80、愚かな悪役令嬢【前】《2年目》
ep79を詳細に書いたものになります。
明日も更新します。
その瞬間、ゆっくりとした映像がベアトリーチェの視界に映った。
ベアトリーチェの目の前で、アンナの体が宙を舞った。
短い悲鳴が聞こえ、桃色の髪がふわりと広がる。その髪と髪の間から、緑色の驚愕した瞳がベアトリーチェを見ていた。
視線が交差する。
くすり、と笑う息音が聞こえた。
後ろで頭を下げていたはずのジルダが、いつのまにかベアトリーチェが手を伸ばしているかのように体を押さえていた。
「ジルダ!? なに、を……!?」
「ああ! ベアトリーチェお嬢様!? 何をなさっているのですか……っ」
ジルダの声に、カッシオやフローラなど先に階段を下りていた面々が一斉に振り返る。
皆の瞳に映ったのは、ベアトリーチェの伸ばされた指先と、アンナがいる光景だった。
添えられていた手を掴むふりをして、ディエゴは腕を振り払った。
「なっ、アンナ嬢っ!」
「……きゃあぁああっ」
浮かぶ体にふわりと揺れたピンク色の髪が、アンナが短い悲鳴とともにカッシオたちの横をすり抜けていく。
「アンナ嬢……!? アンナ嬢!」
伸ばしたカッシオの手は届かず、アンナは階段を転げ落ちていった。
ガタガタガタ、という衝撃音が響き渡る。
踊り場でようやく止まったアンナは、血などは流れておらず力なく横たわっていた。
「なにをしているんだ! ベアトリーチェ!」
「アンナ嬢!」
宙を切った腕を下ろしながら慌てて駆け下りて行くディエゴと、カッシオの悲痛な叫び声で周囲は一気に騒然となる。
ディエゴもカッシオも階段を飛び降りるようにして、アンナのもとに駆け寄った。
ベアトリーチェは、自分の右手を凝視した。
「……ぁ……ち、が……っ」
動かしたつもりはなかった。
アンナを突き落とそうなどとは、思っていなかった。ディエゴに命じられたように罵るだけのつもりだった。
「あーあ……公爵令嬢様が人を殺めるところでしたねぇ……」
ジルダは鼻を鳴らしてせせら笑った。
―――違う、私じゃない……! 私の指先に触れた感触はなかったわ!
確かにアンナを見るだけで、ベアトリーチェの胸の中に昏い感情が湧き上がってくる。
だが、それだけなのだ。
今までベアトリーチェがやってきたことは、単純に罵るだけのものであった。
「アンナ嬢……血は出ていないな……。カッシオ! 医務室……いや、私が連れて行く!」
―――暴力なんて振るったことはない……! 今までは誰も見ていないところでの出来事を、ジルダが私がやったことだと言って噂を広めていただけ……。でも、これは皆の前で……!
青褪め震えるベアトリーチェに、ディエゴが畳みかける。
「ベアトリーチェ! 私の目の前で、よくもこんな酷いことをアンナ嬢に……! お前は妹にこのように惨いことをできるというのか!?」
「ち、違います……! わ、私ではっ」
「で、殿下……だ、いじょうぶ……です……」
「アンナ嬢……頭を打っているんだ、喋ってはいけない」
「い、え……私が足……すべら、せただけ……で、す……。お姉……さま……っ」
呻き声を上げながらも、必死に何かを話そうとするアンナに周囲の生徒が集まり出していく。
自分ではないと告げなければいけない。
しかし、それをすることでディエゴとの約束を反故にしてしまうことになる。
踊り場で苦しげに喘ぎながら、アンナが顔を上げた。
アンナを抱き起こすようにして、ゆっくりとディエゴが横抱きにして抱え上げた。
「お姉さま……は、悪く……ありません……。わた、しが……足を……滑らせた、だけ……です……。どうか、お姉さまを……責めないで……」
「アンナ嬢! こんな時まであの女を庇おうとするな……!」
「いい、え……本当のことです……。それに、私は足を……挫いただけ、です」
足を挫いただけでも、実際には階段を落ちているのだ。
激しい痛みに襲われているはずなのに、アンナがベアトリーチェに向けた瞳には、責める色は少しもなかった。
その言葉と瞳が、ベアトリーチェの心を抉った。
―――なんで、庇うの。あなたは私を……公爵家を潰そうとしているくせに……っ。こうやって周囲に私との違いを見せつけているのね……! やっぱり、酷い女だわ……っ。
狼狽するベアトリーチェを見て、アンナの唇の端が緩やかに上がる。
「アンナ様! この期に及んでまだそんなことを……! 足を挫いただけでも、あなたは階段から落とされたのよっ」
抱きかかえられたアンナを、フローラは心配するように涙目で覗き込んだ。
ベアトリーチェは弾かれたように顔を上げて、フローラを見やる。ベアトリーチェを射抜くきつい眼差しには激しい憎悪が宿っていた。
「ベアトリーチェ様! あなたには……あなたには人の心というものがないのですか!? アンナ様はあなたを姉と慕い、ご自分の力を誇示することもなく、常にあなたの立場を案じていらっしゃいました! それなのに……! 階段から突き落とすなんて、こんな卑劣な真似をするなんて……っ」
「フローラ嬢、落ち着いて……」
ディエゴが冷静な声で割って入る。
先ほどまでの激高が嘘のように、落ち着いていた。
「……落ち着いていられませんわ、殿下! 見てください、この無表情を! いえ、無表情だけならまだいい方だわっ。当たっただけにしても、謝罪の一言もしないなんて……!」
フローラの罵声が、ベアトリーチェの胸に深く突き刺さる。
「違う、私は……」
ベアトリーチェが口を開き、何かを言いかけたがその言葉は声にはならなかった。
ジルダに腕を引かれ、耳元で囁かれる。
その声を聞くと、開いた口がわずかに動いたが、すぐに顔を伏せた。
―――頭が……痛い……。なに、この痛みは……、うぅっ。ああ、叔母様……レベッカ様の声が聞こえる……。命令通りに、しなくちゃ……聖女だからって……。
『さあ、ベアトリーチェ。アンナを虐めることに徹しなさい。徹底的に見下して、可哀想なヒロインに仕立て上げるの。それがあなたの役目でしょう? あんたは悪役令嬢なんだから』
頭の中でレベッカの鈴を転がすような声が響いた。
あの日、押さえつけられた胸が痛い。
肌が焼けるような熱を感じ、ベアトリーチェの視界は真っ白に染まった。
―――い、や……、駄目、言っては駄目……。自分の意思が、自分の中から押し出されていく……!
「……ふふ」
ベアトリーチェの口から漏れたのは、嘲笑だった。
階段の上から見下ろすようにして立つと、微笑みながら口を開いた。
「わざとらしく転んで見せて、同情を誘うなんて……。私があなたに触れた証拠はあって? 誰も見ていないでしょう?」
頬を赤く染め、楽しそうに唇の両端が持ち上がっていた。




