32話 五区の仔牛亭
「ではお嬢様、この後の準備はお任せください」
「よろしくお願いしますわね。招待客はここにメモしておいたから」
私は実家の侍女頭を部屋から下がらせると、小さく息をついた。
ジャンから話を聞いたあの日、私は実家であるボーモン家で茶会を開くことを名目に、王都に向かうと決めた。
身分を偽って王都に向かうのが危険なら、用事を作って堂々と行けばいいのだ。
もちろん、目的は王都に滞在する口実だけではない。貴族令嬢達から社交を通じて王都の状況、ピエールやリナの情報を仕入れようという魂胆だった。
茶会の日までは数日ある。その日までに、なんとしてもジャンの同僚に会い、5年前の事件の糸口を掴みたい。
「セリエ様!眉間に皺、寄ってますよ」
明るい声で話しかけてきたのはロゼットだった。
今回は茶会が名目だったので、シルヴァン様やクロードを伴っていては、かえって目立ってしまう。それで同行者として白羽の矢が立ったのが彼女だったというわけだ。
なお、シルヴァンは茶会当日にやってきて、皆に挨拶することになっていた。
「ジャンさんから、お手紙を預かってきましたが、ご覧になりますよね?」
私が屋敷の侍女たちに茶会の指示をしている間に、ロゼットにはジャンの職場に向かってもらっていた。
私が、あの日屋台で出ていた肉入りのパイのことが気になっている、一緒に食べたという同僚に少し話を聞きたいと伝えたところ、ジャンはあっさり納得したらしい。
なんとも彼らしい素直さだった。
封を開くと、簡単な地図と走り書きがあった。
『例の同僚はラウルっていいます。食べるのが好きな、気のいい男です。もう配達所は辞めてるんですけど、この前話した五区の食堂には今でも顔を出してるみたいです。夕飯どきなら会えると思います。黒髪で髪がくるくるしてて、左腕に傷があります。僕の名前を出してもらって大丈夫です』
「食堂に行くんですか?」
手紙を読み終えた私を、ロゼットがきらきらした目で見つめている。
「ええ、ロゼットも着いてきてくれるかしら。それから、私を町娘らしく仕上げてくださる?」
「もちろんです!」
ロゼットはにっこり笑うと、早速私の支度に取り掛かった。
◇
五区までは、歩いて30分ほどでついた。
変装してこっそり屋敷を抜け出した手前、馬車で乗り付ける訳にもいかない。
だがロゼットと談笑しながら歩いていると、30分はあっという間だった。
「この店ですね」
仔牛亭。五区のはずれに建つその店は、石造りの二階家だった。壁は煤け、入口の上には仔牛の絵が描かれた木の看板がぶら下がっている。洒落気はないが、扉の隙間から漂う肉と赤ワインの匂いだけで、この店が質の高い料理を出すであろうことが伺えた。
店先には空樽と籠が無造作に積まれている。
私たちは年季の入った木の扉を押して、中に入った。
「いらっしゃい」
ぶっきらぼうに声をかけてきたのはこの店の女将だろうか。肌の浅黒い大柄の女性で、黒髪には白いものが少し混じっていた。
「見ない顔だね。初めてかい?」
「はい。ジャンさんの紹介で」
紹介者の名前を伝えたおかげか、わずかに女将の表情が緩んだ。
「空いてるとこに座んな」
まだ夕方だからか、店内は空いていた。
私は悩んで、奥の窓際の席に腰掛けた。
店の黒板には癖のある字でメニューが書かれている。
牛すね肉とジャガイモの煮込み、白いんげんと豚の煮込み、それから、玉ねぎのスープに、田舎風パテ。
素朴な田舎風の料理が並んでいる。後ろの方にはトリッパとひよこ豆の煮込みもあった。どれもこれも美味しそうだ。
「迷っちゃいますねぇ」
ロゼットが真剣な表情でメニューを見つめている。
「セリエ様……あ、セリエさんはどれにします?」
「そうねぇ、せっかくならこの店らしいものが食べたいわね」
私たちが注文を決めたのを見計らって、女将がやってきた。
「ご注文は?」
「この子は白インゲンと豚の煮込みに、葡萄水を。私はトリッパの煮込みに、赤ワインをグラスで」
「あいよ」
料理はあらかじめ仕込まれていたのだろう。頼んで十分と経たずに運ばれてきた。
忙しい労働者に人気が出るのも頷ける。
ワインは水を飲むようなずん胴のコップに並々と注がれていた。
「いただきます!」
手を合わせると、まずはトリッパをひと匙。
うん、美味しい!
変な臭みもないし、柔らかく煮込まれていて、香辛料の風味とマッチしてワインが進むこと間違いなし。
次にコップのワインに口をつけると、こちらも熟成感のあるしっかりした味。赤ワインとしか頼んでないのにこれが出てくるの、いい店の証拠だ。
添えてある茶色いパンをちぎって口に入れると、小麦の豊かな風味とほのかな酸味。きっと自家製だろう。
向かいを見ると、ロゼットも幸せそうに煮込みを口に運んでいる。
「セリエさん!この白インゲン豆、豚肉の旨みと脂を吸ってて、肉より美味しいです〜」
わかる、わかるわ。
いい煮込みって、肉より野菜や豆が美味しかったりするのよね。
そんな訳で、私たちは目的もそっちのけでひとまず目の前の料理を平らげることに集中した。
私は煮込みの一雫すら残さないように、丁寧にパンでぬぐいとって食べた。
あぁ、美味しかった……
食べ終わったのを見た女将がやってきて、聞いた。
「食後に何か飲むかい。コーヒーか、酒もあるけど」
「じゃあ、この子にはコーヒーを。私は……そうね、食後酒を少しお願い」
女将は片眉を上げて私を見た。
「……」
「あの、何か?」
「いんや。コーヒーと、食後酒ね」
そう言って、すぐに注文の品を持って戻ってきた。
「はいよ。おまち」
ロゼットの前にコーヒーが、そして私の前に、薄紅色のトロリとした液体が入った小さなグラスが置かれた。
「気に入らなかったら酒は他のに変えたげるよ、飲んでみな」
ちびり、と、口に含む。
初めて飲む味だった。
「これは……アニス酒ですか?でも、それよりも少し甘酸っぱいような」
「よくわかるね。アニス酒に果実を漬け込んだ酒だよ。気に入ったかい?」
「ええ、とっても」
「そいつは私の故郷の酒さね」
女将はどうやら我々への警戒心を緩めてくれたようだ。
厳しかった表情が和らいだように見えた。
「で?わざわざジャンから聞いてくるなんて、なんの用だい?」
「肉料理が絶品だと聞いて……」
「それだけじゃないだろ?王都に肉が美味い店なんて山ほどあるんだから」
うう、鋭い。
私は腹を括って要件を切り出すことにした。
「ジャンの同僚だったラウルって人に聞きたいことがあるの」
「やつならうちの店の常連だけど」
そこで言葉を切ると、女将は私を見た。
一体ラウルになんの用なのか。そう目が問うている。
「彼、食べるのは好きな方かしら?」
「どういう意味だい?」
「5年くらい前にこの近くに、肉入りのパイの屋台の店が出たって話をジャンから聞いたの。ラウルはパイをたくさん食べたみたいだから、味について聞いてみたくって」
「……味なんて聞いてどうすんだ」
「私、美味しそうな食べ物になると好奇心が止まらないの」
にっこり笑って見せると、女将は肩をすくめた。
「どうやらそうみたいだね。ラウルも食うのは好きだと思うよ。こんな店に通い詰めてるくらいだから味覚がどうかはわからんけどね」
「いいえ、この店の常連なら舌は確かに違いないわ」
私がそう言うと、女将は謙遜とも誤魔化しとも取れる様子で、わざとぶっきらぼうに口を開く。
「どうだか。ラウルならいつも今くらいの時間に店に来るよ。……お、ちょうど来たんじゃないか?」
戸口の方を見ると、ひょろ長い体つきの浅黒い男が、店に入ってくるところだった。
ジャンの手紙にあった通り、黒いくせっ毛が目を引く。
ラウルらしき男は、女将を見ると人懐っこい笑みを浮かべて声を掛けた。
「おばちゃん、いつものやつ」
「それより、おまえにお客さんだよ」
女将はそれとなく私たちの方を示して見せた。
「客?」
「ああ、ジャンの知り合いだと。話があるみたいだから、カウンターじゃなくて、そっちのテーブルに座んな」
「……」
ラウルは、少し怯えた目で私たちの方を見た。
悪人には見えない。だが、何か後ろめたいことがある。
そんな第一印象だった。
男は私から目を逸らし、オドオドした様子で椅子の背を引いた。
彼は、何かを知っている。
それはつまり、捜査が前進する可能性が高いということだ。
油断はできない。
私は小さく深呼吸すると、頭の中でこれからの会話の順番を組み立て、彼に向き直った。




