ep2-2. 国という家の元で
市ヶ谷橋を渡り、藤兵立華は指定された場所を目指して歩いていた。
てっきり市ヶ谷駅近くの喫茶店で落ち合うものかと思っていたが、よりによって古巣の正門前である。
街歩き用の格好で来てしまっているが、これで良かったのだろうか?と彼女は少し不安になった。
いつものTシャツにデニムではない。
今日は白いシャツワンピースを羽織っている。
そして夏らしいワイドデニムのパンツにウェッジサンダル――。
歩くたびに膝下の裾が揺れ、初夏の風を受けてヒラリとなびいた。
すれ違う男たちの視線が、自然と彼女へ向く。
だが、目が合いそうになると、皆どこか気まずそうに視線を逸らしてしまう。
立華は昔からそうだった。
身長は百六十五センチほど。無駄のない輪郭に、切れ長の目。薄い唇は普段からきつく結ばれている。
人を睨んでいるつもりはなくても、そう見られることが多かった。
黙っていれば美人。
だが近寄りやすい美人ではない。
その鋭い目つきのせいで、初対面の男には大抵警戒される。
「相変わらずのコワそうな美人っぷりだ」
道端に立っていたスーツのメガネ中年が、立華の前でそんなことを言った。
「セクハラですよ」
立華が乾いた声で返す。
だがその言葉に反し、彼女はなぜか男の前で姿勢を正し、敬礼のポーズを取っていた。
肘を直角に曲げ、頭と水平に手を上げる形――。陸上自衛隊の方式に則った敬礼である。
「ご無沙汰してます。青空昇調査官」
「元気そうで何より。藤兵立華 元一曹」
落ち着いた声で言い、防衛装備庁 青空昇は後方にある防衛省の正門へと促した。
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「まさか、あの”ロボ教官”が防衛装備庁に流れ着いてるとは、意外でした」
検閲を抜け、建物のロビーを進みながら立華が青空に話し掛けた。
「ワンクッション置いてるけどね。降下訓練の装備評価を買われたんだよ。そこから研究開発部門に出向、流れ流れて今のポストに行き着いた」
話している合間にも制服姿の陸将補と見られる男が、背広姿の事務官と話しながら歩いていく。
反対側では迷彩服姿の若い二等陸曹が、書類の束を抱えて駆け足になっていた。
「連絡をもらった時は驚いたよ。先日貰ったサンプルと資料は、あくまでウチの管轄によるものということで、提示させていただく」
「それでお願いします」
「それと、お父様のことは……、何と言ったらよいか」
エレベーターが上がり始めたタイミングで、青空が悼みの言葉を掛けてきた。
立華が視線を落とす。
「いえ――、だからこそ、あの状況を伝える必要に駆られたんです」
「……ご協力、感謝するよ。元旦那さんは?」
「葬式には来てもらいました。一言も交わさなかったけど」
「……そうか」
扉が開き、廊下を歩く。
通されたのは会議室の一室だった。
「青空調査官、入ります」
敬礼を行い、立華を伴って室に入る。
部屋を占有する巨大な会議用デスクには、10名前後の人間が席に付いていた。
いずれも立華に事務的な視線を置いたまま、一言も発しようとしない。
自衛隊員としての制服姿の他にも、所属の伺えない人間がいる。
それを考えるのは面倒くさい、と立華は思った。
青空から依頼されたのは、あの時に体験した”ありのまま”を話すことだ。
「藤兵、さっそく頼む」
青空に促され、立華が彼の前に出て軽く一礼した。
「初めまして。元陸上自衛隊 第一空挺団所属、一等陸曹の藤兵立華です。11日前に発生した北千住事案において、私は現地で………」
話し始めた瞬間、席の一人と目が合い、立華は思わず言葉が消えた。
その相手も立華の姿を見据え、いささか驚いた顔を浮かべている。
「え……」
いきなり現れた立華の姿に、席の一つに座していた和也多紀が声を洩らした。
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「にわかには信じられんが……」
立華の説明を整理しきれない様子を見せながらも、要人の一人がこめかみを指で押さえながら言った。
「藤兵女史、あなたは今の証言内容を、錯覚や思い違いではなく、事実として述べているのですね?」
「はい。他の目撃者との証言とも合わせれば、整合性は取れているはずです」
進行役である青空が、一歩引いた位置から立華の隣に並んだ。
「藤兵女史が一体殲滅したという集団型の未確認生物、これらが一般人の変異による発生というのは非常に大きな問題ですが、ご存知の通り、ウィルス感染に起因するものではないということがわかっています。そこは別途調査研究を進める一方、まずは中心と見られる三体の特別対象について、皆さんからご意見、質問を伺いたい」
「……では、私から」
壮年の男性が挙手をした。
迷彩服を着ていることから、一目で自衛官だとわかる。
「仮に私たちが、彼らと本格的に事を構えたとしよう。人間の近代兵器でも対抗はできそうか?元一等陸曹としての意見を聞きたい」
「それは、評価不能です」
きっぱりとした立華の発言に、会議室の空気が静まり返った。
「私が目撃した対象は、3体ともビル壁面を高速移動し、数十メートル単位で跳躍していました。命中すれば有効な兵器は存在するかもしれませんが、当てられるかどうかは別問題です。少なくとも私個人は、あの対象を市街地で捕捉し続ける自信はありません」
「………………」
「よろしいでしょうか?」
沈黙を破って若い女性の声が上がったことに、一斉に全員が向いた。
「公安の和也多紀です。実際に現地を調査した人間として、発言をお許しください」
その小柄な体格から、どこか拍子抜けした空気が漂うが、構わず和也は話を続けた。
「現時点で確認されている対象は、互いに交戦状態にありました。特に北千住マルイでの目撃証言からは、一般人を襲撃する個体と、保護する個体の存在が確認されています。さらに戦闘中、双方が日本語で会話を交わしていたとの証言も得られています」
「その情報は確かかね?子どもの特撮じゃないんだぞ!」
誰かが荒げた声を上げたが、和也は少しも物怖じしていない。
「証言はクモ型個体によって拘束された被害者の、ほぼ全員から取れています。以上から、対象間には何らかの敵対関係、あるいは立場の違いが存在する可能性があります。脅威に備えることも必要ですが、接触可能性を否定する段階ではないと考えています」
「公安の提案は理解できる」
冷えた声が上がった。
一番奥に位置する男が上げた声だった。
縦に角ばった造りの顔に、カミソリで切りつけたような鋭い眼差しをしている。
「接触は結構、だが信頼は別問題です。実際に北千住は過大な損害を受けている。日本語を話せる友好的個体が存在したとして、それを誰が管理できるのか?そして仮に大国が同じ情報を得た場合、彼らは“対話”より先に“確保”を考えるでしょう」
立華の隣にいた青空が、目立たないように鼻から深く息を吐いた。
その様子に、立華が小さく声を掛ける。
「……誰ですか?あのスポーツカーみたいな顔」
「尾張未知。国家安全保障局の参与だ。諸々の調整屋といったところかな。だが、彼らが本気で動く時は、話が国家単位になってくる」
極めて小声による青空の説明をよそに、尾張の言葉が更に響く。
「敵か味方かはさておき、存在が確認されている以上、彼らは我が国の“管理対象”ということになる。その目的を共にするのであれば、防衛・公安・警察で情報が分散している現状は危険です」
尾張は自席に深く座しながら、刃を滑らせるように周囲を見渡した。
「よって国家安全保障局主導で合同対策委員会を設置する。異論はありますか?」
ただ一人の主導に、誰も声を発しようとしない。
その様子を見届けた尾張が、一人小さく頷いて見せた。
「決定、ということで――。詳細については追って連絡します。目下、皆様には傘下の部署、関係各位への事前報告をお願いしたい。それと――」
尾張は手元の資料をめくり、ある人物の写真に視線を落とした。
「報告資料にあるこの犬岡という男。聞けば裏社会で恐ろしいほどの短期間で名前を上げているらしい。その奇行や現場を嗅ぎまわっていたことから、何か知っているかもしれない。彼を重要参考人として指定し、所在確認と接触を進めてください」
そう言うと、尾張は椅子からゆるりと立ち上がり、場の全員にゆっくりと一礼した。
「どうぞ、よろしくお願いします」
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「藤兵立華さん!」
防衛省の正門を抜けたところで、背後から声が掛かった。
やっぱり来た。
そう思いながら、立華は声の主に振り向き、はにかんで見せた。
「えへへー」
「驚きました。先日はバタバタしてお話ができませんでしたが、事件での指揮能力にも納得がいきました。女性で空挺部隊所属の経歴を持つだなんて、そうそうありません」
和也は呆れが半分混じった顔で言った。
「うーん、なんかアタシ、そういう才能があったってだけの話でさ。今はフツーの一般人なのよね。でも会議の場にいたアンタだって凄いわよ?相当買われてるのね」
「私は単なる代理人です。上長がまあまあ苛烈な人で、あの場に出ると話がまとまらないだろうと、私が代わりを命じられました」
「ふふ、アンタも大変ね。――ね、せっかくだし、新宿でちょっと呑んでかない?今日は週末だけど、お店休みにしちゃったんだよね。プロが手放しで褒めるお店、知ってるよ?」
それを聞いた和也の口の端が、少しだけ緩んだ。
「――おいしいお食事とお酒、嫌いじゃありません」
しかし、すぐにいつもの静かな表情に戻る。
「でも折角ですが、次の機会に。本部に戻って、今日の報告資料を作成しなければなので」
「そっか、残念ね。またいつでもお店来てよ」
そう言って背を向けかけた立華に、和也がハッしたように呼び止める。
「あのっ、一つお聞きしたいことが……」
「ん?なに?」
「あの時、暴漢の被害に遭われた文本響一さんですが、あの人ってどんな方なんですか?」
「どんなって、アイツ病院でなんか失礼なことした?」
「いえ……」
訊き方を焦ってしまった。
会議の場でも挙げなかった個人への懸念を、一般人に伝えるわけにはいかない。
「あの……、あの局面で勇敢な人だな、と、思いまして」
嘘をついてしまった。
だが、その淀み方をどう受け取ったのか、立華は含むような笑みを浮かべている。
「わかったわかった。今度呑みでもセッティングするからさ。アイツとお話してあげてよ」
「あ、いえ藤兵さん、そういうことじゃなくて……」
「立華でいいわよ。じゃあねっ、ナゴナリさん!」
「え?……はい」
本名を正しく呼んでもらった珍しさに、和也は少し放心しながら彼女を見送った。
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10時間前――。
「なあ、仕事明けから直接こんなトコまで連れてこられて――。いったい何のつもりなんだよ?オレ、疲れてんだけど……」
響一の声が泣き言のようになっている。
場所は埼玉県大里にある広大な採石場だった。
仕事が終わり、帰ろうと風号に跨った際、寄りたいところがあると提案されたのだ。
承諾したまではよかったが、まさか職場のある五反田から100キロ弱も移動することになるとは予想していなかった。
巨大な岩肌が階段状に切り取られ、重機の姿もない。休日の採石場は異様なほど静かだ。
『響一、疲れているのは気分だ。今のオマエは睡眠時間や肉体疲労に囚われない身体になっている』
風号が極めてフラットな口調で言ってきた。
「気分が問題なんだよ!仕事が終わったら帰る!呑む!寝る!ルーティン壊されるのが一番イヤなんだよっ!」
周りに誰もいないこともあり、響一は風号への鬱憤を大声で吐き散らかした。
その心からの怒声も、風号はそよ風程度にしか受け止めていない。
『ここに来たのには3つの理由がある。オマエに託す外骨格への理解を深めてもらうこと。そのための力の行使を”奴ら”に感知されないこと。最後は、少し大掛かりなことを試したい』
「大掛かりって……」
風号は自分に、これからしょうもないことをやらせるつもりだ。
響一は心底面倒くさそうな顔をした。
『まずは外骨格の装着だ。外骨格は着た者の身体能力を飛躍的に高めるが、オマエにはその限界を知ってもらう。いくぞ』
「いくぞって、せめて朝メシくらい……」
変っ身っっ!!
風号の車体が変異しながら響一に突っ込んできた。
160kg超の重量が響一の身体を吹っ飛ばすが、接触と同時に風号から射出された外骨格が、響一の身体にバキバキと張り付いていき、装着されながら転がっていく。
土煙の中から、人と昆虫が有機的に融合したような、異形のシルエットが立ち上がった。
「痛えなあっ!何すんだオマエ!」
煙を分けて、響一が怒りながら風号に詰め寄る。
前回の変身で感じた高揚もへったくれもなかった。
『痛いで済むくらいならいい。どうだ?改めて今の姿になっている感覚は?』
確かにバイクで跳ねられた衝撃がウソなくらい、なんともない。
接触の直前で装着された外骨格が、衝撃をほぼ完全に吸収していた。
腕を動かしても、装甲を着けている実感がほとんどない。
掌の温度や質感さえ、ダイレクトに伝わってくる。
感じるほどに不思議な感覚だった。
「……なんだか、ハダカになってる気分だ」
『装着自体の負担はなさそうだな。次は跳んでみてくれ』
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岩肌を蹴る。
身体が宙へ放り出される。
「ぬぉおおっ!?」
落下するはずの景色が、一瞬で眼下へ流れた。
跳んだというより、空を滑っている感覚だ。
もう一度踏み込む。
今度はさらに高く。
採石場の段差を飛び越え、風を裂きながら着地する。
その繰り返し。
響一はただ無心に、周辺を高速で駆け回った。
――楽しい。
認めたくはないが、その感覚が胸の奥から湧き上がってきた。
子供の頃、遊園地で初めてジェットコースターに乗った時のような高揚感だった。
次は岩を砕く。
昔習わされた武術の手法で突き、足と連動させて素早く引く。
驚くほど自然に形が決まる。
体幹の力が対象の中心まで届き、人間大の岩石が花火のように炸裂した。
予想を超えた威力に、響一は唖然とする。
「あの時は無我夢中だったけど……、なあ、コレ、マズくないか?」
破壊のカタルシスよりも、力の大きさを危惧してしまう。
『人間以外は遠慮するな。”クモ”はその攻撃に耐えてのけた。これから先、それ以上に頑強な奴が現れる可能性は高い』
立ち尽くす響一に、風号が車輪を回してユルユルと近づいてきた。
『単純な物理では届かない事象に対し、その差を埋めるのが”赤い力”だ』
「”赤い力”って、アレか……」
”クモ”の身体を両断し、壁ごと吹っ飛ばした力のことを思い出した。
打ち込んだ赤い光が空中で弾け、”クモ”の全身がミキサーに掛けられたように微塵切りにされた瞬間も目に焼き付いている。
『だが”赤い力”は決定打ではない。宿主に巣食う”奴”本体を消滅させるには、俺とオマエで使える最大のエネルギーを、”奴”の認識外から直接叩き込む必要がある』
「認識外?」
『こちらの動きが知覚される限り、”奴”は細胞の一片からでも周りを食い、復活を繰り返す。宿主を行動不能にしてからの不意を突いた長距離攻撃――。それが”奴”を確実に仕留めるための唯一の手段だ』
プロジェクターランプの中にある風号の大きな瞳が、真っすぐに響一を見据えた。
「な、なんだよ?」
『この技は、連続使用を想定していない。オマエの身体を消耗品として扱うことになるからだ』
「消耗品?」
響一の中で気になる言葉が出た。
『一時的に行動不能の状態になるだけだ。だが確実に当てなければ、俺たちは負ける。――何万回もシミュレーションを重ねた結果、このやり方が確実だという結論に至った』
ますますイヤな予感が止まらない。
何か無茶な要求をするとき、風号は必ず相手を諭すような口調になるからだ。
「……具体的に、なにをするんだよ?」
『これから教える。成功すれば、”奴”を消滅させるに足る環境を、一瞬だけ作り出せる」
「それは……、結果的にどうなるんだ?」
『およそ4.2×10^9 Jにおよぶ高温高圧の状態になる。1トンTNTに相当するエネルギーだ』
「へえ……、そうなんだ」
理解を置いてけぼりに、響一は取り敢えず生返事を打つ以外に出来ることがなかった。
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ゴミと異臭に満ちた部屋の中で、女はずっとテレビのドラマを凝視している。
食事を求め、目の前の女の袖をツマんだが、容赦のない力で振り払われた。
「うっとしいなあっ!そこのゴミとか漁れよ!あとクサいんだよ。水道で身体洗え!」
光見にとって、母親とはその程度のものだった。
父親の顔は知らない。男は何人も見た。
それ以外は常に腹が空いていた、という思い出――。
転機は彼が14歳のときだ。
若さが消えた母親に特定の男がついた。
しばらく共に過ごしていたが、気に食わないことがあると、言いがかりを付けて手を出してくるような奴だった。
頬を打たれ、腹を蹴られる日が続いたが、あるとき、振り下ろされた拳がまぶたを裂き、指先が容赦なく目を突いた。
痛えな。
気が付くと、自分が男を殴り飛ばしていた。
毎日やっていた腕立て伏せが効いていたのか、男は簡単に呻いて倒れた。
馬乗りになって拳を振り下ろす。そのたびに相手の鼻が潰れ、歯が飛んだ。
いつまでも、いつまでも殴り続けた。
止まらなかったのは、口から血を溢れさせて泣き喚くそいつを見下ろすのが快感だったからだ。
――もう、やめてくれ。
知るか。もっと泣け。
止めようとしてきた母親も同じようにしてやった。
前歯を失い、引きつった母親の顔面を見て最高潮にトリップした光見は、ついでに母親で童貞を捨てた。
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色付きのストロボライトが瞬く中、そこに蠢く男女たちを犬岡は眺めていた。
重低音のビートと爆音の中、VIP席のソファに巨躯を深く沈め、酒を浴びるように呑んでいる。
クリュッグをラッパ呑みし、喉が潤ったら残りを隣のオンナの頭からぶっかけた。
「やーだもう!」
女はビックリしたかと思えば、自分の有様におどけるように笑い出していた。
だがその笑みはどこか嘘くさく、わざと声をまくしたてている様子がある。
「あっはは!ご褒美じゃね!」
周囲も笑っていた。
笑いながらも、犬岡の挙動から目を離していない。
その彼らから漂ってくる酸っぱい匂いが、犬岡の鼻をくすぐっている。
「テルミくん!」
脇から綺麗に日焼けしたサングラスの男が飛び込んできた。
笑顔と共に見える前歯が白すぎて、ブラックライトの元でやたらと目立つ。
「ドンペリのP3手に入れて来たよ。100万円!テルミくん復帰のお祝いだよ!」
そう言い、木箱に入れられた酒瓶を大事そうに見せてくる。
「寄木、そこに置けよ」
犬岡が目の前のテーブルを指して言った。
言われた通りに置かれたボトルの口に、人差し指を添えて横に振ると、先端がコルクごと消え、液体と泡が勢いよく噴き出してくる。
歓声が上がった。
「うぉおっ、凄え!そのままグイっとイッてよ!」
言われるまでもなく、シャンパンの太いボトルを鷲掴み、犬岡は喉を鳴らして呑み干してしまう。
「1本100万……。こんなモンか」
周りに注ぐくらいしろよ、オレの金だぞ。
笑顔の裏で寄木は思ったが、今に限ってはそれで良かった。
どうやって都内のチームの頭を潰せて回ったかは知らないが、やっぱりコイツは腕力だけで頭が足りない。
「ところでさテルミくん、この前貰ったサンプル。あれ評判イイよ!なかなかトべるってさ」
寄木は犬岡から渡されたクスリのサンプルの事を言っていた。
彼の反応に、犬岡は満足そうにグラスを傾ける。
「ああ、アレをバラまいてノシてくからな。仕入れのルートは佐久間って奴に任せてる。さっき連絡先送ったからよ、そっから繋がれ」
「助かるよぉ。最近新しいシノギに飢えててさあ」
ありがたい。
犬岡の方でお膳立てをしてくれたようだ。
新しい商品の出所の確保だけが気がかりだった。
フロア内には犬岡に潰されたグループの残党たちがいる。
そいつらに商品のサンプルのことは黙っていた。
ウマく立ち回れば自分だけの金ヅルになる。
犬岡自身まで消えてくれれば、かなりのツキが自分に巡ってくることになるだろう。
シャンパンに仕込んだ睡眠薬が、そろそろ効いてくるはずだ。
あとは犬岡が寝るのを待つばかり。身柄を渡せば仕事は完了だ。
この暴力バカも、明日の今頃は海か山の中だろう。
「寄木どうした?急に余裕が出て来たな」
「え?」
ふいに犬岡の口から出てきた言葉に、寄木の心臓が鳴った。
「ちょっと前から鼻がヤケに利くようになってな。オレがさっきのシャンパン呑むまで、この場の全員から酸っぱい匂いがしてたんだわ」
寄木に更に身を寄せ、肩に腕を回した。
張り付いた笑みの寄木を、同じく笑みを浮かべている犬岡がじっと見つめている。
「感情ってな、匂いに出るんだよ。媚びてる匂い。怯えてる匂い。焦ってる匂い。ぜーんぶワカる」
「へえ……、すごいね」
犬岡に薬が効いている素振りが全く見えない。
――なんで?
犬岡が寄木の耳を指先で摘まんで引き寄せ、鼻先をスンスンと鳴らした。
「オマエ、またクサくなってんぞ?あと、このフロア内でエライ緊張の匂いさせてる奴が何人もいるな」
「ちょっ、痛いって、テルミくん」
耳を摘まむ指に力が加えられている。
付け根が引っ張られ、ミリミリとした音を寄木は聞いた。
人間の力ではない。
「オマエさ、シャンパンに一服盛ったろ?これも匂いでわかった。まあ意味ねえけど」
犬岡の囁きは寄木以外には聞こえない。
だが二人のやり取りの様子に、取り巻き達は固唾を呑んでいる。
おそらく全員、この計画の事を知っているのだろう。
先ほど酒を掛けられた女などは、化粧が溶けた顔で半ベソをかきそうだった。
「そっ、そんなコト、するわけナイじゃんっ!」
声を出したものの、寄木は犬岡の圧にすっかり萎縮していた。
震える指先を気取られないように、もう一方の手で強く抑える。
「寄木。オレが潰した奴らの残りカスに脅されでもしたか?ん?」
「………………」
引っ張られる耳の肉のテンションが限界を迎え、端から小さく千切れ始めている。
耳から流れる血を感じながら、寄木は小さく頷いた。
「わかった。ダイジョブ、大丈夫だ。なら、オマエはグチャグチャにしない。オレの大事なサイフ係になる奴を無下にはしねえよ。オマエはオレが守るから、な?」
じゃあ、なんでまだ耳を痛くしてくるんだよ?
寄木は言いたくても言えない。
震える寄木を見て、犬岡は再度囁き掛けた。
「よし、オマエにだけは教えてやるよ。オレが単純な腕力だけで東京中の奴等を潰し回ることができた理由。オレな、半月ほど前に大島の舎弟どもに集団で襲われたんだ。汚ねえ公衆便所の中で抑えつけられてよ、アキレス腱をニッパーで切られたんだよ」
「………………」
それは知っている。
仲間伝手に聞いたときはスカッとしたが、今はこうして痛い目に遭わされる不条理に見舞われている。
「ヒデえ事するよなあ?よってたかってよ。倒れたまんま全員殺してやるって思ってたらな、オレの身体にムカデが入ってきたんだよ」
「ム、ムカ、デ?」
「俺がニンゲンを超えた理由だよ。その後、俺を襲った全員、一人ずつ追いかけてグチャグチャにしてやったわ。次に各グループの中心人物をサーチ&キル、――今に至る。案外簡単だったわ」
寄木は言葉が出ない。
痛みと恐怖で、サングラスの奥にある瞳からは涙が溢れている。
「た、助けて……」
「ああ、まだ理解が追い付いてないか?ん?――まあ、この後、イヤでも分かることになるよ」
寄木の耳からようやく手を放し、犬岡はゆっくりと立ち上がった。
緊張している取り巻きを置き去りに、VIP席から多くの男女が踊っているフロアの真ん中へと入っていく。
PAから鳴り響くレイヴのドラミングに合わせ、犬岡は首をゴキゴキと鳴らし、緊張の匂いの先を追った。
「……?」
犬岡に視線を注いでいる、いかにもな格好をした一人の男を見つけた。
強い薬を投与されているのに、悠々と迫ってくる犬岡の姿に、男は目を見開いている。
「あぐっ!?」
後ずさった男の顎を、犬岡が大きな手で掴む。
そのまま持ち上げ、歪んだ男の顔を面白そうに見つめた。
「へへっ」
犬岡に向かって、複数の人間が動いた。
シャツの下から武器を取り出し、距離を詰めていく。
薬が効いていない様子を見て、別のプランに切り替えたようだった。
「このイヌ野郎がぁっ!」
爆音の中、横から来た男が叫んだ。
コートの背中から取り出した大きめのマチェーテが、鈍い光を放っている。
他の襲撃者たちも、刃物を手にしていた。
周りの悲鳴も気にせず、犬岡の四方から躊躇なく突っ込む。
腰だめに構えた刃物を、思い切り犬岡の身体に突き出していた。
なぜか、ガツンという音が重なって鳴った。
襲撃者の攻撃を無防備に受けたにも関わらず、犬岡の身体はまったく揺らいでいない。
それどころか、心底嬉しそうな顔をしている。
「殺る気マンマンだなオイ!」
犬岡が叫ぶように言った。
突き立てた刃物が、彼の肉体にまったく潜らない。
襲撃者たちは戸惑った。
「オマエらオレを殺す気で来たんだよな。キメて来てるワケだ?」
「こっ、このイヌ……」
「カッコつけんのは勝手だけどよう。オマエら覚悟はできてんのか?ええ?」
吊り上げられている男はずっと足をバタつかせ、犬岡の身体を蹴りつけているがビクともしない。
残った襲撃者も犬岡の胴体を何度も突くが、硬い手応えしかない。
「オイっ、自分がどうにかなる覚悟は出来てんのかって、なあっ、訊いてんだよっ!」
喋るボルテージがどんどん上がっていく。
顎に伝わる力が、ミシミシと音を上げた。
「知っとけ!殺しに来る奴は何されようがな、文句だって言えねえんだぞっ!」
男の顎を掴んでいた手をギュウッ、と握り込んだ。
硬い骨が淀みなく圧縮され、男の顔半分が潰されたリンゴのようになった。
血が滝のようにボトボトと流れ落ちる。
男はまだ生きていたが、痛みと喪失で流血しながら呻いた。
「きゃあっ!?」
犬岡の裂けたシャツの間から見えたものに、襲撃者の一人が、女のように高い声を上げた。
そこにありえないものが見えたからだ。
黒光りする細長いものが、無数に皮膚を突き破って蠢いている。
体節、歩肢、顎肢――。まぎれもなくムカデだ。
それが着ているシャツの下をびっしりと覆い尽くしていく。
犬岡の手が、マチェーテの男の腕を大きな掌で掴んだ。
男の身体に手を添え、太い上腕をいとも簡単に引き千切る。
絶叫が上がった。
よろける男の片方の腕も掴むと、同じように肩口から力ずくで引っこ抜く。
鮮血がとんでもない勢いで飛び散り、一面が血の海となった。
突然、音楽が止まった。
状況を察知した運営が、音量をオフにし、平時仕様の照明をつけたのだ。
現実的な明かりの下で、血を浴びたフロア中の人間が凍り付いていた。
一人の男が、ヒトを人形のように解体している事実を、まだ呑み込めないでいる。
「オマエら、固まってる場合じゃねえぞ?」
フロアに犬岡の声が響いた。
「こっからオレはとことん暴れ尽くすからな。このバケモノの身体でどこまで出来るか試す。そのスタート地点がココだ」
話している犬岡の顔に変化が生じた。
せり出た額や痘痕だらけの肌が黒ずみ、光沢を帯びてゆく。
シャツの内側で蠢くムカデが服を突き破り、犬岡の身体を覆い始めた。
首筋から溢れた一匹が眼球の縁を這う。
口の端からも数匹が零れ落ちた。ムカデはさらに増えていく。
肩を覆い、胸を覆い、腕を覆う。
黒い甲殻が幾重にも折り重なり、人の輪郭が別の何かへと塗り替えられていく。
誰も声を出せなかった。
震える息の中で、VIP席の寄木だけが呟いた。
「……バケモン」
「オマエら逃げる用意はできてるのか?必死でガンバレよ?さもなきゃ、コイツらみたいにグチャグチャにされちまうんだぞ?」
犬岡の言葉と足元に倒れている死体が繋がる。
怪物の矛先が自分たちにも向けられていることを、フロアの男女たちは一瞬で理解した。
わあああああっ
場が一気にパニックになる。
フロアから狭い出口に向かって一斉に動き、細い廊下がたちまち詰まった。
混乱する人ごみの中で、数人が倒れ、踏まれ、潰される。
「ぎゃははははっ!」
犬岡が大口を開けて爆笑した。
人の捌けたフロアに立つと、出口までの通路で詰まっている人ごみに向かって身を低くし、クラウチングスタートのような体勢を取った。
床を蹴る。
重量と力を伴い、相撲のぶちかましのように、人ごみへと突進していった。
最後尾にいた人間を始めに、出口で詰まる男女たちに致死と圧壊の力が掛かった。
それはトコロテンの製造と似ている。
怪物の力による押し出しは建物の扉を破壊し、出口から潰れた人間たちが一塊になって吐き出された。
付近にいた大勢の通行人がその場に立ち止まる。
人体の塊の次に出て来た犬岡の姿に、悲鳴が上がった。
自由に、意のままに、飽きるまで――
高藤の言葉が犬岡の脳裏によみがえるが、それを犬岡は否定した。
いちいち提案されなくても、ヤるに決まってんだろ。こんな楽しいコト。
狂騒のはじまりだ。
俺が望んだ舞台だ。
新宿の一番街に、犬岡の雄叫びが突き抜けた。




