エデンの住人
後藤は知的障害者に対して特異な考えを持っている。
彼らの一部は障害者ではなく、生まれつき特殊な能力を持った、常人より優れた存在が紛れ込んでいるのではないか、と。
そんな考えを持つに至ったのは、何度も特殊な体験をしたからだ。
後藤は「彼ら」になぜか好かれる。
子どもの頃から、「彼ら」はなぜか後藤の近くにやって来る。
ある日、満員電車の中、後藤は身動きのとれないまま、ドアのガラスに押し付けられていた。
「ああ、夜景がきれいだ」
そんなふうに気を紛らわせていたら、後藤とドアの間に少年が身体をねじ込んで来た。
彼はにこにこしながら後藤を見、それから夜景に見入っていた。
またある日、後藤はその手の体験から思い立ち、ちょっとしたいたずら心で、少し離れたところで何かを呟いている少年に、仮の敵意あるいは殺気のようなものを向けてみた。
すると、突然少年がぴくりとし、満員の人をかき分けて後藤のもとに来て、体当たりした。
体当たりと言っても、無理やり押し通ろうとしているだけで、暴力行為ではない。
しばらくもみ合ったあと、後藤は相手が行きたそうな方向を察し、彼を行かせた。
彼は満員電車のなか、人びとをかき分け、かなたへと歩み去った。
彼は歩み去った先でずっと後藤を見ていた。
だが、決定的な経験はあの日のものだ。
それは出張帰りの出来事。
数人しか乗っていないガラガラの電車での出来事だった。
隣りの車両から、青年が何かをつぶやきながら歩いてきた。
後藤の前を通りすぎて行ったが、しばらくするとまた戻って来た。
彼はそうして後藤の前を二往復した。
三往復目のとき、後藤は電車での経験を思い出し、彼もまた、後藤の心を読んでいるのだろうか、などど考えた。
すると――
「心を読んじゃいけない。心を読んじゃいけない。心を読んじゃ――」
彼はそうつぶやきながら後藤の前を通りすぎていった。
なるほど彼らは心を読んでいるのだ。
後藤は確信した。
ということは――
彼らは生まれつき特殊な能力を持ち、そのせいで特殊な成長を遂げただけなのだ。
知的障害者の中には、そんな超能力者とでも言うべき人たちが紛れ込んでいる。
後藤の仮説はこうだ。
「彼ら」は心の境界がないために、自他のちがいが曖昧なまま育った。
心の境界が曖昧だから自他の切り分けも曖昧。
本来なら生活する上で必要とされる判断や知識は、成熟した誰かの考えがそこら中にあるのだから自分で持っている必要はない。
「彼ら」は深く考えず、そこにある中から選べばいいのだ。
そこまで考え、後藤の頭には、さらに別の考えが浮かび上がった。
バベルの塔以前は、すべての人びとは同じ言葉を話していたという。
その同じ言葉というものが、「彼ら」のように心がつながっている状態を言うのなら?
「彼ら」は障害者などではなく、かつて人類が持っていた能力を取り戻した、旧人類のような存在なのではないか。
バベルの塔崩壊よりさらに古い時代、人びとは同じ言葉を話していた。その状態は、あくまでも旧約聖書――フィクションの設定ではあるが、エデンからずっと継続している。だが、フィクションではあっても、伝承と言うものは、往々にして何らかの真実を含んでいるもの。古の時代、人びとは心がつながっていたのかもしれない。となれば、「彼ら」のことは、エデンの住人とでも言えば良いのだろうか。
しかし、それは人のあるべき姿ではないはず。そのエデンの住人には、自分に変わって考える人、知識のある人が必要となる。全員がエデンの住人になれば、知識はどこから来る?
皆が他者の知識に依存するのなら、アカシックレコードのような「集団知」に接続できるのでもなければ、人は生きていけなくなってしまう。どこかに「集団知」を蓄積したサーバーが存在する必要がある。
――バベル崩壊時の言葉の混乱は、サーバーへのアクセス権を失ったということ?
そんな考えが後藤の頭に浮かんだ。
サーバーにアクセスできなくなったから、「集団知」に依存する建築技術も失われた。
塔の崩壊は神の関与する問題ではなく、知識や技術が記録されたサーバーの機能が失われたせいだと考えることもできそうだ。
もしも「集団知」に接続することが当たり前だった人びとが、それに接続できない状態がつづけば、遺伝によって得た本能などの情報が支配的になり、文化は衰退して蛮族のようになる。
そこから再起したのが人類の歴史の本当のストーリーなのかもしれない。
だが、サーバー機能は使えないが、ローカルネットワークへの接続能力がある人びとが現在もいたとしたら?
彼らが知的障害者の中に紛れていたとしたら?
その後も後藤はテレパシーの実在について考え続けていた。
――そういえば、あの猫……
後藤はかつて実家に居ついた野良猫のことを思い出した。
小太郎。
後藤はその猫をそう読んでいた。
あの猫は、後藤にとって、なんとなく意志の通じる相手であった。
つらい時はいつもそばにいて、後藤を気遣ってくれているように思えた。
ふたりで楽しく遊んだ憶えもある。
言葉などなしに、いつもわかりあえていたと思う。
テレパシー?
いや、シンパシーと言った方が良いかもしれない。
そういった能力でコミュニケーションをとる動物もいるのだ。
きっと。
後藤は、家へと変える道筋で、あの猫のことを思い出していた。
と――
気づくと足もとに猫がまとわりついていた。
それは記憶にある小太郎ではない。
それは、あの世界でいっしょに犬と戦った猫――ツナ缶をあげた猫だった。
後藤がしゃがむと、猫は後藤を見ながら膝におずおずと前足を伸ばした。
後藤の顔色をうかがい、拒否する様子がないのを察すると、猫は膝に飛び乗った。
ゴロゴロと言いながら身体をひねり、頭や背を後藤の膝にこすりつける。
ひと通り自分の匂いをつけ終わると、猫は起き上がって頭を後藤の顔へと近づけた。
なんとなく気持ちが通じた。
「ただいま」
「あ、おかえりー、って何、その子?」
猫が後藤の足にしがみついていた。
後藤は猫がしがみついたまま歩いて来たのだ。
「離れてくれなくてね」
「ここって動物OKなの?」
「とりあえずOK。ただ、申告は必要だね」
「どうしてそんなに好かれているの?」
「ツナ缶あげたから?」
「それって、私たちと会う前にツナ缶あげたっていう子?」
「そう」
「ふーん」
そう言って、みゆきはキッチンに戻っていった。
「その子、何食べる?」
キッチンからみゆきの声がした。
後藤の頭にツナ缶のイメージが浮かんだ。
そのイメージは猫から流れ込んできたようだ。
「ツナ缶はだめだぞ。猫には塩分や油分が多すぎる」
「んなー」
猫はよくわからない鳴き声をあげた。
「猫まんまね」
猫は後藤の足から飛び降り、自分の口の周りを舌で舐めた。




