。

 異界と言っても、そこに悪い意味はない。

 それは人が知らない世界という意味。

 西洋風に言えば、そこは妖精界とでも言うべき場所なのかもしれない。

 植物たちは、後藤家にあると同時に、異界にもつながっている。

 同時にふたつの世界に存在しているのだ。

 そう、植物たちを介してふたつの世界がつながっている。

 彼らは異界の門になり得る存在だと言える。

 彼らを通じて、後藤家には異界から何かが流れ込んで来ている。

 それが現世でとある生命を育んでいた。

 その植物たちの中に、ひとつの生命が紛れ込んでいたのだ。

 それは、いま、卵という形をとっている。

 ひっそりと、葉の裏側に隠れ、生まれ出る時を待っている。

 後藤から流れ出る、強くて深い何か。

 みゆきから流れ出る、優しく柔らかな何か。

 それらを取り込んで卵は成長していく。

 その卵の中で育つ何かは、楽し気に明日を夢見ていた。

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