ep2-1. 嗤うケダモノ
「公安総務課・特別調査担当の和也です」
150cmに満たない体格に、クセのないロングヘア。
フォーマルのパンツスーツに身を包んだ若い女性だった。
所作や名刺を差し出す指先に、一切の揺れがない。
「公安サン…、ですか」
会議室の空気が、一瞬で重くなった。
警備課長は複雑な顔で名刺を受け取り、溜息を吐いた。
プロジェクターで映し出されている北千住の惨状が、室内を青白く照らしている。
「今回の北千住事案について、調査協力で派遣されました。署長には公安部の海野理事官からもお話が通されています。急ぎ確認をお願いします」
「また、いつもより急ですね」
公安という彼女に対しての態度が、警備課長の表情には露骨に滲んでいる。
被害の状況から、よほど余裕が無いのだろう。
そこに割り込んできたお達しだ。
他の署員の顔つきからもそれが伺える中、警備課長は努めて割り切った対応に切り替えた。
「はい。えー、そちらの話は了解しました。ただ、こちらも署員が何人も殉職している。特に内の一人は、署の人間全員が世話になっていた方だった。それで皆、感情も昂っています。そうした事情も汲んでもらわないと、連携の妨げになりかねない」
「ご心痛はお察しします。しかし事態が事態です。被害規模に対して、現場映像が極端に少ない点についても疑問を感じています」
「それについては、第三者からの介入があったとしか…」
「こちらで確認した限りですが、特に重要事項に関する情報が、アップロード前に次々と消去されています。経由先も海外に散っている。偶発とは考えにくいです」
彼女の説明を苦い顔で聞いていた警備課長が、ふと反応を見せる。
「重要事項って……。結局、アナタ方そこですか?」
「はい。突飛ではありますが、コトの要はその三体の未確認生物にあると捉えています。本日は現地視察と、北千住マルイで彼らに最も接近したとされる被害女性への聴取を優先します」
「……、承知しました。視察に関しては、うちの署員を一人随行させます。構いませんね?」
「ありがとうございます」
警備課長は立ち上がりながら、名刺に目を落とした。
「少しお待ちください。署長に報告と確認をさせてもらいます。えー…、カズヤ、さん?」
「……………………」
――ん?アレ?今…、舌打ちされた?
「……ナゴナリ、です」
公安から来た女、和也多紀は溜息交じりに言った。
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カーテンの隙間から、湿ったバンコクの夜景が滲んでいる。
サービスアパートの部屋で、大柄の男はテーブル上のスマートフォンを前に、一人呆然としていた。
スピーカーモードにした音声の向こう側が、男たちの阿鼻叫喚に溢れている。
特殊詐欺を受け持つ新宿の事務所から不意な連絡があり、それに出た途端に聞こえてきた音声だった。
『あっ大島さん!いま…っ』
電話の向こうから、誰かが呼びかけてきた。
おそらく大島の舎弟だろうが、それが誰かの判別もつかないまま、何かに巻き込まれるように遠ざかっていく。
最初は警察のガサ入れかと思った。
しかし、聞こえてくるのはそういう類ではない。
何かを叩き潰し、固い物が砕ける音。
それに絶叫する男たちの声と、こだまするコンクリート壁からの反響。
凄惨なリンチの現場で、よく耳にする臨場感だ。
大島自身、そういう場に幾度も居合わせいてたことから、イメージがすぐに付いてきた。
「お、おい」
スマートフォンに向かって声を掛けたが、当然反応はない。
複数いたはずの男たちの声は、次第に少なくなっていき、ついに声の主は一人だけとなった。
――そこからが長かった。
悲鳴から泣き声へと変わり、ゴボゴボと血が絡むような音が混じり出す。
許してください。
やめてください。
敬語で懇願する言葉に、男の太い笑い声が被さった。
やがてズルズルと濡れたものを引きずり出すような、得体の知れない音が聞こえてくると、舎弟と思われる者の声はプッツリ止んだ。
『よう大島っ、いまタイに隠れてるんだってなあ?』
「だっ誰だ!?」
いきなりスマートフォンから聞こえた声の勢いと大きさに、大島は思わず声を上げた。
『オマエ、俺をハメやがったんだよな?舎弟が全部話したぞ?』
「…まさか、犬岡か?!」
『オマエの舎弟バカだぜ!人数揃えりゃオレをどうにかできると思ってたのかよ、ええ!?』
「…っ、うるせえっ!地下でも格下だったテメエなんざすぐ潰せんだよ!待ってろよ、他のトコから人出してテメエを…」
『ぎゃははははっ!』
スピーカー越しとは思えないほど、笑い声が低く割れて響いた。
その声の奥で、何か別の音が軋んでいる。
キチキチと、喉の奥で無数の虫が蠢いているような…。
明らかに異質な感覚が、大島の背筋をまさぐってくる。
『そりゃブクロの奴らだよな?ついさっき全員ツブしたよ!テメエの繋がり、全部壊してくから!明日には終わらせてるから!これから自分がどうなるか、せいぜいタイでビビっとけ!』
「オマ…、嘘つけよ」
威勢もへったくれもない震え声が、大島から洩れて出た。
空調の効いた部屋の中のはずが、ひどくネバついた汗が噴き出ている。
通常ならハッタリと看破するはずが、その胆力を根こそぎ引っこ抜かれてしまったようだ。
『もうちょっとしたら現地の奴らにオマエ狙わせるから。麻酔無しで腹ァ開いて全部売ってやるよ!ついでに裏チャットで小遣いも稼がせてもらうわ!』
突然、スマートフォンがビデオ通話に切り替わった。
整然としていた事務所の中が、メチャメチャになっている。
叩き壊され、折り重なったデスクの合間に、人間の手足や頭がいくつも生えているのが見えた。
その中央では、全身を血で濡らした男が、手に何かをブラ下げて立っている。
教科書の人体解剖図でよく見たのと同じものだった。
「犬岡…?」
額が前にせり出た特徴的な顔だ。
表面を覆う肌の痘痕が岩のようである。
その相貌が血に濡れている。
窪んだ眼窩の奥にある瞳が、異様にギラギラしていた。
「見えるか?オメエもこうなるんだよ」
強烈な笑顔だった。
知っているはずの男なのに、大島はなぜか犬岡を、同じニンゲンとして見ることが出来なかった。
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「地域版上がりましたあ」
モニター上で新聞の切り抜き記事をまとめた文本響一が、上長に声を掛けた。
毎日上がってくる全国の新聞をひたすらデータ化し、必要な記事の切り抜きをクライアントにメール配信するのが、響一が派遣された会社の業務だ。
この仕事に就いて5年目になる。
給料は派遣されてから変わっていない。
深夜手当も入れて手取り月24万円。
36歳の響一にとっては、生かさず殺さずといった収入だ。
他のスタッフ5名も似たり寄ったりな感じだが、住処が持ち家で本当によかったと響一は思っている。
「はい、ご苦労さん。本当は休憩なんだけど、文本さんチョット」
派遣先の社員である岩倉が響一に手招きをしてきた。職務上、彼の上長に当たる。
いつもは昼間の勤務だが、交代勤で今日は夜の担当として現場管理を務めているのだ。
「3日前は大変だったようで。ご無事で何よりでしたよ」
『響一、この男がオマエの上に立つ人間なのか?』
ふいに”声”が、響一の耳骨を震わせてきた。
「…っ、はい、そう、みたいですね」
”声”の質問は無視し、響一は敢えて岩倉の方に話を合わせた。
「みたいですねって…、あぁアナタ、地元が大混乱のときに寝てたんでしたっけ?体調不良で?」
『どういう意味の質問なんだ?』
「はい、そんな感じです」
「あっはは!流石ですね!じゃあ休憩入ってください。あと携帯は無くさないでくださいね」
『響一、この男はなぜ笑いだす?』
「ああ、あはは、その節は大変失礼しました」
ごまかし半分で出た響一の笑い方を見た岩倉が、ピタリと静かになった。
「…笑って言うことではないでしょ?あなたの管理の問題じゃないですか?」
冷ややかに言い放つ。
「はい、…すみません」
『謝罪するのか?』
「…休憩、入ってください」
響一は無表情で踵を返し、トイレへ直行した。
ドアを閉めると、なるべく声を立てないようにして風号に怒りをぶつけた。
「オマエ何なんだよ?横からチョロチョロチョロチョロ!」
風号は響一の職場が入っているビルより、少し離れた場所の路地裏に停車されていた。
人通りもなく、文句も言われない場所――。そこに響一は自身のバイクを3年以上置き続けていた。
今は自分のバイクではなく、"風号"というダサい名前の生き物に置き換わっている。
距離は離れていても、響一の感覚は風号にも共有されているようだった。
響一の見るもの、聞くものに対し、風号は学ぶような感覚で万事質問を投げてくるのだ。
とてもウザい。
『響一、あの男は情緒不安定なのか?笑い出したと思えば急に不機嫌になったぞ?』
「知らねえよ!大方、キャバクラで話すネタが欲しかっただけだろ、どうせ!」
『そこも疑問だ。キャバクラ――。異性との情報交換でなぜ多くの金銭が発生する?海々っ子で十分だろう?』
響一は黙ることにした。
『まあいい。ところで、昼頃から”奴ら”の反応が、小さくだが散発的に上がっている』
「…………っ!」
まただ。いつもこの生物は自身の事情を優先させてくる。
歯を軋らせた響一の感情も風号は読み取っているはずだが、なぜか反応してこない。
「……あの”クモ”や"コウモリ"だけじゃないってのかよ?」
『数の把握はできないが、少なくとも4つほど――。こちらを警戒してか、大きな動きは見せていない。だが、近いうちに大きなことを起こす可能性が高い』
「なあそういうの、…もう警察とかに任せようぜ?俺の中にあるオマエの半分とやらだって、もっと責任感の高い、……自衛隊のマッチョとかに渡した方がマシだろう?」
『それはできない。俺の半分は、オマエの肉体と細胞単位で結びついてしまっている。それに…』
「…なんだよ?」
『公権力との繋がりはやはり避けたい。なぜなら、国は俺を確実に所有したがるからだ』
風号の声が重くなった。
『文明という事柄に置き換えるなら、オマエ達人間のレベルはまだまだ低い。個人で理性を語りながら、全体では生存競争を続ける微生物と大差がないからだ。そこに俺や”奴ら”という特異点が入った場合、国同士の喰らい合いが必ず勃発する。群れの構造で言えば、オマエの立ち位置が有難いんだ』
「じゃ、じゃあ俺はっ…」
『続きはあとだ。そろそろ休憩時間が終わるぞ』
「クソッ!…おい、仕事が終わるまで話し掛けてくんなよ?」
『わかった』
響一はトイレのドアを開けた。
暗い廊下を通り、明かりのついている事務所の入り口に向かう。
風号の話は何となく分かったが、レベルが大きすぎて思考の器が追い付いていない。
文明とか、国とか……。オイオイ。
――できる奴がやればいいんだ
藤兵の言葉が浮かんでくる。
その重さが、響一の肩を更に痛くした。
できる奴ってオヤジさん…、オレには無理だよ…。
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「風号!この際だから正直に言うぞ。オレはオマエと手を切りたい!」
仕事を終えてからの帰宅中、響一は風号の背中に乗りながら言い放った。
朝の陽ざしが五反田駅の高架を照らしている。
この時間帯はまだ車通りも少なく、北千住までスムーズに帰ることが出来る。
『さきほどの続きか。何度も言うが、オマエの中にある俺の半分を引きはがすことはできない。それほど深く結び付けねば、オマエの命が危なかった』
「助けてくれたことには感謝するよ。でもなんでだ?敵を倒すだけが理由なら、身を削ってまでオレを助けることなかったんじゃないのか?」
『オマエはあの時、オレの不可抗力で巻き込まれてしまった。助けるべきだと判断した』
「……オレの気持ちは、これ以上巻き込まないでくれって話だよ。普通の生活でいいんだよ。オマエだけで戦えないのかよ?」
『無理だ。オマエに託した半分は、俺の能力の能動的な部分を司っている。あの"クモ"との戦いでも、”赤の力”があったからこそ、ひっくり返すことができた」
信号が赤になった。
停車すると、風号のエンジン音だけが、朝の静けさに響いた。
『――響一、黙っておこうと思っていたが、先ほどのオマエの表明で話が変わった。オマエには説明しておかねばならないことがある」
沈黙を破ったのは風号の方だった。信号が青になり、響一はアクセルを開いた。
風号のバイクとしての操縦は響一が行っている。
「またかよ…、なんだよ?」
『”クモ”からオマエに注入された毒は、今でもオマエの体内で活き続けている。それを、俺の半分が抑えているんだ。その制御と調整は俺が遠隔で行っているが、範囲には限界がある。――およそ半径1.5km。それを越えたときにオマエがどうなるのか、俺にもわからん」
「………………」
響一は通り沿いの明治学院大学のキャンパス脇で、立ったまま頭を抱えていた。
風号は路肩に停められ、彼の薄暗い背中を見つめている。
「なあ、オレは人生詰まされてんのかよ?」
呟いた言葉が独り言のように聞こえる。
『近いかも知れんが、オマエが終われば俺も終わる。”奴”に対抗する手段がなくなることが、俺にとっての一番の脅威だからだ』
「……知るかよ」
『響一、気を持つんだ。希望はないわけではない』
「……どういうことだよ?」
『”クモ”が自身の毒にやられないのは、体内に中和するための酵素があるということだ。奴はまだ生きている。奴を確保することで、オマエは助かるかもしれん』
「…………っ!」
響一が振り向いた。
彼の見開かれた瞳を、風号は真っ直ぐ見据えて言った。
『巻き込んだことの謝罪だけで終わらせるつもりはない。響一、オマエを人に戻す。その方法を探し出してみせる』
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「なんか浮ついた人が入ってくるようになってない?」
自分以外には誰も客がいない薬局店のレジ先で、立華は棒アイスを食べながら、外の人通りを眺めて言った。
北千住のテロ事件から、十日が過ぎている。
それまで閉鎖されていた商店街もようやく解放され、営業を再開する店が増えてきた。
同時に、外から来た人々が修復中の道や建物を見物するようになった。
「た、確かに撮影でスマホ構えてる人、増えたよね」
レジ奥で書類をまとめながら、白衣姿の西上が、しわがれた声で言った。
窓の向こうでは、シートに囲われた建物の前で、カップルが並んで自撮りポーズを決めている。
「鉄板で引っぱたきたくなるわね…」
「む、昔、思い出しちゃう?」
言いながら、西上が書類をまとめたA4の封筒を立華に手渡す。
食べ終わったアイスの棒を咥えながら、立華は少し済まなそうな素振りを西上に見せた。
「ありがと。悪いわね…」
西上が少しかしこまったようにOKサインを出す。
「コレ、近日中に古巣のところに持ってくことになるけどさ。何か捕捉ってある?」
「ニュ、ニュースでも言ってたけど、感染症の心配はないって。で、もっと驚くのは…」
立華の横で、西上はわざわざ声を潜めた。
「あの日取ったサンプル、組織解析したら人間と変わらないんだって。何かの毒素を注入されたのは確からしいけど、そ、それは痕跡だけ。未知の物質とか何にも無し」
「――本当に?」
「無し」
念を押すように西上が言った。
「……そっか。頑張って調べてもらった割には、だね」
「も、もう国も知ってるだろうけど、全然発表してこないから、これからどんどんキナ臭くなってくるかもね。病気デッチ上げて特効新薬とか謳い出したり…」
「アンタ、相っ変わらず考え方黒いわね。――でも、恩に着るよ。アタシもお父ちゃんの仇が何だったのかくらいは知りた……んんっ?!」
立華は思わず目を見開いた。
レジ横から見える外の人通りで、警官が1人、たどたどしく動いているのが見える。
「あ、ブラックだ」
つられて見た西上が言った。
そのブラック巡査に案内されながら、一人の小柄な女性が、彼の大げさな身振り手振りを交えた説明に、静かに耳を傾けているようだ。
女性はフォーマルのパンツスーツを着こなしており、かなり固そうな雰囲気があった。
店の外での事なので、彼らが何を話しているのかは立華たちには聞こえない。
「ヤダ、なぁにアイツ?!女のコなんか連れちゃって!」
「や、フツーに仕事でなにかの案内してるんじゃないかな?」
「でもブラック、何か張り切ってない?あの悪党ヅラじゃ、悪巧み語ってるようにしか見えないって」
「んふふ、そうだね。で、でもあんなの田門クンが見たら…」
「あ、出てきた」
本当にエプロン姿の田門が、横から姿を現してきた。
「わ、笑ってるけど…、ちょっ、ちょっぴり狂犬の顔になってる」
「ブラックが女の人連れてるのが気に入らないのよ。さすが、器小さいわぁっ」
ハラハラしている西上の横で、立華は思わず身を乗り出していた。
完全に劇場を目にしている人間の顔だ。
その劇場に、ヘルメットを被った人物が、バイクに乗ってノロノロとやってきた。
「響一まで来ちゃったよ!アイツ、散歩もバイクに乗って出るの?」
「ほ、ホントだね。でもこの時間の響一って、いつもなら寝てるんじゃないの?」
疲れている様子の響一を強引に止め、田門がいつもの調子で肩をバンバンと叩いた。
「あーでもコレ、波乱の予感だよ?大方、響一が余計なこと言って、キレた田門が…」
どんなやり取りをしていたのか、響一が田門に向かって突然指を差し、何事かを言い出した。
同じように田門の感情も高くなり、バイク=風号の車体を抱えて、左右に激しく揺さぶる。
バランスを崩してよろけた響一が、風号と一緒に倒れてしまった。
「…全部、立華の言う通りになってるね」
「――アタシ、行ってくるわ」
書類の入った封筒を持ち、立華が面倒くさそうに店の外へ出た。
西上薬局からいきなり出てきた彼女に、ブラック巡査が心底驚いた顔を浮かべる。
「りっ、立華さん!?」
「何やってんのよアンタら」
「いや、だって響一が…」
「田門…、てめコノ野郎」
響一が風号の車体を起こしながら毒づいた。
風号は自分がバイクという世間の目に配慮しているのか、動く気配をまったく見せない。
「二人とも、どうせバカな理由なんでしょ?西上薬局からずっと(楽しんで)観察させてもらってたわ」
「――あの、藤兵立華さん、でよろしいですか?」
ブラック巡査の後ろに付いていた女性が、ふいに話し掛けてきた。
「はい、どうも」
「はじめまして、私、黒田さんと同じ警察関係のもので、和也といいます」
「――公安の人?」
差し出された名刺に、立華はわずかに緊張の色を見せた。
手にしていた封筒をそれとなく小脇に挟み、身体から離れないように固定する。
「はい。先日の事件において一般市民の避難誘導など、現地でかなりの活躍をされたと聞き及んでいます。状況調査のため、お話を詳しく伺いたいと思いまして」
「それは別に構わないけど、店の仕込みがあるから、何なら店で…」
「なあおい」
横から男の声が響いてきた。
振り向くと男が数人、立華たちに歩いてくる。
いずれもあまり一般的な風体ではない。
「バケモノが出たんだってな?オレもさ、色々知りたくてコッチに足運んだんだわ」
声を出したのは、その中心にいる背の高い男だった。
身体を揺らし、圧力を纏いながら前に出てくる。
妙にせり出た額、岩のような痘痕の肌、薄い唇の奥に、デコボコの乱杭歯が並んでいる。
犬岡だった。
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「たまたま話が耳に入ったんだよ。話聞かせてくれよ?」
強烈なのは彼から発される匂いだった。
血のような生臭さに強い香水を浴びせたような、酷い刺激臭が周囲の鼻を突く。
爛々とした瞳が、ふと立華を捉えた。
「んんっ?」
じっとりと眺めた上で、いきなり立華の前まで距離を詰めてきた。
「なっ!?」
思わず立華も身体を仰け反らせてしまう。
圧と近さが尋常ではない。
「いいいオンナだなあ」
吐いた息が、立華の顔に掛かってきた。
「な、なによアンタ!?」
いきなり自分の”女”に喰いつかれたことに、立華は思わず面食らってしまった。
だが同時に、事件前にコンビニで見た薄汚れた男の姿が脳裏に浮かんでくる。
なぜか?
あの人間からかけ離れた異様、それと同じ気配が、犬岡にはあったのだ。
「目的忘れちまうよ。一緒に来いよ。話をしてくれ」
彼女に向かって、何の遠慮も無く手を伸ばしてきた。
大きな掌だ。
わし掴もうとする手を、立華が一歩引いてかわす。
「ちょっ、ちょっとアンタ!」
ブラック巡査が身体を張って立ち塞がろうとするが、犬岡が簡単に押し退ける。
「ブラック!」
転んでしまったブラック巡査に気を取られ、対応が一歩遅れた。
再度手が伸びてくる。
その進路に割り込んだ田門の顔面を、犬岡は片手で掴み取った。
「あれ?」
「…おいコラ」
立華の前を塞ごうとした田門が、犬岡の手の中でオラついて見せる。
「ガキ――、立華に手ぇ出すならオレを通せや。そこらのサルが触れていいような…あああっ!」
田門の身体が浮き上がった。
頭を握られ、そのまま持ち上げられたのだ。
男の体格に対しての単純な握力、腕力が常識を外れている。
後方の和也がその状況に、目を見開いた。
「その、そこらのサルに摘ままれてるオマエは、ノミ以下じゃね?」
田門の身体が横に向かって飛んだ。
向かいにある修復中の建物に向かって、無造作に放り投げられたのだ。
田門は吸い込まれるように、建物の入り口から中へと消えていった。
「黒田さん!応援呼んでください!」
その後ろで和也がブラック巡査に指示を出した。
腰を打ったのか、顔をしかめながらブラック巡査がトランシーバーを手に取る。
「おい」
笑いを貼り付けている犬岡の前に、今度は響一が立ちはだかっていた。
腰を落とし、息を吐きながら手を前に置いて構えている。
「ぷっ、おま…、通信空手かよ?」
「ガチだバカ野郎」
『響一、ダメだ』
風号の警告が聞こえたことで、響一は確信した。
この男は人間ではない。あの”クモ”と同種の怪物――。
偶然とはいえ、白昼から出くわすとは、思ってもいなかった。
ともかく――。
周囲の目がある中で、あの姿になるワケにはいかない。
そもそも風号自身においても、対応する動きが見られなかった。
「響一、アンタ下がって!」
「後ろの子分と一緒に消えてけ。息とか臭えんだよ!」
前に出ようとする立華より先に、響一が犬岡に啖呵を切った。
「はあ?」
犬岡の表情が一瞬止まった。
明らかに響一の言葉への反応だ。
唇をキュッとすぼめ、何だか泣いているような表情になる。
「オマエ、人のコト臭えとか…、ひでえ事言うなぁ」
そう洩らす様に言うと、すぐに犬岡から別の感情が露わになった。
犬岡の顔が凶悪に変容する。
ドス黒い顔色で響一を睨み上げ、視線を響一に突き刺していた。
「んあっ!!」
犬岡が飛び出してきた。
乱杭歯を剝き出し、中腰の体勢で一気に距離が詰まる。
速い。が、対応できないわけではない。
横に動こうとした刹那、響一はなぜか足がもつれていた。
「なんっ!??」
何もできずに響一は首根っこを掴まれた。
持ち上げられ、力任せにアスファルトに叩きつけられる。
頭の奥が痺れている。
腹に重たいものが乗り、人の体重を感じた。
目を開けると、馬乗りになった犬岡が拳を振り上げているの見える。
視界が、拳に覆われた。
――4発、5発。
速い攻撃なのに、一撃がやたら重い。
対応を考える間も与えられず、一呼吸の間で鼻が折れ、頬骨が子砂利のように砕けた。
削岩機の連射を食らっているようだった。
「オレを臭いなんていうヤツはなあっ」
拳を振るう。
感情の放出が、壊すことの悦びに変わっている。
狂騒の声で犬岡は吠えた。
「こうして……、こぉしてぇ!」
その声に異様な音が紛れ込んでいる。
針金がこすれるような、不快な音色だ。
「グッチャグチャにしてやんだよっ!」
止めの拳を振り上げた犬岡の上半身がなぜか後ろに泳いだ。
手首を取られ、背面に極められる。
「ご所望なら、アタシが相手してやるよ」
立華が冷えた表情で言った。
力を使わず、人間の構造を利用した制圧術だ。
「やるじゃんよ」
ニヤリとした犬岡の手から、ガチャリと金属がロックされる音が鳴った。
立華が取っている犬岡の腕に、和也の小柄な身体が飛びつき、ぶら下がっている。
ブラック巡査のベルトから手錠を抜き、腕に掛けていた。
「威力妨害行為による逮捕!黒田さん、拘束に協力して!」
「あっ、あい!」
腰の銃に手をやりかけたブラック巡査も、ハッとしたように犬岡の腕に組みついた。
「いっ、犬岡さんっ」
それまで空気だった犬岡の手下が声を上げた。
「あのオマワリ、応援呼んでました。もうすぐ沢山来ます!」
「あぁあ」
残念そうな声を洩らした犬岡が、身を起こそうとした。
関節の痛みなど、まるで意に介していないかのような動きだ。
「は?」
立華たちはあり得ないものを見ていた。
極められていた関節をゴリゴリと動かし、犬岡は力を入れやすいように位置を調整している。
立華たちの身体が浮き上がった。
関節がおかしな方向に曲がった状態の腕で、立華、和也、ブラックの3人が悠々と持ち上げられたのだ。
少し腕を振ると、反動で3人の身体が宙に放られた。
立華は着地が出来たが、ブラックは新たに腰を打ち、更に和也の身体が追い打ちをかけた。
「ぐっ…、がっ」
痛みにブラック巡査が声を出す。
「…なんなんだ?オマエ」
信じられない顔つきの立華に、犬岡がニンマリと歯を見せた。
何をしている風でもないのに、肩から変形している節々が音を鳴らし、元に戻っていく。
同じ様子を見ていたブラック巡査も、唖然として固まっていた。
「おいズラかるぞ」
立華を見つめたまま、背後の手下たちに言った。
「オマエ、たまんねえよ。でも仕事が済むまで派手なことは控えてんだ」
「チンピラっ。次見たら潰すから」
犬岡を見据え、立華が押し殺すように言った。
感情の無い、機械のような殺気が瞳に籠っている。
犬岡は口の端をめくり上げた。
「やっぱイイ。決めた。オマエはオレのオンナになるんだ」
「黙れ」
「また来るわ」
犬岡の破顔が横に動き、そのまま脇の道へと歩いていく。
手下たちも慌てたように、彼の後を追いかけて消えた。
その姿が消えたのを確認した後、立華はすぐに響一に駆け寄った。
「響一ゴメンっ!タイミング図れなかった!」
原型を留めていない響一の顔面を、立華は必死に診ている。
突然、西上薬局の扉が開き、中から西上が薬品の入ったビンを持って飛び出してきた。
「あ、アイツらは?」
「逃げました。あいてて……、ソレ何持ってんスか?」
ブラック巡査が腰をさすりながら、西上の手にしている物を訊いた。
「え、硫酸」
「西上!ガーゼと包帯と消毒液!あと氷嚢も持ってきて!それと田門の様子も見てあげてっ!」
「あ、え、指示多い…。田門クン?……どこ?」
「黒田巡査、救急車もすぐに呼んでください。ケガ人は2名で…」
「大丈夫ですかあ!」
応援で呼ばれた警官たちが集団で駆けつけてきた。
薄れていく意識の中で、響一は風号の声を聞いた。
『響一、じっとしていろ。死ぬことはない』
ふざけんな
風号に言おうとしたが、口の中がどうなっているのか、舌さえ動かすことができない。
『それより聞くんだ』
風号の声が耳に響いた。
『”奴ら”の一人だ。向こうから来た』
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「あの、殴られたのは間違いないんですよね?」
メガネをかけなおし、救急病院の医師は、救急隊からの記録と響一の顔面を見比べている。
「はい」
真っ赤に塗りたくられた血は洗われ、すっかり綺麗になった響一の顔は、それでも不思議な表情で返事をした。
「救急隊の記録だと、もっと酷い状態だったはずなんですが……」
「そうですか……」
「普通なら縫うような傷ですよ?なぜか閉じてる」
「はぁ……」
「痛みませんか?」
「まあ、少し」
「…………ともかく、頭も打ってるみたいなので、念のためCT撮りましょ。夕方くらいまで経過観察、異常がなければ…、うーん帰宅して自宅で安静ですかね?」
「どうも」
互いに腑に落ちない表情で、やり取りが終わってしまった。
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「また、有給使うことになるのか……」
搬送ベッドに横たわったまま、響一は天井を見上げた。
診断書はもらうことになるが、上長の岩倉からまた絶対に嫌味を言われるのだろう。
顔を触ってみる。
砕けた感触は消えていた。
だが犬岡の拳が頬骨を潰した感覚だけは残っている。
「あの野郎……」
『回復したな。今、この病院の駐輪場にいる』
耳骨から風号の声がゴソリと聞こえた。
思わず舌打ちが出てしまう。
『”奴ら”から来るのは予想外だった。足取りはつかめている。奴は新宿を根城にしている』
「オマエあの時、オレを骨抜きにしたろ。対応しようとしたら力が抜けた」
『あの場でオマエの正体を晒すことはできないからな。動きを制限させてもらった』
「オマ…、オレぁ死んだと思ったぞ」
『骨格を補正したり、組織を再接続するくらいなら可能だ』
もはや驚きもしなかった。
ただただ溜息が尽きない中、ふいに足音が近づいてきた。
女性だろうか。パンプスを打ち鳴らす、軽くて鋭い音が廊下に響いている。
『マズい人間が来た』
「えっ?だっ、誰だよ?」
『あの小さい女だ』
風号の声と同時に、響一の頬に鈍い痛みが走った。
「あっ?いっ、いてて」
「文本、響一さん?」
痛みにうずくまった背後から、女性の声が呼びかけてきた。
振り向くと、黒いパンツスーツ姿の女性が立っている。
確かに先ほど奮闘していた、あの小柄な女だった。
「…………あ」
「先ほどはどうも」
そう言ったときの響一の顔はボコボコに変形し、殴打の後が痛々しく残る顔面になっていた。
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『じゃあ、お見舞いとか、行かなくていいんだね?』
通話の向こうで、立華は安堵の声を洩らした。
「見舞いとか、別にいいよ。入院するほどのものじゃなかったし」
口の中に異物感があるせいか、うまく喋れない。
響一は立華とスマートフォンから連絡を取っていた。
彼の様態を知った和也から、すぐに連絡を取るよう、勧められたのである。
立華に身体の無事を伝えたところ、ひどく安堵したと同時に深い謝罪を受けた。
彼女から謝られるのは、人生で初めてかもしれない。
ひどくムズ痒くなってきた。
「てかオマエだよ。あんなヤバそうなのに目ぇ付けられて……」
『特に気にしてないよ。藤岡さんや佐々木さんの方がもっとヤバかったって』
「いや……、そういうんじゃ……」
響一は思わず言葉を濁した。
あの男は紛れもない怪物なのだ。
本当のことを伝えたいが、それが出来ないのは横に和也多紀がいるからだった。
彼女は椅子に鎮座した位置から、終始響一を見ている。
見ているというより、観察に近いのかもしれない。
彼の一挙手一投足――。
その全てを、つぶさに頭に描き込んでいるような顔だ。
公安の調査員ということだが、要は警察の親戚みたいな役職にあたるのか?
とにかく、この場で余計なことは言わない方が良いと感じた。
『そっちは気にしないで。いざとなったら戦略的撤退だから。そのやり方は叩き込まれたよ』
「と、とにかく気をつけろよ。……そういえば田門は?」
『投げられた先にマットがあって、鼻血だけで済んだって』
なんで鼻血なんだよ。
ひとしきりの話を済ませ、響一は静かに通話を切った。
膨らんだ顔を、改めて横にいる和也に向ける。
「あの暴漢は警察において追跡中です。所在が分かり次第、拘束する予定です」
通話の内容を汲んだ和也が、落ち着いた様子で語りかけてきた。
「それより失礼ですが、あれだけ殴られたのに、普通に会話できることに驚いています。脳の診断は大丈夫だったんですか?」
ここで響一は、初めて彼女の顔と面と向かい合った。
地味な顔立ちだが、その気になって化粧でもすれば、かなり光るのではないだろうか?
「んー、なんか、大丈夫な感じみたいです。見た目はこんなんですけど」
「すみません、こちらも職務ですので、いくつか確認させてください。手短に済ませます」
これは尋問という奴なのだろうか?
初めての経験に、響一は少し緊張してしまう。
「……はい、どうぞ」
「文本さん、今日の加害者と面識は?」
「まったくないです。あの場にはアナタもいましたよね?」
「はい。オートバイで移動の上、合流されてましたが、それまではどちらに?」
「えー、朝から六本木、渋谷、新宿、池袋…、とグルっと走っていました」
「失礼ですが、何か目的があってのことですか?」
『キャバクラで異性と情報交換していたと言え』
またいきなり風号が、耳骨から話し掛けてきた。
何、言ってやがるんだコノ野郎は…。
アドバイスのつもりかもしれないが、響一は彼の助言を徹底的に無視することに決めた。
「…………いえ、そーいうのじゃあ、ないですね。…散歩がてらというか、適当に流してただけです」
「そうですか。本題ですが、記録では10日前のテロ事件当日、事件に関わる参考人として北千住本署へ伺う話になっていたとあります。理由を教えてくれますか?」
『海々っ子で無銭飲食しようとしたところを見つかった。藤兵巡査長に咎められ、出頭するよう言われた。そう言うんだ』
…っ、何でそうなるんだよ!
「…………あの当日、町の近くで、へんな影が建物の上を移動しているのを見たんです。それから藤兵、立華さんのお店で酒を呑んでいて、それを藤兵さんに報告した、だけです」
『…まあいい』
「藤兵巡査部長……、殉職されてますから、今は警部ですね。立華さんから聞きましたが、藤兵警部はあなたとも親しい間柄だったと聞いています。海々っ子でお話をされた後、文本さんは何事かあったように店から飛び出してどこかへ行かれてますね?」
「……はい」
「理由を教えてください」
『藤兵巡査長が忘れ物をしたという話はどうだ?』
「……離れた直後、藤兵さんが、携帯電話を忘れてたんです。それを届けに」
「それはどこで渡されましたか?」
「路地の…、裏です。追いついた頃にはすでに、藤兵さんは倒れていて。その時には…」
「その時には?」
「……人の姿を、留めていませんでした」
あれはやはり思い出したくない記憶なのだと、響一は痛感した。
怪物となった藤兵を、自分は頚椎を捻って殺してしまったのだ。
「――ごめんなさい」
和也がそう詫びた時、スマートフォンのバイブ音が鳴った。
「失礼」
そう言って背を向け、彼女は小さな声でやり取りを始めた。
ほどなく会話を終わらせると、
「文本さん、申し訳ありません。緊急で本部に戻らなければならなくなりました。お話の途中ですが、いったん失礼させていただきます」
「ああ、そうですか」
響一は少し安堵した。
この女の質問は、やけに圧が強い。
「あ、最後に…」
再び和也が響一を見た。
「当日、アナタは体調不良を理由にお仕事を欠勤されてますね。その理由を教えてください」
「……理由は、ないです。たまたま、そんな気分だったんですよ。そういうときって、えー、カズヤさんもありません?」
渡された名刺で名前を確認しながら話し掛けた。
「……………………」
――ん?アレ?今…、舌打ちされた?
「確かにありますね。人間ですから」
そう薄く笑い、和也は背を向けた。
パンプスの音が廊下に響き、次第に遠のいていく。
『あの女、要注意だ』
和也の存在が完全に失せたのを確認した後、風号が話し掛けてきた。
「なんか…、薄ら怖かったな。見透かされてるみたいだったぞ」
『和也多紀、27歳だな。警視庁での所轄勤務から公安部に引き抜かれている。情報収集、内偵に長けた人材、といったところだ』
「調べたのかよ?」
『ネットの情報を統合した。藤兵もそうだったが、行政に勤める人間というのは鋭い人間が多そうだ。彼女の携帯を鳴らさなければ、丸裸にされていたかもしれん』
「オマエ、そんなことしてたのか?」
『上司を装って彼女が本部に戻るよう仕向けた』
「オレオレ詐欺かよっ」
『響一、オマエ彼女の名字を間違えて言ったな。表に出さなかったが、感情のトーンが一つ跳ねた。根に持たれたかもしれん』
「ぷっ、よせよ、そんな言い方」
笑いながら再度名刺を見ると、確かにふりがなに”なごなり”とある。
「だっ…、痛ってて!」
響一が不意の痛みに顔面を抑えた。
腫れていた響一の顔面が元の状態に戻っていったのだ。
肉の内で剥がれかけていた頬骨が急速に吊り上げられ、痛覚を刺激している。
『彼女はまた来る。対応を考えた方が良さそうだな』
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歩きながら気を落ち着かせ、和也は道すがら、響一との会話を整理していた。
話の内容に整合性はある。殉職した藤兵巡査長の話を出し、個人的な感情も伺えた。
ここまでなら、文本響一は不運に見舞われた遭遇者の一人、ということになる。
疑問点をまとめてみる。まずは防犯カメラの記録から――。
当日の現場付近の防犯カメラには、あの文本響一と特徴の一致する人物が映っていたが、路地へ入った後の足取りが消えている。
しかも、その直前の走行速度は異常だった。
彼の隣を走っていた無人のオートバイも説明がつかない。
そして今日。
あれだけの暴行を受けながら、検査結果は軽傷に近い。顔は酷かったが。
あの暴漢とは別に、文本響一についても継続調査が必要だろう。
もっと情報調査の枠を広げてみよう。ネットから彼の痕跡を徹底的に探すことで、浮かび上がる情報もあるはずだ。
先日は北千住マルイの被害者、特にあの女子大生からは貴重な供述を聞くこともできた。
彼女の話では、三体の未確認生物の内、二体は言語――、それも日本語を話していたという。
大丈夫か?と、助けてくれた”彼”は訊いてくれました――。
あの女子大生はそう供述していた。
断片だった情報が、一つの輪郭を結び始めていた。
そして、その輪郭にはなぜか文本響一という一般人が付きまとってくる。
本部に戻ったら理事官に報告の上、次の出方を検証しよう。
そう、和也は考えていた。
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「北千住に行ったんだって?例の彼らとは会えたかい?」
「へっ、出だしでツマづいちまったよ。いいオンナがいたんだよな」
神谷町にある愛宕神社の境内に人影はなかった。
社殿を照らす灯だけが静かに夜気へ滲み、山下のオフィス街から漏れる明かりが木々の隙間を白く染めている。
石段の先にも人影は見当たらない。
外灯だけがポツポツと周辺を寂しく照らし、その薄い闇の中で、声だけが漏れ聞こえてくる。
「焦らなくても、キミが本格的に動けば、彼らは絶対に来るさ。佐久間君もそうだったって言うから。そうだよね?」
落ち着いた様子の男の声だった。
灯りの元の闇の中に紛れ、複数人の人間がそこにいるようだが、存在の気配がない。
「犬岡サン。なんで声かけてくれなかったかな?アイツの素顔を知ってるのは僕だよ?」
静かに問いただす感じではあるが、言葉の端に圧がある。
「忙しいオマエへの配慮じゃねえかよ。行ったのは遊び半分だったしな。でもマルイだったか?オマエが発射された跡はしっかり見て来たわ」
「……っ、僕は終始優勢だったんだ。油断もしなかった。ただ、奴の隠し玉が予想外…」
「オレに便乗すんじゃねえよ。ヤリ返したいんだろ?でも一人で行ってまたカマされるのが怖えんだよなあ?」
相手の口から、歯を噛む音が小さく響いた。
明らかな敵意が、そのカリカリと軋む音に混じっている。
「佐久間くん、仲間内の諍いはナイよ?」
間にいる男の声が囁くように響いた。
言い聞かせるような声色だが、どこか楽しんでいるようにも聞こえる。
「……っ、わかってますよ」
佐久間は吹き上がる感情を必死に押し込めているようだ。
「僕は高藤さんの計画に賛同しているんだ。勝手なことなんて、できるワケないじゃないか」
「よぉっ、さすがだなあっ、指示待ちの元社畜は言うことが違うわっ」
「……っ、テメエを差し置いて大した物言いじゃねぇかっ!」
デカく被さってきた犬岡の声に、佐久間の感情が決壊した。
「食う、呑む、ヤるだけが目的の狂犬に言われたかねぇんだけどなぁっ!」
「ほぉ、やるのか。んん?この社畜グモ」
「ぷっ……くく、あはっ、あはははははっ!」
甲高い笑い声が、突然辺りに響き渡った。
佐久間と犬岡のやり取りに、たまらず吹き出した感じだ。
さっきまで誰もいなかったはずの外灯の下に、人の影が舞うように出てきた。
「笑える!男同士の口喧嘩ってスゴく面白い!」
制服姿の少女だった。
ブレザー姿の女子高生が、外灯の元で腹を抱えている。
しっかり化粧を当てた肌を青白い光が照らし、笑いのシルエットだけが異様に際立っている。
佐久間の殺気は、彼女にも飛んだが、本人はまったく意に介していない様子だ。
「シイヤさん。ここは笑っちゃダメなんだ」
高藤が諭すように言った。
その言葉に、シイヤが芝居がかった動きで、ハッと手で口を抑えた。
「ゴメンなさい……。ゴメン!ゴメンなさいっ!真剣な二人の関係に水差しちゃったのね?仲良くしてっ、お願いっ!……ぷはははは!」
「おい」
犬岡が凄む声を上げた。
その矛先はシイヤではない。
「………さっきから何だよ。どけよ」
闇に紛れている犬岡の前を、一人の男が遮っている。
初夏だというのに、ロングコートを羽織った人物だった。
蓬髪の男だ。シャープな顔立ちだが表情が暗く、まるで生きるための意志が通っていない。
「なんだオメエ?ヤリてえのか?」
「………………」
男は答えない。
「オイ反応しろや!殺し合いてえのかよっ!」
犬岡の痘痕だらけの顔面がひび割れた。
肌が黒ずみ、硬質化していく。
ひび割れた肌の中から、赤熱化した肉が露出した。
熱風がそこから噴き出す。
空気が立ち舞い、木々を飾る青葉が萎み、白い煙が上がった。
しかし、男は微動だにしない。
「三瓶くん。もういいんだ」
高藤と呼ばれたフォーマル姿の男の一声で、男=三瓶があっさりと身を引いた。
闇へ戻っていく彼の足元で、乾いた火花のようなものが一瞬だけ散る。
「皆、互いを刺激しすぎてる。各々の目的はハッキリしているはずだよ?ボクとしては、皆に最高の舞台を整えたい。その前の競り合いだなんて、つまらないことだ」
高藤が犬岡に柔らかい視線を送った。対照的に犬岡の眼差しは尖っている。
「でも犬岡君、君の仕事は最高だ。この首都圏にあるトクリュウの派閥を概ね掌握することができた。自由度の高い独自のネットワークと人材を得たことになる。そこへ、佐久間くんのスキルを反映させていきたい」
高藤が佐久間をチラリと見た。
それを受けた佐久間が、ポケットから小さなビニール袋を取り出した。
シイヤだけがユラユラと佇む境内の光景の中で、袋が放物線を描いて物陰に吸い込まれていく。
「適当な奴に呑ませろ。反応を知りたい」
「………。そろそろオレは帰りてえんだけどよ。これって一応集会なんだよな?あのデブと黒猫はどうしたんだよ?」
「ああ、彼らはいいんだ。米野くんは移動も大変そうだし、彼にやってもらいたいことはこちらの号令一つだけで事が足りる。ネコの彼とは僕と密に連携が取れてるから問題はない。どっちにしろ、コミュニケーションは取り難いメンツだろ?――ああ、お開き前にもう一つ、犬岡君の大事な役目について伝えておきたい」
「週末の件か?」
「そうだ。街に人が一番集まる日が、君の完全舞台だよ」
「テメエの指揮は受けねえからな」
「それがいいんだ。好きにやってくれよ。自由に、意のままに、飽きるまで、だ」
高藤の呼びかけに、犬岡が口の端を吊り上げた。
「高藤、オマエにもクギ差しとくぞ。オレは駒でも道具でもねえ。利用するなら相応のウマみを用意しとけよ?」
「犬岡ぁ……」
前に出ようとした佐久間を、高藤が軽く手を振って制した。
睨め上げている犬岡を見ている高藤は、瞳だけ笑っているように見えた。
含んだような表情を作り、
「当り前じゃないか」
声だけが響いた後、動いていた感情の流れが失せた。
その場にいる者たちの声も熱気も消えている。
外灯の下で、ユラユラとやり取りを眺めていたシイヤだけが残った。
「みんな難しいことばっかり」
そう呟き、つまらなそうに明かりの外側へと消えていった。
この話をアップしてから、ようやく少しの読者がいらっしゃることに気が付きました。
ありがとうございます。
色々と足りないところがあり、作品の修正を繰り返してるような感じですが、ヒマつぶしに購読してもらえるとウレシイです。




