82、ディエゴの選択【前】《2年目》
土日も更新しますので、良ければお付き合いください。
医務室には独特な消毒液の匂いと、沈黙が支配していた。
ベッドに腰かけたアンナの足首には、手際よく包帯が巻かれていく。
ピンク色の髪がカーテンの隙間から差し込む光に輝き、アンナの純粋で清らかな可憐さを演出していた。
「殿下、ありがとうございます」
「気にしないでくれ。私のせいでもあるのだから……。それより、痛みはあるかい?」
「いえ、大丈夫です」
「今日はなぜか先生もいない。もしかしたら、ベアトリーチェはそれも知っていたのかもしれない」
「そんな……」
ディエゴが痛ましげに声をかけ、アンナの細い手をそっと握りしめる。
その手つきは、婚約者であるベアトリーチェには一度も見せたことのないほど、慈しみに溢れたものだった。
「怖い思いをさせてしまったな。だが、もう心配しなくていい」
「はい、殿下……。私は大丈夫です。ただの捻挫だと思いますので」
アンナは力なく微笑んだ。
しかし、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。その健気な姿は、傍らにいたフローラの怒りをさらに煽る結果となった。
「大丈夫なはずがありませんわ! あんな高いところから突き落とされたのですっ。もし打ち所が悪ければ、命に関わっていたかもしれなかったのですよ!」
「えっと、フローラ様、私のせいでご不快な思いをさせて……」
「あなたのせいではないわ!」
フローラは握りしめた拳を震わせ、ディエゴに詰め寄る。
「殿下、ベアトリーチェ様のあの態度は、もはや殿下の婚約者や公爵令嬢のものとは思えませんわ! そして……人として許されるものではありません。謝罪もなく、あまつさえアンナ様は聖女……それを侮辱するなんて……。厳罰に処すべきですわ!」
「分かっている、フローラ嬢。一学年の時から周囲に迷惑ばかりかけていることも。だが、もう少し……いや、卒業まで待ってくれないだろうか」
ディエゴの声は酷く冷たい声色だった。
アンナもフローラもその声色に、背筋が凍るような感覚を覚えた。
フローラが口を開きかけた瞬間、廊下を慌てたように激しく走る足音が響き、医務室の扉が勢いよく開いた。
「アンナ嬢! 無事か!?」
息を切らし、肩を上下させて現れたのはカッシオだった。
端正な顔を歪ませ血相を変えて医務室に飛び込んでくると、見開いた双眸でベッドに座っているアンナを見据えた。
ここまでどれほどの思いで走って来たのかが分かるほど、額には汗が滲んでいた。
「カッシオ様……! あの、はい、おかげさまで、大きな怪我はありませんでした」
「そうか……。ああ、良かった……。君に何かあれば、俺は自分を許せなかった」
「そんなことはありません! あの時『早く戻ってきてください』と、言った私の願いを聞いてくださっただけで、嬉しいです……」
「アンナ嬢……!」
カッシオはベッドの脇に膝をつき、安堵の溜息を吐いた。
騎士というよりは、恋した女を守りたいという強い意志を感じる姿に、フローラはこんな時でなければ微笑ましいのに、と思う。
やわらかくなった雰囲気に、ディエゴが短く問いかける。
「カッシオ、あちらはどうなった」
その言葉にカッシオの脳裏には、数分前の光景が蘇る。
自分の足蹴によって、数段下へ転げ落ちたベアトリーチェの姿。
乱れた髪、涙に濡れた顔、そして絶望に歪んだ表情。
カッシオはその全てを鮮明に思い出し、心の奥底で昂る熱を感じながらも、表情一つ変えずに答えた。
「……殿下のご命令通り、適切に対処いたしました。婚約者殿はあの場でも反省なく、私が殿下の代わりと言ってはいけませんが、反省を促しました……。実の妹を、そして国の聖女を虐げることは許されないと。聞いているのか分からないほど呆然とされており、その場に蹲ったまま動かなかったので、私はそのままこちらへ参りました」
自分がベアトリーチェを突き落とした事実を口にすることはしない。
―――ここまでも同じ……。カッシオ、お前がベアトリーチェを足蹴にして突き落としたことを知っているぞ。だが、そのことを突っ込むのは今後のことを考えると、面倒だからな。お前はあいつのことが嫌いだから、その痴態を見てもなんとも思わなかったんだろう? ああ、クソッ。本当は俺が見たかったのに……。
報告を受けながら、ディエゴは口元を覆う。
自身の婚約者が周囲の目を気にすることなく傍若無人な振る舞いで、アンナを無慈悲にも階段の下へと突き落としたのだ。
ショックを受けてしまうに決まっている。
この場にいたディエゴ以外の三人はそう思った。
「反省することもしない……。君たち三人には特に申し訳ない思いだ」
「殿下! おやめください!」
「婚約者の責任を殿下が感じる必要はありません!」
「そうですわ、悲観なさらないでくださいまし……。私もアンナ様もカッシオ様も、殿下の味方ですわ」
隠された口元がヒクヒクとヒクつく。
―――笑いをこらえるので必死だ。責任など感じるはずがない。私の命令でベアトリーチェは動いているのだからな。だが、アンナも元々はベアトリーチェの侍女をしていたくせに……薄情な女だな。やはり、乙女ゲームのヒロインなどはこんなものか。
「アンナ嬢、フローラ嬢……先ほどの話の続きをしたい。カッシオも聞いてくれ」
「はい」
アンナとフローラはハッと目を見開き、カッシオは二人の様子を目にし、唾を飲み込んだ。
ディエゴは三人にだけ真実を話すという覚悟を決めた表情で、少しだけ遠くを見つめた。
もうすぐ完結になりますので、このままいい感じで更新出来たらな、と思います!




