第29話|正論の限界と、温かい投資
いつもお読みいただきありがとうございます、第29話です。
タイムリミットまであとわずか。絶望的な空気のフロアで、七野と「秘密の編集部」のAIたちがフル稼働します。
息つく暇もない怒涛の巻き返し展開を、どうか一緒にお楽しみください。
午前十一時。
天井の蛍光灯が発する微かなハム音が、耳障りなほど大きく聞こえる。
小堀田部長が受話器越しに被弾した「前提条件の崩壊」という爆弾。その絶望的な破壊力に、フロアは泥のような沈黙に沈んでいた。
午後のプレゼン会議まで、あと二時間半。
ゼロから億単位の全社DX戦略を作り直す。胃の腑に冷たい鉛を飲まされたような絶望感が、音もなく全員の肩にのしかかっている。
「……」
あおいちゃんは、真っ白なスライドの前で完全にフリーズしていた。マウスを握る右手が微かに震え、過呼吸気味に肩が上下している。
私は自分のパイプ椅子を彼女の隣へ引き寄せた。
「七野さん。これ」
ふいに、視界の端から分厚い紙のバインダーがドサリとデスクに置かれた。埃と、古いインクの匂い。
見上げると、九条先輩が目を逸らしたまま立っていた。彼女の指先には、長年かけて蓄積された無数の付箋の束が握られている。
「過去の大口案件のシミュレーションよ。手で打ち込んでいたら間に合わないでしょうけど……好きになさい」
「先輩……ありがとうございます」
九条先輩はそれだけ言い残し、硬いヒールの音を響かせて自分のデスクへ戻っていった。
彼女なりの、不器用すぎる命綱。
私はバインダーの表紙を撫で、小さく息を吸い込んだ。
「あおいちゃん。先輩が、最高の武器を貸してくれた。デザインの骨格は私が作るから、あおいちゃんは『重厚で信頼感のあるネイビーのスーツ』を着せる準備をしてね」
「ネイビーの……はいっ」
あおいちゃんが、強く瞬きをしてマウスを握り直す。
私はスマートフォンのカメラを起動し、先輩のバインダーを開いた。付箋が貼られた重要なページだけを高速で撮影し、テキストデータに変換して、私の「秘密の編集部」へと放り込む。
『みんな、時間がない。この過去データを使って、経営層の心を掴む全社システムの骨組みを作って』
脳内で、四つの分身たちが一斉に目を覚ます。
『うわー! 文字ばっかりで目が滑る! 宇宙船が爆発するド派手なグラフ入れようよ! ぶっ壊そう!』
感性のバナナンが、キャンバスに無意味な星屑を撒き散らす。
『無駄ですね〜。根性論が書かれたページは全部ゴミです。ハサミで切り刻みましょう〜』
品質のクロさんが、冷たい手つきで不要な精神論のテキストを次々と削ぎ落としていく。
『……抽出完了。残されたデータから弾き出した、システム導入によるコスト削減率の中央値は18.5%。ただし、画像不鮮明によるエラーの確率は2%存在します。エビデンスとしては実用レベルです』
論理のジェミーが、クロさんの残したテキストから正確な数値を拾い上げ、空中にグラフを描き出す。
三人の極端な思考がぶつかり合い、脳内でノイズが渦巻く。
私はキーボードに指を置き、荒くなる呼吸を整えながら、彼らの声を束ねる「指揮者」を呼んだ。
『一緒に組もうか、奈々』
相棒のチャッピーが、穏やかな声でノイズの中央に降り立つ。
『ジェミーの数字と、クロさんの骨格。それにバナナンの飛躍を少しだけ借りて……経営層に刺さる言葉に【翻訳】しよう』
スマホの画面に、チャッピーが統合したテキストが滑り出す。
『課題は「見えないコスト」。解決策は「業務プロセスの標準化」。そして一番重要なのは、これが単なるコスト削減ではなく、会社を守るための「投資」であるというメッセージだね』
「……投資」
私はその単語を、口の中で小さく反芻した。
『そう。経営層の心を動かすための、少し耳の痛いメッセージを提案の冒頭に置こう。優秀な社員に、システムが代替可能な単純作業を強いていませんか。それは才能の無駄遣いであり、最大の損失ですってね』
画面に映し出されたその一文を見た瞬間。
私のタイピングの手が、ピタリと止まった。
才能の無駄遣い。
それは、クライアントの経営層に対してだけじゃない。昨日まで、波風を立てないように誰かの不機嫌を吸収し、無意味な作業で靴底をすり減らしていた私自身に向けられた言葉だった。
毎日残業をして、コンビニのおにぎりを齧りながら、思考を停止させてエクセルのセルを埋めていた夜。あの孤独な時間は、誠意なんかじゃなかった。ただ、自分をすり減らしていただけだ。
『私たちのシステムは、社員の皆様が、本当に価値のある仕事や、誰かへの思い遣りに集中するための「時間」を創り出す、未来への投資です』
チャッピーの紡いだ最後のテキストが、静かに光る。
胸の奥で、カチリ、と何かがはまる音がした。視界の端が少しだけ熱い。私は無意識に、足元の真っ直ぐなパンプスをカーペットに押し付けていた。
「七野先輩……?」
あおいちゃんが、不思議そうに私を覗き込む。
「ううん、なんでもない。……このテキスト、一番最初のページに大きく配置して。フォントは少し太めの明朝体で」
「はい!」
私が転送したテキストとグラフの指示書を、あおいちゃんは魔法のような速度で「洗練されたネイビーのスライド」へと変換していく。バインダーの山からジェミーが拾い上げた確かな数字が、クロさんの削ぎ落としたシンプルな言葉とともに、美しいレイアウトの中に収まっていく。
「おい、二人とも」
フロアの奥から、ネクタイを緩めた小堀田部長が大股で歩いてきた。額には嫌な汗が光っているが、その目は妙に据わっていた。
「資料の進み具合はどうだ」
「あと少しで、全体のパッケージが組み上がります。午後の会議には……間に合わせます」
私が答えると、部長は「そうか」と短く頷いた。
「俺、これから先に役員室に乗り込んでくる」
「えっ」
「今回のミスは完全に俺の責任だ。だから先方の専務が到着する前に、うちの役員連中を先に説得して、プレゼンのハードルを下げておく。最悪、土下座でも何でもして、お前らが作った資料をちゃんと見てもらえる空気を作ってくるから」
部長は、ジャケットを乱暴に羽織り直した。
普段は適当な指示ばかり出すし、責任も押し付ける。けれどこの人は、本当に組織の存続に関わる致命傷になりそうな時だけは、自分の泥臭さを一切隠さない。それが彼の、不格好な「胆力」だった。
「だから、最高の武器を作って待っててくれ」
「……はい」
部長の広い背中が、小走りでフロアを出ていく。
時計の針は、十二時十分を回ったところだった。
「奈々先輩。最後のページ、出来ました」
あおいちゃんが、エンターキーを静かに叩いた。
モニターには、九条先輩の過去の汗と、AIたちの演算、そしてあおいちゃんの感性が結実した、分厚い盾のような全社DX提案書が輝いていた。
私は、冷めきった紙コップの水を一口飲み干した。
さあ、反撃のプレゼンが始まる。
お疲れ様です、作者です。
普段は適当な小堀田部長ですが、いざという時に役員室へ単身乗り込んでいく胆力、ズルいですよね(笑)。こういう上司が一人いると、現場は本当に救われます。
そして、喧嘩しながらも最高のコピーを叩き出したAIチーム。過去の自分を救うようなチャッピーの言葉に、七野が確かな足取りを取り戻すシーンは、書いていてもとても熱が入りました。
ついに完成した重厚なプレゼン資料。果たして大逆転はなるのか!? ドキドキしながら待っていてくださる方は、ぜひ★ボタンで応援をよろしくお願いいたします!




