117、タウンハウスへの連行【ベアトリーチェsida・前】
扉が閉まると、馬車はゆっくりと動き出した。
外の喧騒が遠ざかり、道路を進む振動と音だけが車内に響きだす。
隣にアンナがいるにもかかわらず、今のベアトリーチェには負の感情が湧き起こらなかった。
―――アンナの顔を見ても、前みたいに怒りや憎しみによる衝動的な行動が起こらない。
しかし、馬車の中は息苦しい。
ベアトリーチェの率直な感想だった。
馬車の中には、アンナと先ほどの公爵家の使用人と名乗る男、そしてもう一人、知らない男が座っているのだから、当然でもあった。
―――……誰なの、この人たちは。私が知らない間に雇われた人たちよね……?
ベアトリーチェが二人の男を見ていると、涼しげな目元をした男と目が合った。
見すぎていたことに気付かれたことが恥ずかしく、慌てて視線を逸らす。
「おっと、不躾にも見すぎてしまいましたね。それにご挨拶もまだでした。私はゼルヴァス。そしてこっちが……」
ゼルヴァスと名乗った男は、自身の隣に座っている男に視線を向ける。
「……ス、スローポ、です」
「おいおい、スローポ。美しい貴族のご令嬢だからって緊張するなよ」
「……緊張するに決まってる。ゼルヴァス、迷惑かけちゃ駄目だよ」
「俺が!?」
二人はベアトリーチェから見ても、正反対の男だった。
飄々としているが美しい顔のゼルヴァスに、スローポは大柄だが、のんびりとした優しそうな面構えをしていた。
―――彼はゼルヴァスが心から信頼して、気を許している友なのね……。羨ましいわ。
そのやりとりを見ているだけだったが、ベアトリーチェは思い出したかのように自身も名を述べた。
「わたく、し……ベアトリーチェ・ソフィア・リッソーニと申します」
馬車が学園から遠ざかり、人通りのある道を避けるように裏手を走る。
窓の外を見るためにアンナが僅かに指先でカーテンを動かした。
「ざまぁみろだわ」
それまで可憐な聖女の笑みを浮かべて座っていたアンナが、長く息を吐くと聞いたことがないほど低い声で呟いた。
「え!?」
驚いて隣に顔を向けると、アンナの顔には先ほどまでカッシオたちを魅了していた笑顔が完全に剥がれ落ちていた。
「お嬢様、落ち着いてください。ベアトリーチェ様が驚かれていますよ」
「本当のことを言ったまでよ」
アンナは隣に座るベアトリーチェを見やる。
あまりにもドレスの布地の面積が少ないため、寒そうにも少し震えていた。
そのことに気付いたゼルヴァスが僅かに立ち上がり、何かを手にして近づいた。
ビクリ、と怯えるようにベアトリーチェは肩を震わせた。
ゼルヴァスが怖いわけではない。今まで男たちにされてきたことが脳裏によぎり、体が硬直したのだ。
「……っ!」
「……ゼルヴァス、駄目だよ。お、お嬢様に……」
「あっ、あぁ、そうだな。お嬢様、ベアトリーチェ様が寒そうなのでこちらを」
何かされるのかと、ベアトリーチェは反射的に身を強張らせた。
だが、アンナがゼルヴァスから受け取ったのは座席の間に用意されていた厚手のクロークだった。
「申し訳ありません、お嬢様。私が先に気付くべきでした。このような格好では、お体が冷えてしまいますので、こちらを……」
アンナはクロークをベアトリーチェの肩へと優しくかけた。
―――突然、どういうこと……? だって、アンナは私を嫌っていて……嫌っていたのよね? でも、何故かしら……アンナに何かをされた記憶が……思い出せないわ。
不意にベアトリーチェは、今までのことを思い出そうとする。
しかし、アンナに何かされた記憶を思い起こすことはできなかったが、胸の内にはまだ黒い靄があるような気がするのだ。
「……ゼルヴァス、あの魔道具を」
「ええ」
震えるベアトリーチェの胸を見ると、アンナはゼルヴァスに指示を出す。
ゼルヴァスは懐から緑色の石が埋め込まれている腕輪を取り出すと、ベアトリーチェに声をかけた。
「ご令嬢の手に触れたことをお許しください」
その言葉は許可をとるためではなく、すでに触れていることへの謝罪であった。
ゼルヴァスが腕輪をベアトリーチェの手首に装着する。
気付いた時には手を取られ、触れられていたため恐怖心を覚える前に、昏く淀んでいた胸の内が陽の光に照らされたように温かい感覚が広がっていた。
「……んっ」
ベアトリーチェは、何とも言えない不思議な感覚に目を見開いた。
―――あたたかい……。
頭の中がすっきりと冴え渡っている。
それと同時に胸の内にあった、アンナへ対する醜い感情の全てが消え去ったように、何も感じなくなっていた。
そしてもう一つ、ベアトリーチェを違和感が襲う。
―――何故……私は今まで、ディエゴ殿下の言うことに従っていたの……? 私は公爵家の跡継ぎとして生きていくと思っていたことが変わったとしても、ディエゴ殿下のおかしな妄言に従っていたなんて……! 信じられない……。
今までディエゴに抱いていた、異常なまで服従心。
女公爵になるために努力していたはずが、その夢が破れたからといって、ディエゴと絶対に結婚すること、そして子を成すことに異常なまでの執着を持っていた。
今までベアトリーチェの中にあった感情は、全て誰かによって書き換えられた歪な感情だったのだと、はっきりと理解してしまった。
呆然とするベアトリーチェの手を、アンナが横からぎゅっと握りしめる。
「ベアトリーチェお嬢様。本当に、本当に申し訳ありません……!」
アンナの瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
あまりにも美しいその涙に、ベアトリーチェは思わず指が動いていた。
「……昔から感情が豊かな子だったけれど、いくつになっても変わらないのね、ニナ」
「お、お嬢様……っ!」
涙を流しながら安堵したような泣き笑いの表情を浮かべるアンナに、ベアトリーチェは頭の中の整理が追い付いていく。
「私、ニナなんです……。アンナじゃなくて、ニナなんです! 誰も、誰も……!」
その声。
その名前。
その眼差し。
学園で見せていたような演技ではない、本当の少女がその場にいた。
「ニナ……ごめんなさい、今まで……。あなたに私は酷いことを……」
「されてません! 私はお嬢様にそんなことは、されていません! していたのは……あいつらですからっ」
「…………」
「謝るのは私の方です。お嬢様をお助けするのが、遅くなって……本当に、遅くなったの……もどかしくて……」
「……あなたのせいではないわ、ニナ。今、こうして助けてくれてるもの。ね、だから泣かないで」
ニナはベアトリーチェを強く抱きしめた。
その力強さをベアトリーチェは自身も泣き笑いの表情になりながら、抱き返した。ニナの肩からは、これまでのプレッシャーから解放されたように力が抜ける。
「なんだか安心したら、すみません……」
「いいのよ。このまま私が支えてあげるから……今どうなっているのか教えてちょうだい」
ベアトリーチェが状況を把握しようと、大人しく座っている二人に声をかけた。
「まず、一つだけ。この馬車、防音は大丈夫なのよね?」
ニナの声は大きかったが、ベアトリーチェは令嬢らしく小さかった。
そのことに気付いたゼルヴァスが片目を瞑りながら説明する。
「そこに気付かれるとは、やはり公爵令嬢ですね。この馬車自体に、闇魔術を付与した魔石を四方八方に設置しております。どれほど大声で話そうが、外にいる者たちはその会話を聞くことはできません」
「闇魔術……そういう使い方もできたのね」
「いいえ、元々はできませんでした。ですが、とある方からそのアイデアをいただき、できるようになったのです」
「……とある方?」
「はい。その方が今からの話に関わってきます」
ゼルヴァスは薄っすらとした笑みを浮かべながらも、足の上で手を握りしめる。
あまりの力強さに手の甲に血管が浮かび上がり、悔しさなのか、後悔なのか分からない感情の強さを表していた。




