第28話|アナログの栞と、重たいスーツ
いつもお読みいただきありがとうございます、第28話です。
絶体絶命のピンチの中、七野の脳内では相変わらずAIたちが喧嘩を始めています(笑)。
頼もしい後輩・あおいちゃんとの見事な連携プレイと、九条先輩との最終決戦をお楽しみください。
「あおいちゃん。一回だけ、マウスから手を離そう」
私の声は、ひどく掠れていた。
給湯室から持ってきた紙コップの冷水を、あおいちゃんのデスクにコトンと置く。水面が小さく揺れていた。
「いい、あおいちゃん。ターゲットが変わったの。現場の担当者さんから、億単位の予算を握る『経営層』に」
「けい、えいそう……」
「そう。だから、昨日のような安心感のある『水色のカーディガン』じゃダメ。もっと重たくて、隙のない、仕立てのいい『ネイビーのスーツ』に着替える必要がある」
私は、震える彼女の背中にそっと手を添えた。
「デザインの骨格は私が用意する。あおいちゃんは、A4サイズにぴったり収まるような、厳格なレイアウトの準備だけをお願い」
「……はいっ」
あおいちゃんが、冷水を一口飲み、強く瞬きをした。
私は自席に戻り、スマートフォンのカメラを起動する。ターゲットは、九条先輩がドンと積み上げた六冊のバインダーだ。
数百ページすべてを撮影している時間はない。私は、バインダーからはみ出している「先輩の付箋」が貼られたページと、目次のサマリーだけを狙って、シャッターを切り続けた。
パシャ、パシャ。
古いインクと、埃の匂いが舞う。この紙の山は、先輩が文字通り足で稼ぎ、削ってきた命の時間そのものだ。
撮影した画像をテキスト化し、まずは論理担当・ジェミーの領域へ放り込む。
『ジェミー。この過去事例から、平均コスト削減率と初期費用を抽出して』
『データを受信。……最悪です。画像が粗く、一部の数値が掠れています。正確なコスト削減率を導き出せる成功率は12%。これではエビデンスとして弱すぎます』
脳内で、生真面目な調査員が眼鏡を押し上げながら嘆く。
『じゃあ、適当に右肩上がりのグラフ描いちゃおうよ! 勢いで誤魔化す! ぶっ壊そう!』
絵師のバナナンが、適当な赤い矢印を振り回す。
『無駄ですね〜。嘘のデータは後で首を絞めます。不確かな年度の事例はすべて削りましょう〜』
職人のクロさんが、冷たくハサミを鳴らした。
脳内で喧嘩を始める分身たち。
私は、荒くなる呼吸を整えながら、彼らのノイズを統合していく。
『チャッピー。クロさんの言う通り、不確かなデータは捨てて。2018年の最も確実な数字だけをベースに、経営層向けの構成案を組んで』
『了解。一緒に組もうか、奈々。三階層の論理展開でいくよ』
脳内の相棒が、ジェミーが拾い上げた「事実」と、クロさんが磨き上げた「品格」を統合し、一つの美しい骨格を組み上げる。
私は出力された構成と数値を、瞬時にあおいちゃんへバトンパスした。
そこからの彼女は、まさに天才だった。
私が指定した無骨なテキストを、彼女は一切の迷いなく、洗練されたシルバーと深いネイビーのグラフィックへと変換していく。経営層が好む、重厚で説得力のあるスライドが、キャンバスの上に次々と構築されていった。
「……ちょっと」
背後から、氷のような声が刺さった。
九条先輩だ。
彼女は、私のデスクに散らばったままのバインダーと、一心不乱にタイピングを続けるあおいちゃんを交互に見比べ、わなわなと唇を震わせていた。
「あなたたち……私が持ってきた資料、ほとんど開いてもいないじゃない。そんな小手先の誤魔化しで、億の金が動かせると思っているの?」
「……」
「紙の一枚一枚に、どれだけの人間が頭を下げて、汗をかいてきたか。それをパソコンで撫でただけで分かった気になるなんて……あんたたち、本当に冷たい機械みたいね」
その声の震えは、怒りというより、悲鳴に近かった。
自分の人生の証明である「苦労」を、いとも簡単にショートカットされたことへの、どうしようもない喪失感。
私は、マウスから手を離した。
ゆっくりと立ち上がり、九条先輩と正面から向き合う。
「……先輩。私たちは、決して先輩の時間を蔑ろになんてしていません」
「口ごたえ……」
「見てください」
私は、あおいちゃんのモニターを指差した。
そこには、過去の事例を元にした、完璧なコスト削減のシミュレーショングラフが映し出されている。
「AIは魔法じゃありません。ただの道具です。先輩たちが残してくれた、この付箋」
私は、バインダーから飛び出している、色褪せたピンク色の付箋にそっと触れた。
「ここが一番重要だと、先輩が印をつけてくれていたから。だから、AIは迷わずに正解の数字を拾い上げることができたのです。先輩のアナログな道標がなければ、私たちは完全に迷子になっていました」
九条先輩は、モニターのグラフと、自分の古い付箋を交互に見つめ、ハッと息を呑んだ。
「私たちは……機械になりたいわけじゃありません」
私は、自分の胸の奥にある、ずっと隠してきた本音を口にした。
「ただ、少しだけ……自分たちを甘やかしたい。無駄な作業にすり減って、心を壊してしまう前に。道具に任せられることは任せて、本当に大切なお客様への思い遣りや、隣にいる人への優しさのために、人間の余力を残しておきたいのです」
自分を甘やかす。
いつか、AI職人のるねさんが教えてくれた、あの温かい哲学。
苦労の量が誠意じゃない。私たちが笑って明日も働くための、優しい手抜き。
九条先輩の細い肩から、ふっと力が抜けた。
彼女は何かを言いかけて、やがてギュッと唇を噛み締めると、何も言わずに自分のデスクへ戻っていった。
電卓を叩く音は、しなかった。
お疲れ様です、作者です。
適当なグラフを描こうとするバナナン、相変わらずブレなくて安心しました(笑)。しかし今回は、なんといっても九条先輩との対峙ですね。「自分たちを甘やかしたい」という七野の本音は、きっと多くの働く人たちが心の奥底に抱えている願いだと思います。
「苦労の量=誠意」という呪縛から解き放たれ、ついに鳴りを潜めた九条先輩の電卓。そして完成に近づく「ネイビーのスーツ」を着た提案資料。午後一時の会議でどんな結果が待っているのか、ワクワクしていただけた方はぜひ★ボタンで評価をお願いいたします!




