新婚生活
「良平さん、余っている印鑑ってある?」
「あるよ。たくさん」
「たくさんって、印鑑集めるの趣味なの?」
「そういうわけじゃないけど……」
三十半ばになって、後藤は社会人としての自分を意識するようになった。意識してしまうと、自分のだめなところが気になって来る。特に社会常識に関わる部分で。
印鑑もそのひとつ。後藤が使っていた印鑑は、学生時代に実家から適当に持ってきたものだった。それらは適当に持ってきただけに、三文判に毛が生えたようなもの。ふと印鑑について調べてみた際に、後藤は自分が一般的な常識さえ知らなかったことに気づいてしまった。そして、自分の無知を自覚したら、今度は世間体が気になりだした。こうして後藤はちゃんとした印鑑が欲しくなったわけだが、後藤の住むエリアにハンコ屋は一軒もない。
そんなときはネットで購入するのが現代人。だが、安全性が要求される実印や銀行印をネットで買ってもいいものか?疑問を持った後藤は、ネットで印鑑を購入するリスクについて調べてみた。そこで知ったのは、機械彫りだとできあがりが同じになるリスクがあること。そのうえ評判の悪いショップも少なからず存在するらしい。
そんな世の実情を踏まえ、後藤はめぼしいショップに安い認印を注文して選別を行った。その選別のあと、良さそうなショップから銀行印や実印を購入したのだ。こうした経緯で、後藤の手もとにはたくさんの印鑑がある。
後藤は柘の印鑑5つと黒水牛の印鑑2つを出した。
「黒水牛の方は、口座を増やそうと思って余分に作っておいたんだけど、銀行に行く暇がなくてね。だから、どれでも好きなのを使っていいよ」
差し出された大量の印鑑に呆れつつ、みゆきはひとつひとつ手に取って彫を見比べた。
柘の認印は縦彫で『後藤』、黒水牛の銀行印は右から左の横彫で『後藤』となっている。
「これって13・5ミリ?」
「うん。さすが事務の人。印鑑の常識も知っているんだね」
印鑑の常識とは、ハンコ屋が言っているだけという説が濃厚だが、サイズや彫りの縦横に意味があるそうだ。男性用と女性用ではサイズが違う。用途によってもそれぞれサイズや字体が違う。世間体が気になる後藤は、多数派の考え方に従って印鑑を新調した。
「じゃあ、銀行印用と認印用に、これとこれもらうね」
結婚して姓が変わっても、旧姓の印鑑を継続して使うことはできる。しかし、免許証などの身分証明書と姓が一致せず、本人確認が難しくなってしまう。だから、姓が変わったら銀行印も新調するのが一般的だ。
結婚後はこうしたわずらわしいことも多いが、そのひとつひとつをこなしていくことで本人たちに結婚したことを実感させ、その過程で体験したくさぐさが思い出へと変わっていくのだ。
この日、みゆきは研究馬鹿たる後藤の内面を垣間見て、後藤家の常識担当は自分の仕事だとひそかに決意した。能力の高すぎる後藤に依存するのではなく、ここには自分の役割がある。そう思うと、みゆきはうれしくなった。
「そろそろ新居を探しに行かない?」
いまがいいタイミングだと思い、後藤は考えていたことを提案した。
「私、当分ここでいいよ。段階的に引越すのはもったいないでしょ」
いま、ふたりは後藤が一人暮らしをしていたマンションで暮らしている。54平米の部屋だから、めったに使わないものをレンタル倉庫に保管して置けば十分に広い。
後藤には、中古ならそこそこ良い分譲マンションでも購入できるだけの資力はある。一旦中古のマンションに移り住み、じっくり検討して納得できる注文住宅を建てる。それが後藤の計画だった。その第一歩として引越しを提案したかったのだが、みゆきの意見はちがうらしい。
「いまは倹約しよ。ちょっとだけ我慢して、とことんこだわった新築を建てようよ」
自分の計画について、後藤はまだみゆきに相談していなかったが、それでもみゆきは後藤の意を汲み取り、後藤の考えを前提に自分の意見を述べた。彼女は言わなくても解る人なのだ。それは、夫婦としては良いが、人によっては心を読まれているようで怖い存在に感じることもあるらしい。当の後藤には後ろ暗いところは些かもないから、そのみゆきのスキルは手間がかからなくてありがたいと感じている。
もっとも、今回のことに限って言えば、みゆきが後藤の計画を理解しているのは、意を汲み取ったのではなく、寝ている後藤を尋問した結果だ。警告を受けはしたが、みゆきは寝ている後藤と話すのをいまだやめられないでいる。
この時みゆきが昏々と語ったのは、価格的に手ごろな中古物件に手を出すと、売るのが大変になるということ。安いには安いなりの理由がある。彼女はそう力説する。
――確かに……
後藤はみゆきの言葉に納得がいった。後藤は何年か前から中古マンションをチェックしていた。後藤が目をつけていたいくつかの物件は、チェックをはじめた当初からずっと不動産サイトに掲載されている。要するに、何年も売れ残っている。それを思い出し、後藤はなるほどと思った。
「そう?じゃあ、車も当分いまのままでいいかな?」
「あの車好きよ。まだまだ乗れるでしょ?」
若いころの後藤はスポーツタイプの車が好きだった。サスのやわらかい車やパワーのない車に興味はなかった。だが、三十代半ばになると、高級セダンに乗りたくなってきた。時代遅れのオヤジ車に魅かれるようになったのだ。だが、高級セダンは盗難が心配。日本ではセダンの人気はないが、海外では需要がある。だから窃盗団に狙われる。スポーツタイプの車に乗っていた時も、長期の出張から帰ってきたら、鍵穴に何かを差し込まれた痕跡があった。そんな経験があるから、なおのこと盗難が心配になる。だから、後藤は一世代前の中古車を選んだ。デザインと性能は自分の好みにこだわって。
車について聞いたのは、車好きの同僚たちが、結婚後は愛車を手放してワンボックスに買い替えていくのを見ていたから。みゆきと結婚して、少しのこだわりさえ捨てる時期が来たのかと、後藤は内心恐々としていたのだ。そうしなくて良いとわかり、後藤は心の底からほっとしていた。同時に、自分の相手がみゆきであった幸運に感謝した。
「じゃあ、無駄遣いせずに新築一戸建て、注文住宅を目指しますか」
後藤はすんなりとみゆきの考えを受け入れてくれた。その言葉を聞き、みゆきは早速自分の役割を果たせたと、ささやかな達成感を噛みしめていた。
だから――
ちょっとくらいご褒美、あってもいいわよね。
と彼女は考えた。
「そうしましょ。でも……ね?」
後藤に返事をしながら、みゆきの手が後藤の腿に伸びる。
みゆきの目が語っている。
後藤はそれを拒まず受け入れた。
まだ外は明るいのに。




