66、学園入学【ベアトリーチェとジルダ・後】
寮の自室の扉を開けた瞬間、ベアトリーチェは思わず立ちすくんだ。
そこには先に立ち去ったはずのジルダが、ソファに深く腰掛けて待ち構えていた。
ジルダの額と頬には、自ら傷付けた箇所を覆うように包帯が巻かれている。前髪の隙間から覗くジルダの双眸は見開かれ、ベアトリーチェを見据え昏く光っていた。
それはジルダが心の底からベアトリーチェを嫌悪している表情であった。
「遅かったですね、ベアトリーチェ様。どうして中庭を傲慢な令嬢らしく突っ切ってこなかったんですか? わざわざ遠回りなんてして……逃げるのはよくないわ。殿下にご報告しておきましたよ」
ジルダの声は低く、敬っている声色ではない。
ベアトリーチェは部屋に入ると、ジルダの元へ駆け寄る。
「ジルダ! あなた、そんな間に合わせの手当では……」
「近寄らないでっ!」
ジルダが劈くような叫び声を上げて、ベアトリーチェを突き飛ばした。
どんと肩を押され、その場で尻もちをつく。ジルダはフーフーと呼吸を荒くしながら、ニタリと口元を歪めた。
「心配してるの? ははっ、笑わせないでよ。聖女様にでもなったつもり?」
「……そんなつもりはないわ」
「ああ、そうですか。でもね、あんたがいくら心配したって、寮でも学園でもあんたの噂で持ちきりよ」
「……何を、話したの」
「決まってるじゃない。王太子殿下を義妹のアンナに奪われそうになった腹いせに、公爵令嬢は従順なメイドを物陰に連れ込み、八つ当たりで暴行を加えたって震えながら言ったわよ。あぁ、なんて可哀想なメイドなんだって。ベアトリーチェ様はなんて恐ろしい女なんだろう、って噂でもちきりよ」
ジルダは自身の頬に触れ、まるで快感とでも言うかのように傷の感触を確かめる。
「あんたが恥ずかしがって中庭を迂回してくれたおかげで、時間はたくさんあったのよ。どーも、ありがとう。涙を流しながら、殿下への執着で見境をなくした、哀れで暴力的な傲慢な令嬢。そして……淫らに男を誘惑しようとする悪女様。それが今のあんたの正体よ」
「そのような噂を信じてしまうほど……私は嫌われているということね」
ベアトリーチェの瞳には、わずかに絶望の色が浮かぶ。
ディエゴと婚約した年からベアトリーチェは周囲には我儘で、王太子を困らせるな公爵令嬢と思われている。それは、ディエゴによる命令であった。
『僕がお父様と王妃に公爵家を取り潰せと言えばいつでも取り潰せるのだぞ?』
たったそれだけの言葉であったが、まだ幼かった少女には鎖のように絡みついた。
王妃が開く茶会、ディエゴと一緒に参加する茶会、全てでベアトリーチェは王太子を振り回し、年の近い令嬢たちを威嚇する婚約者となっていた。
「自業自得ってやつね。今までの行いで、あんたは周りからそう思われているのさ。今ここで、あたしに善人ぶっても、あんたの罪はなかったことにはならないよ」
ジルダは椅子から立ち上がると、ふらつく足取りでベアトリーチェに詰め寄った。座ったままのベアトリーチェを見下ろすように、ジルダの開いた瞳が至近距離で射抜く。
「……分かったわ。私が何をしても、あなたは私を悪女に仕立てるのね? 殿下にそう命じられているのね?」
「殿下の命令? いいえ、違う。あたしが楽しいからやってんの。昔からあんたが嫌いだった」
「…………」
「キレイな顔で、キレイごとしか言わない。いつも殿下から贈られるキレイなドレスを着て、美しく着飾ってる……。あたしはあんたを見た時に気付い……っ! とにかく、あんたは明日から学園中で悪女と言われるのよ!」
ベアトリーチェは目の前の発狂するように叫ぶジルダに圧倒され、立ち上がることもできなかった。
心配して差し出した手は叩き落されており、手のひらはジンと熱を持ち、痺れている。
「その手当て、自分でやったのね」
震える声で紡いだ言葉に、ジルダは鼻で笑って背を向けた。
「そうよ。お貴族様たちは、誰もあたしに触ろうなんてしなかったわ。話を聞くだけ……いいえ、聞き出したつもりで妄言を愉快そうに聞いていたわ。お貴族様っておしゃべりな女が多いでしょ? 人の不幸が大好きな動物以下の女たち。はは……明日が楽しみね、ベアトリーチェ様? きっと、あんたは明日から卒業するまで、嘲笑と蔑みの中で生きていくことになるわ」
ジルダは卑屈な笑みを浮かべ、ベアトリーチェの着替えを手伝うでもなく、部屋の隅にある使用人用の簡易ベッドへと潜り込んだ。
―――ジルダ、あなたが殿下を好いていることには気づいているわ。でも、だからと言って……自分の体を傷付けるようなことはしてほしくない……。
静まり返った部屋で、ベアトリーチェは俯いた。
ベアトリーチェも自分の感情を殺し、ディエゴの命令に従っている。その思いは両親や祖父との唯一の繋がりである公爵家を人質に取られているからだ。
ベアトリーチェを傷つけるためだけに、自分の体を傷つけることだけはしてほしくない。
それは率直な願いであった。
明日からは、今日以上に惨めになる日々が続くことは決められているのだ。




