78、アンナは目を覚ます《1年目》
アンナが眠りから目覚めたのは、数日後であった。
ぴく、とわずかに痙攣して持ち上げられた瞼は、数度ゆっくりと瞬きを繰り返した。
「……ぁ」
「アンナ嬢……! 意識が戻ったのか! 良かった……」
「わ、たし……なにが……」
「アンナ嬢、まずは水を飲んでくれ」
アンナの体を起こしながら、ディエゴは水を注いでいたコップをアンナに持たせる。
数日間、目を覚まさなかったアンナの体は、水分を欲していた。
乾ききった喉が少しずつ潤っていく。
急に大量の水を飲ませるのは危険だと判断し、ゆっくりと口に含ませる。
「落ち着いたかい?」
「ぁ、は……い」
「そうか、良かった。カッシオ、いるか?」
部屋の中から掛けられた声に、ずっと外で待機していたカッシオは扉を開く。
「はい、ここに」
わずかにだが、覗き込むように部屋の中をうかがっていたが、アンナが体を起こしているのが目に入ったことで、カッシオは扉を勢いよく開けた。
「っ!」
「アンナ嬢の意識が戻った。学園長や教師陣に伝えてくれ」
「は……はい! 承知いたしました!」
カッシオが急ぎ足で駆けていく。
―――カッシオのあの感じだと、すぐに生徒たちにも伝わるな。それに、ご丁寧に扉を閉め忘れている……。
その音を聞きながら、ディエゴはアンナに話しかけた。
「アンナ嬢……苦しかったりはしないか?」
「い、え……あの、平気です……」
「そうか。目覚めたばかりで申し訳ないが、どういう状況だったのか、説明してもいいだろうか?」
「……はい」
目覚めたばかりの少し虚ろな瞳に光が戻る。
アンナの目がゆっくりとディエゴを見据えた。
「差し入れでもらったクッキーがあっただろう? あれに呪いの種が混ぜ込まれていたみたいなんだ……。アンナ嬢、君だけがあの差し入れを食べているんだ」
「そんな……だってあれは……」
「ああ、君の義姉……そして私の婚約者のベアトリーチェからの差し入れだったな」
「…………」
緑色の瞳を揺らし、アンナは頷いた。
その丸く大きな双眸から、美しい涙がこぼれ堕ちる。
―――実際は姉妹じゃないことぐらい、分かっている。血縁関係すらないこともね……。だが、王太子である僕が義姉妹と言い続ければ、それは嘘でも真実になるんだよ。
ディエゴは考えていることを顔に出さずに、ただアンナを心配する姿を見せた。
「……殿下、このことは……誰にも、いわないで……」
「だが、聖女を狙うのは……」
「違います、お姉様はそのようなことは……いたしませんわ」
「アンナ嬢……分かった、君がそこまで言うのなら……」
かたり、とアンナはコップをナイトテーブルに戻した。
それ以上は語らず、ディエゴの目の前で再度ベッドの中に潜り込むと、声を押さえ涙を流した。
―――アンナ、君は姉を慕っているようだったから、さぞ悲しいだろう……。だが、こうでなくてはいけないんだ。ベアトリーチェは君を殺そうとするほど憎んでいると、周囲に思わせなければいけないんだよ。
やがて、カッシオが学園長や教師陣を連れて戻って来ると、周囲は静まり返る。
ディエゴは外の気配を感じ取ると、わざと声を張って話した。
「君はベアトリーチェのことを、許すというのかい?」
「許すもなにも……私はお姉様のことを恨んでなどおりません。お姉様は素晴らしい方なのです……今はただ、お心を乱されているだけかと思うのです……!」
その凛とした声に、ディエゴは感動すら覚えた。
乙女ゲームのヒロインそのままの姿だったからだ。
―――ああ、これは間違いない……。これこそが、愛は執着のヒロインだよ! この信じる心……ベアトリーチェを必要以上に想う心……! 素晴らしい、実に素晴らしいじゃないかっ。
ちらりと開けられている扉を横目で窺う。
カッシオがいない代わりに、声を聞きつけ様子を窺いに来ていた令嬢たちが集まっていた。
清らかな心も持つ、心優しき令嬢。
どれだけ傷つけられても、姉をかばう健気な少女。
男爵令嬢から公爵令嬢となっても、他者を見下さず礼節のある聖女。
「まぁ、なんて心美しい方なの、アンナ様は……」
「ええ、本当に……。あんなに恥ずかしい姉なのに、かばうなんて……」
「それだけではないわ。聖女としての力も確かにあるのよ」
「……アンナ様こそ、殿下のお相手に相応しいのではないかしら」
王太子であるディエゴに相応しい婚約者について、口々に言われ始める。
それはベアトリーチェなどではなく、アンナではないか、と。ざわつく生徒たちを制するように、学園長が声を上げた。
「あの、王太子殿下……アンナ嬢の呪いは解呪できたのですか?」
「学園長……。ああ、無事に解呪できた。今回使われていたのは呪いの種と言われる、一種の呪術だ。誰がアンナ嬢にこのようなことをしたかは分からないが……」
「そ、そんなの決まっておりますわ! ベアトリーチェ様に決まっております!」
「フローラ様!?」
「私とお部屋に戻った際に、ベアトリーチェ様がいつも使っていらっしゃるハンカチがかけられたお菓子が置いてあったじゃありませんか!」
フローラは、学園長や教師たちを押しのけるようにして部屋へと入ってきた。
友人を心配している表情は本物であり、怒りで顔を赤くしている。アンナはそんなフローラを止めるように起き上がると、青白い顔を皆に見せて涙ながらに語った。
「皆さん……本当に私は大丈夫です。殿下のおかげで……犯人を捜そうなどとは思っていないので、今回のことは忘れてください」
「何を言っているのですか! これを許していいわけがありませんわ!」
「フローラ嬢、落ち着いてくれ。アンナ嬢も混乱しているのだと思う」
「殿下……」
「皆、ここはアンナ嬢の意思を尊重するのはどうだろうか」
「……殿下。お言葉ですが、今回に限って言えば、王太子殿下の婚約者であっても、公爵令嬢であっても罰せられるべきことでございます」
厳格な態度で学園長は言い切った。
―――こうなるだろうと思っていたよ、だからこそ友人思いのフローラ嬢と一緒に目撃するように、ジルダにクッキーを置かせていたんだよ。
ディエゴは胸の前に手を置き、アンナと学園長、そして教師たちとフローラを含めた生徒たちを見つめながら眉根を寄せて、悲痛な面持ちで呟いた。
「アンナ嬢、そして皆にも迷惑をかけていることは分かっている。しかし、ベアトリーチェ公爵令嬢は私の婚約者だ。彼女を止められなかった責任は、私にもあると考えている」
「殿下にそんな責任など……!」
「学園長、聞いてください。それに皆も……。私から、再度ベアトリーチェには注意しよう。ただ、先ほど……アンナ嬢と話していたのだが、アンナ嬢は姉であるベアトリーチェの断罪を願っていない。そうだろう?」
「……はい。殿下の仰る通りです」
「今回は王太子である私と……聖女アンナの気持ちを汲み取ってくれ」
ディエゴはゆっくりと頭を下げた。
その行動に周囲は驚き声を上げる。
「殿下! おやめください!」
「そうですわ、王太子殿下であるあなた様が頭を下げるなど……!」
「わ、私たちは皆、殿下とアンナ様のお心のままに……」
少し頭を下げた状態から、ディエゴは頭を戻し弱々しく微笑んだ。
「ああ、皆……ありがとう。感謝するよ」
「私もです。皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、どうかこのまま見守ってください」
胸の前で指を合わせ、アンナは祈るような素振りを見せる。
その清らかさに、ほぅとため息が聞こえるが、それすらもディエゴにとっては計算通りであった。
―――本当に馬鹿な奴らだ。ヒロインが何を話したところで、全てが純真無垢に聞こえるんだよ。これで今までアンナが平民から公爵令嬢になった運のいい娘と思っていた者たちも、同情的になったであろう。
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