121、汚れたタウンハウス【中】
「これは……」
エントランスに足を踏み入れた瞬間、ベアトリーチェは思わず息を呑んだ。
そこは自身の記憶にあるものとは違う、洗練された雰囲気や美しい調度品など何もない、異質な空間になっていた。
「お母様の好きだった季節の絵画も花瓶も……今は飾られていないのね」
「……はい。レベッカ様が売り払われたそうです」
元々、レベッカたちの手によって少しずつ持ち出されていたが、両親と祖父が亡くなって以降は隠すことなく商人を呼んで売り払っていたのだ。
たった二年で売り払える量ではなかったはずだ。
まだ、ベアトリーチェがタウンハウスに連れてこられた時には、多くの物が残っていた。しかし今は、季節に合うように飾られていた歴史ある絵画に調度品、花々に絨毯も、飾られることはない。
空いた場所に見るからに価値のない代物が置かれているだけ、といった具合であった。
「この屋敷は来る度に、良い品がなくなり、品のない物に変わっているよ」
ゼルヴァスは、いつのまにか言葉を崩していた。
しかし、その意見はもっともであり、その場にそぐわない調度品は、屋敷の景観を崩している。
絨毯は薄黒く汚れ、廊下には埃が溜まり、壁紙も一部が剥がれていても放置されている。
屋敷の管理も碌にされていないのが見てとれる。
「酷いものだよ」
ぽつりと漏らしたゼルヴァスの言葉は、数年前から知っているからこそ出た言葉でもあった。
これほど広い屋敷だというのに、出迎える使用人もおらず、人の気配すら感じない。
「お嬢様が王宮に移られた後、レベッカ様はタウンハウスの古参の使用人を……全員、解雇いたしました。今いる使用人は全て臨時で雇われた、身元の確認もとれない者たちばかりです」
「全員……!? 何故? 皆、忠誠心も篤く、良く働いてくれていたはずよ」
「はい。その忠誠心がお気に召さなかったようです。当時ここを預かっていた家政婦長は、長年カントリーハウスで先々代様に重用されていた方。他の者たちも、公爵家の管理に携わってきたベテランばかりでしたが……」
ニナはそこまで言うと、僅かに言葉を濁した。
当時のことを家令のセルジオから聞いただけではあるが、理不尽に対するやりきれない思いはあったのだ。その様子に、ベアトリーチェが口を開いた。
「……家政婦長は厳しいけれど、誰よりも働き者だったわ。一体、何があったの?」
「レベッカ様が『これからは通年、ここに住む』と宣言された際、家政婦長は『社交シーズンでもないのに王都に居座るなど論外です。領地持ちの貴族として務めを果たすため、領民のもとへ戻るべきです』と進言したそうです」
「当然だわ。けれど……レベッカ様にとっては、使用人が自分に楯突いたと映ったのね」
こくり、とニナは静かに頷いた。
「はい。シーズンが終われば領地に戻り、維持費を抑えるのがどの貴族でも当然のことです。王都に滞在し続ければ金銭的負担も大きく、何より領政が滞ります。家政婦長は公爵家の……いいえ、貴族として当然のルールを守ろうとした、ただそれだけなのです。ですが……」
「レベッカ様は王都で遊び暮らしたい、家政婦長は公爵家の名を汚させたくない……。相容れるはずがないわね」
ベアトリーチェは一度、ふっと息を吐いた。
玄関から続くホールも、その横に見える廊下も、全てが薄汚れ公爵家のタウンハウスとは思えない。
―――これが本当に、私の知っているタウンハウスなの……? 家族との思い出が詰まった場所だとはとても思えない。
自身を落ち着かせるために、僅かに目を閉じた。
足元に視線を落とすと、薄汚れた絨毯が目に入った。
「当時、意見できたのは私かフォレ叔父様、あるいは家令のセルジオくらいね。でも、私はレベッカ様から見れば、デビュタント前の小娘だった……。それで、レベッカ様は何と?」
「……家政婦長に諭されたレベッカ様は激昂し、『公爵夫人に楯突くような不届き者はクビよ! ここで働いている奴らは全員クビ! お前のせいで皆、職がなくなったのよ!』と言い放ったそうです」
「…………」
ベアトリーチェは絶句し、クロークを強く握りしめた。
レベッカのあまりの身勝手さに、恐怖を通り越して、狂気じみたものを覚える。
「お嬢様が王宮に生活の場を移されてから、レベッカ様たちの浪費は一段と激しくなりました。それを見兼ねたセルジオ様が、これ以上の浪費を止めるため、カントリーハウスから数名のベテランを応援に呼んだのです。その中には……フォレ様のナニーであった、ユール様の姿もありました」
「……ユール様は、もうお年のはずなのに」
「セルジオ様の願いなら、と来てくださったのです。ですが、ユール様が『公爵家の一員ならば、己の快楽ばかりでなく周りを見て暮らしなさい』と叱責された際も、レベッカ様は激怒されました。『ボケたババアに虐められた』とフォレ様に泣きつかれたのです」
「そんな……っ」
「フォレ様は、ご自身の育ての親も同然のユール様を、そのまま公爵領へと追い返されました……。それ以降、フォレ様は『レベッカが傷つくから』とカントリーハウスからの増員を全て拒否されました。残された使用人たちは、少ない人数のまま、レベッカ様から執拗な嫌がらせを受け……限界を迎えたところで、解雇されたのです」
「私が……私が王宮から戻った時に、誰か一人でも言ってくれていれば……! 私に力がなくても、こんなことで頼りたくはないけれど、国王陛下にだって……」
ふる、とニナは首を左右に振った。
「王太子妃教育で過酷な日々を送るお嬢様に、これ以上のご迷惑はかけられないと、皆が口を噤んでいたのです」
「……そう、なのね。でも、解雇を言い渡された皆は、当然セルジオに掛け合えたのでしょう?」
「はい。ですが、当時のセルジオ様にできたことは、紹介状と、多めの退職金を渡すことだけでした……。突然、職を奪われた者たちの多くは、公爵家に対して激しい怒りを募らせ、様々な場所で悪評を触れ回ったようです」
「……公爵家に、恨みを? 理不尽に解雇したのはレベッカ様個人でしょう?」
ベアトリーチェが怪訝そうに眉をひそめると、ニナは言い辛そうに唇を噛み、首を横に振った。
「レベッカ様が、出て行く使用人たちに『お前たちの解雇は、公爵家の跡取り娘であるベアトリーチェの望みよ。叔母であり公爵夫人に逆らうような者は要らないって……あの子が言ったのよ』と」
「……っ!?」
ベアトリーチェの顔から、すっと血の気が引いていく。
使用人たちにも、誠実に関わってきたつもりだった。今までの積み重ねがあると思い、公爵家の使用人ならば自分を信じてくれていると、思い込んでいた。
「お嬢様までもがレベッカ様と同類になったと、皆が誤解して……っ。セルジオ様が必死に弁明を試みましたが、怒りに染まった彼らの耳には届きませんでした……」
悔しさに声を震わせるニナの肩を、ベアトリーチェはそっと抱き寄せた。
―――祖父や両親が家族同然に慈しんできた絆が、たった一人の狂気で崩れてしまったなんて……。最後までレベッカ様に意見を述べていた家政婦長は……彼女の身は、どうなったの?
「ニナ、家政婦長は……無事なのよね?」
レベッカの幼い行動は、たまに狂気になることをベアトリーチェはよく知っていた。
だからこそ、家政婦長の身を案じたのだ。
「……それが、タウンハウスを出ていく姿をセルジオ様が見送ったのを最後に……行方知れずになっているそうです……」
「あ、あぁ……っ……!」
―――私のせいだ。私が公爵家を継げなかったから、何かがおかしくなっているんだわ……! 烏滸がましいと言われてもいい……。いつも私を可愛がってくれた人さえ、守れなかった……。




