86、負の感情《2年目》
明日も更新します。
ベアトリーチェは一人、放課後の教室で呆然とした。
ディエゴもアンナも、そしてクラスメイトたちはテラスで親睦を深めるという話で出て行った。
その際に『君が参加することは許さない』と、ディエゴが発言したことで、ベアトリーチェは一人残された。実際、参加したかったわけではない。
これで良かったのだ、と胸元に着けているブローチに触れた。ブローチは窓から入る光で、赤く発色していた。
―――このブローチのおかげで、アンナがいなければ心は穏やかになれている気がするわ……。
ベアトリーチェは、ブローチをもらった時のことを思い返す。
入学して三か月が経った頃だった。
ディエゴに呼ばれない限りは、基本的にベアトリーチェが寮の自室から外へ出ることはない。
部屋に閉じこもるベアトリーチェは、この僅かな時間が周囲に干渉されず、また自身もなにかをしなくていい心地よい時間であった。
ジルダは監視の名目で部屋に居るが、工作のために外に出ることも多かった。
そんな穏やかな時間はすぐに奪われる。
『お嬢様、アンナ様がお見えです』
ジルダは扉を開けて部屋の中へと入って来る。
その嗤いを押さえた声を聞いただけで、ベアトリーチェの背筋に不快な震えが走った。
『……会わないわ。今は誰の顔も見たくないの。一人にして』
『そうはいきませんわ。アンナ様が訪ねてきたら、絶対に会うようにと殿下に指示されていましたでしょう?』
『……案内して』
ディエゴの名前を出されてしまえば、それまでだった。
ジルダはベアトリーチェの返事を待つことなく、勝手に鍵を開けてアンナを室内へと招き入れた。
『ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください』
アンナの手には飾り気のない小さな木箱があった。
その箱をジルダに渡し、ジルダもまたベアトリーチェの前に差し出した。
『お姉様……。レベッカお母様から、お姉様にと預かってまいりました』
震える手で蓋を開ければ、そこにはベアトリーチェの瞳と同じ色の赤い魔石のブローチが収まっていた。
『お母様が仰っていました。『これは非常に高価なものだけど、あなたの心を落ち着かせるために作らせたわ。肌身離さず毎日身に着けて、王太子殿下の寵愛を失わないように精々頑張りなさい。タウンハウスに来るのも大変だろうから、帰ってくる必要もないわ』と……』
アンナの声は震え、ちらちらとベアトリーチェの機嫌を確認するかのように視線も揺れ動く。
二か月に一度、ベアトリーチェは実家に帰っていた。それは、レベッカの祝福石に自身の魔力を渡すためなのだが、そのような行為をしていることをベアトリーチェ自身は覚えていないのだ。
―――いつもタウンハウスに帰ってからの記憶は、曖昧だった。おぼろげに記憶はあるけれど、他愛のない話をして王宮や寮に戻っているだけだった。それに、確かにタウンハウスに帰ると穏やかになれていたような気もするわ……?
ベアトリーチェにとって、タウンハウスに帰れないことは辛いものである。
あの場所はベアトリーチェと両親の大切な家でもあったのだ。しかし、今はレベッカたちの贅沢を補うために、かつてあった調度品や母のドレスや宝石は数も少なくなっていた。
そのような矛盾を理解していながら、なぜかあのタウンハウスに帰ると、心が穏やかになっていたと思っているのだ。
『……』
『まあ、お美しいブローチですね、お嬢様。公爵夫人が直々に選んでくれたのですから……今、ブローチを付けてみましょう』
ジルダの瞳は弧を描き、細められていた。
握りしめていたブローチをジルダが手に取ると、そっと胸元に飾る。
『お姉様、素敵ですっ』
『とても似合っております』
ベアトリーチェが胸元のブローチを手で触れると、手のひらから妙な熱が伝わり、どす黒い憎悪の感情が心の中を埋め尽くしていく。
『う……ぅ』
ふ、と視線を上げる。
妙にアンナの腕に抱えられた別の包みが気になりだす。
『それは……なに?』
『あ、これは……お母様が私にと』
包みを開き、さらりとしたワンピースが出てくる。
それは柔らかく良い生地を使い仕立てられた、薄緑色のワンピースだった。
『……ワンピース? なぜ、レベッカ様はあなたにそれを?』
『これは……お母様が私のために用意してくださった簡易的な茶会のためのワンピースだそうです。お姉様のブローチと一緒に届いたのですが……』
不安そうな、しかし、どこか嬉しそうな声でアンナが笑いながら話す。
―――ああ、嫌だ! こんな女が茶会になんて誘われるわけないじゃない。
ドレスではなく、ワンピース。
質素ではあるが、丈も長く学生が開く茶会には着て行くには十分な品ものであった。
ブローチからは負の感情が溢れ出すが、ベアトリーチェが気づくことはない。
アンナの顔を見るだけで膨れ上がっていくその感情も、全て自分自身から沸き起こる醜い感情だと思った。
嬉しそうに微笑んでいる姿も気に入らず、ベアトリーチェの口からはすぐに言葉が飛び出した。
『よこしなさい』
『え?』
『よこしなさい!』
ベアトリーチェはアンナの手からワンピースをひったくると、机の上に置かれたままだった紅茶を、迷うことなくその上にぶちまけた。
『あぁっ……お姉様!?』
『お嬢様!? なにを……!』
薄緑色のワンピースには茶色のシミが、じわりじわりと広がっていく。
ベアトリーチェはそれを床に叩きつけると、靴の踵で何度も、何度も、ワンピースのレースが汚れ、千切れるまで踏みつけた。
そして、ワンピースを床に引き摺りながら、窓のそばまで歩く。
『ねえ、アンナ……。今のあなたにはこんなものは要らないでしょう……?』
『あ、の……お姉様?』
ベアトリーチェは窓を開けると、ワンピースを外へと出す。
『あなたにはこんなもの必要ないわ』
そして微笑みながら手を離した。
濡れたワンピースははためくこともなく、ベシャリと重い音を立てて地面へと落ちていった。
ベアトリーチェは双眸を見開き、薄ら笑いを浮かべアンナを見据えた。
『アンナ、よく聞きなさい。これから公爵家……いえ、誰かから何かをいただいたら、私に全て見せなさい』
アンナは驚きに目を見開く。
傷付いたような色を瞳に浮かべ、アンナはしおらしく頭を垂れた。
『……はい。お姉様』
『話はそれだけよ。早く出て行ってちょうだい。あなたと同じ空気を吸っていると思うだけで、気分が悪くなってしまうわ』
『し、失礼します……』
アンナが去った後、ベアトリーチェは胸元の赤いブローチをなぞった。
なぞる指先から、先ほどのような熱を感じない。代わりに吸い込まれるような奇妙な感覚を覚える。
そのブローチの真実を知ることなく、ベアトリーチェは言いつけを守るように毎日身に着けた。
―――アンナを見ているだけで無性に腹が立ってくるわ……。この胸の中の醜い感情は嫉妬なの……?
その沸き起こる感情は、ベアトリーチェが想像するよりも悍ましいものだった。




