69、学園《1年目》
翌朝、重い足取りで寮の門を出たベアトリーチェを待っていたのは、一番見たくない男であった。
婚約者であるディエゴが、女子寮の門扉のそばで佇んでいた。
清々しい朝の光を受けて門の前で待っている姿は、どこから見ても品があり美しいその横顔は王子らしい姿と雰囲気をしていた。
そして、その後ろには不機嫌そうに顔を歪めている、ディエゴの護衛騎士であるカッシオが控えていた。
「おはよう、ベアトリーチェ。昨日はよく眠れたかな?」
ディエゴが柔和な笑みを浮かべて近づいてくる。
だが、その瞳には愛おしさなどでは片づけられない、熱く絡みつくような感情が浮かんでいた。
ディエゴはベアトリーチェの肩に手を置くと、耳元で囁くような声で告げた。
「……昨日は生徒たちの前での我儘な態度が少し足りなかったな。今日はもっと、周囲を不快にさせるほどの傲慢な公爵令嬢の姿を見せてくれるよな?」
ゾッと背筋に冷たいものが走る。
ディエゴの指先がベアトリーチェの首筋をなぞった。逆らえば実家の公爵家がどうなるか、その無言の圧力にベアトリーチェは叫びそうになる声を必死で押し殺した。
「……ええ、分かっておりますわ、ディエゴ殿下」
「そうか、それなら今からが楽しみだ。ああ、それと……ジルダ、その髪留めとても似合っているよ」
その言葉にベアトリーチェの背後に立ち、鞄を持っていたジルダは睨みつけていた双眸を見開くと頬を染めた。
「は、はい。ありがとうございます」
いつもは目が隠れるほどに長い前髪を、今日は昨日の怪我と痣を見せつけるように前髪を横に流して髪留めでとめていた。ベアトリーチェは寮を出るまでに、何度もその髪留めに触れる仕草をしていたジルダの姿を思い出す。
「ああ、なんて痛々しい……。ベアトリーチェ、侍女に手を上げるようなことをしてはいけないよ。君は王太子である私の婚約者なのだから」
「で、ですが……ディエゴ様……。この礼儀も知らぬメイドが、私を馬鹿にしましたの……」
ベアトリーチェは嫌悪感を塗り潰すように、わざとらしく艶やかな笑みを浮かべた。
女子寮を出てすぐの場でのやり取りのため、周囲には徐々に生徒が集まりだす。
周囲で見守る令嬢たちが集まってきたことを確認すると、ベアトリーチェはしなだれかかるようにディエゴの腕に自分の腕を絡めた。
公爵令嬢としては、あまりにも品の欠ける振る舞い。
「あら、やだ……ディエゴ様、私は怖いの。カッシオ様が……あんなに怖い顔をして……私とディエゴ様を睨みつけておりますわ」
背後に控えるカッシオへ、ベアトリーチェは視線を向ける。
その言葉にカッシオは侮蔑を隠そうともせず、忌々し気に視線を逸らした。
「……王太子殿下を守るのが私の務めです。殿下の婚約者の振る舞いなどに構っている暇はございません」
「ふふ、相変わらず可愛げのない騎士様ね」
ベアトリーチェはディエゴの腕にさらに強くしがみつき、胸を押し当てるようにして校舎への道を歩き出した。
―――もう、もう……十分でしょう。これ以上は気持ち悪くてやっていられないわ……。
寮から校舎へ近づくにつれ、登校中の生徒たちも多くなり、視線がさらに突き刺さるようになる。
「まあ、見て……。朝からあんなにベタベタして……」
「殿下を困らせているのが分からないのかしら。本当に身の程知らずな下品な女ね」
「昨日の今日で、よくあんな顔ができるわね……」
「あの制服も……。あのように足を出してはずかしい」
校舎までの道に広がる陰口。
ベアトリーチェはその陰口すら、自分への醜い嫉妬と、称賛として受け取り、誇らしげに周囲に微笑みかけながら受け流していく。
「ベアトリーチェ、もう少し節度を持ってくれないと……」
「あら、ディエゴ様……。だって、私は少しでもお側を離れたくないんですの」
教室まであと少しだった。
入り口が見え、やっと解放されると思った。
「ベアトリーチェお姉様! おはようございます!」
輝くような笑顔で駆け寄ってきたのは、ピンク色の煌めく髪を揺らしてやってくるアンナだった。
「…………はあ? あなたを身内と認めたことはないわ。気やすく話しかけないでくださる?」
「ベアトリーチェ、そのようなことは……」
「いいえ、ディエゴ様。この娘は平民と同じようなものですわ」
「君というやつは……」
アンナはベアトリーチェがディエゴの腕に自身の腕を絡めているのを見て瞳を揺らした。
しかし、すぐに明るく元気な笑みを浮かべた。
「い、いいんです、殿下! 私が昨日は私が勝手に転んでしまったせいで、ご迷惑をおかけしましたっ。でも、今日からこうして一緒に学べるなんて、私……本当に嬉しいです!」
アンナの言葉を聞いた瞬間、ベアトリーチェの頭にはもやがかかったようになる。
―――あ、頭が……っ。何か言わなきゃ、何か……。殿下の命令…………あぁ、叔母様の……? どちらの命令に従えばいいのだったかしら……?
その場にいるほとんどの者が、ベアトリーチェのことなど気にも留めず、アンナの言葉に同情したように声をかける。
「さあ、どうやらこの辺にしないといけないようだね、ベアトリーチェ。ちゃんとアンナ嬢に謝罪をするんだ」
ディエゴの腕が、ベアトリーチェの柔らかな胸を打つように小突く。
そのわずかな力はベアトリーチェに次を促すものであった。
「ふん、ディエゴ様……これがこの女の小賢しいところですわ! 自分が悪いのに善人ぶって、人に罪を擦り付けようとするんですの。いやな女」
「お姉様! そ、そんなことは……っ」
「ベアトリーチェ公爵令嬢、言いすぎだ」
急にアンナを庇うようにして前に立ったカッシオに驚くが、それでもベアトリーチェは扇を取り出すと口元を隠して笑う。
「あらあら……ディエゴ様、見てくださいな。一人の男がもう引っかかってしまいましたわ」
アンナの顔から、さぁと血の気が引いていく。
周囲の生徒たちが息を呑み、カッシオの手が怒りに震えて剣の柄にかかるのが分かった。
―――ああ、これでいいのよね、これでいい……? 誰が? 何がいいのだったかしら……。
「やめなさい、カッシオ。ベアトリーチェは……公爵家の令嬢だ。無礼なことは許されない。そして、アンナ嬢……婚約者の非礼を私が詫びよう。すまなかった」
「殿下! だが、この女がっ……ベアトリーチェ公爵令嬢はあまりにも酷すぎます! 殿下が頭を下げることなど!」
「あの、私も殿下に謝罪などしていただかなくても大丈夫ですっ。それに私のお姉様ですもの……」
周囲がカッシオとアンナを見つめる中、劇でも見ているようにベアトリーチェはぼんやりと眺めていた。




