104、『不遇令嬢は実は聖女で、溺れる王子を真実の愛へ導く』最終巻⑧《3年目》
いよいよカウントダウンに向かっていきます。
まだ夕暮れの光は暗くなく、どちらかと言えば昼に近いものがあった。
久しぶりに見た学園の建物、そして門は、たった数日では何も変わっていない。
―――当然よね……。まだ数日だもの。私は何故、感傷的になっているのかしら。
門の前にはフローラが呼んでいた宝飾品店の移動馬車が停められていた。
学園自体は街中に近い場所にあるため、外を行き交う人々は多くいる。しかし、フローラの配慮なのか、学園の者はほとんどおらず、ベアトリーチェは少しだけ安堵する。
「お嬢様、こちらでございます」
フローラの侍女、ダリラが表情を変えずに案内した。
「あなた様が、こ、公爵令嬢様でいらっしゃいますかっ」
「え、ええ」
「フローラお嬢様より公爵令嬢様をお呼びするかもしれないと言われていたので、わ、私感動しております……!」
少しだけふっくらとした店主が、感極まったように目に涙を浮かべ、帽子を脱いで胸前に手を置いている。
その光景を気にすることなく、ダリラが声をかけた。
「店主、フローラお嬢様が恥ずかしがるので、お嬢様の話はそこまでです。それよりも、公爵令嬢であるベアトリーチェお嬢様に似合う品は持ってきていますね?」
「は、はい……! このように美しいお嬢様ですと、宝石が負けてしまうかもしれませんが、どうぞご覧くださいませ!」
勧められるがまま、ベアトリーチェは馬車の荷台に置かれた品物を見る。
どれも精巧な作りをしており、この店が平民向けの店でないことは分かる。値段もそこそこ高めであり、自信もあるのだろう。
「お嬢様、こちらなどいかがですか」
ダリラは案内の途中で少し会話をしたが、予めフローラより、本当に良い品のみを勧めるように言われているのだそうだ。
薄青色の大粒の宝石が輝くイヤリング。
その色は、婚約者であるディエゴの瞳の色を思い起こさせる。恐らくダリラもまた、ディエゴの婚約者であるベアトリーチェを立てるために選んだのだろう。
改めて宝飾品の数々を見ると、品物の多くは青系統のものばかりであった。
それならば、どれを選んでも同じであろうと考え、ベアトリーチェは頷いた。
「……そうね、とても綺麗。そちらをいただくわ」
そう答えた瞬間、通りで何事かと立ち止まっていた人々からざわめきが起こる。
「こちら、大粒の宝石なので、そのお値段も……」
「店主、ベアトリーチェお嬢様は公爵家の方ですよ。このように宝石が似合う方はなかなかいません。それに価格を気にするなど……。貴族の方々はあなたたち平民に還元しないといけません」
「ダリラさんの言う通りね。あなたの店の品が良かったから、購入させていただくのよ」
「あ、ありがとうございます!」
店主は何度も頭を下げる。
行き交う人々も、立ち止まっている人々も、公爵令嬢という単語に反応を示し、ベアトリーチェの姿を上から下まで何度も見ていた。
「それではお代なのだけど、一度……」
「ベアトリーチェお嬢様、ここは伯爵家に支払わせてください」
こそりとダリラが耳打ちする。
「何故? 公爵家に言えば……」
「周囲をご覧ください。少し視線が多くなってきました。私はフローラお嬢様に、あまりベアトリーチェ様を周囲の視線に晒すなと言われております。フローラお嬢様も代金の件に関しましては、後ほど公爵家に請求すると言われております」
「でも、それだと伯爵家に何か迷惑をかけるかもしれないわ」
「いいえ、大丈夫です。公爵家と伯爵家は今、大変良好な関係なのだそうです」
「……そう」
ダリラの言う通り、僅かな時間しかこの場にいなかったのだが、周囲の視線が増えていることに気付く。
ベアトリーチェはこの場を早く後にした方が良いと言ったダリラの言葉の意味を実感した。
「それでは、ダリラさん。あとはお願いしても?」
「はい、承知いたしました」
「店主さん、素敵な品をありがとう」
ふわりと美しく微笑んだベアトリーチェに、店主は顔を赤くし、しどろもどろになりながら別れの挨拶をした。
ベアトリーチェがその場を後にして姿が見えなくなる、ダリラは震える声で言った。
「また支払いだけ……」
「ダ、ダリラ様!? どういう意味でございますか……?」
「いえ、ごめんなさい……。あの方、いつも支払いになるとああやってフローラお嬢様に……」
「で、では、こちらの代金もフローラ様が……」
「ええ。あの方、今学園で悪役令嬢などと呼ばれて、気が立っていらっしゃるみたいなの。こうやって、人目のあるところでご自身が一番目立たないと、とても荒れてしまうのです……」
「まさかそんな……」
「ですから、今回あなたに用意させた一番目立つ大きな宝石を最初にお勧めしたのです」
「あ、あの方が……一番目立つ物を気に入るからということですか……?」
「当然です。あの方は、自分が常に一番でなければ許せないのですから。だから、あの宝石を最初に見せるとすぐに頷かれたでしょう?」
「は、はい……。あの宝石は我が店で一番の品物です。普通は少しは躊躇いがあるものです……」
「あのお方にそのようなものはありませんよ。とにかく、自分が目立たなければ、癇癪を起します。一番の被害者は妹である聖女様ですが、フローラお嬢様は聖女様と仲が良いので、聖女様に何かをされるならご自分が、と……。あっ! 今のは聞かなかったことにしてちょうだい」
ダリラが僅かに声を張りながら話したことで、周囲にその声は届いていた。
「悪役令嬢はやはりあの方なのか……! 通りで美しいわけだ」
「他の令嬢に無理やり支払いをさせているのか!?」
「とんでもない女だ……」
「やはり、あの本の悪役令嬢は、あの女のことに違いない」
「でも、本じゃいつも豪華なドレスだの何だの肌をみせてるって……」
人々の声が聞こえ、ダリラは嘆くように続けた。
「今日のお洋服も見たでしょう? あれは上質なシルクよ。平民の賃金では何年かかって支払えることか……。それに、たまにあのようなシンプルなワンピースを着て、何も知らない方々を、その……誘われているのです」
「さ、誘う!?」
「ええ、だって店主……あなた、先ほど微笑まれて、手に触れられていたじゃない」
店主は微笑まれたその美しさしか覚えておらず、触れられたことを覚えていない。
距離が近く、良い匂いがしたことは記憶している。
だが、由緒正しき伯爵家に勤める侍女のダリラにそう言われれば、そうだったのかもしれないと思えてくる。
「……た、確かに……そんな感じだったかも……しれませんが……」
「そうでしょう? あの方は誰でも……あら、もうこのような時間ね。お喋りが過ぎたわ。フローラお嬢様の夜のお支度をしなくてはいけないの。では、伯爵家に請求を寄越してちょうだい」
「は、はい……承知いたしました」
来た時と同じように、背筋を伸ばして学園の中へと戻って行くダリラを、店主は呆然と見やる。
ダリラがいなくなったことで、その場にいた者たちが近寄ってきて店主に話しかけた。
「店主! あんた、本当に誘惑されたのか!?」
その一声に、ハッと意識を戻す。
店主は触れられたという手を見た。分厚く肉付きのいい節くれだった手に、冷たい指の感触が今も残っているような気がする。
自分のような小太りのしがない男に、公爵令嬢が触れたのだ。
「あ、ああ! 手の、そうだ! 手の甲を、そう……その、なんだ、指を上下に滑らせるように、何度も、何度も……何度も触れられちまった!」
「ほ、本当かよ……!」
「あの本の悪役令嬢みたいに、男だったら、貴族以外でもいいのかよっ」
ドッとその場が沸き立つ。
店主はどのように触れたのか、令嬢の滑らかな指先の感触、近付かれた際の甘い匂いの感想を周囲に聞かせるように、大きな声で話した。
本を知らない者はその本の名を尋ね、今回の件を面白可笑しく語りながら人々は学園の門の前から離れていく。
知らないうちに宝飾屋の店主は、ベアトリーチェを貶めるための策略に加担していた。
貴族にとっても、平民にとっても、娯楽は多いようで少ない。
違和感しかなくても、誰もこの違和感に気付かない。
誰もが少しずつ嘘を重ね、娯楽と笑い、空気は伝染するかのように毒となって、心を侵していくのだ。
「ああ、駄目だ。私には愛する妻がいるのだから……。いくら、あのように美しい公爵令嬢様から誘われても……」
店主は恍惚とした表情を浮かべ、妄想に憑りつかれた様にうっとりとしていた。
ベアトリーチェが女子寮に戻る途中に、フローラが待っていた。
「ベアトリーチェ様、良い買い物はできましたか?」
「……ええ。フローラ様のおかげです。品物の代金は、公爵家へ請求してください」
「本当は私からの贈り物……とでも言いたかったのですが、それではベアトリーチェ様もあまり良い気はしないと思いますので、そのようにいたしますわ」
「そこまで気を遣っていただいて……ありがとうございます」
「……私は学園の皆のために行動したまでです。卒業パーティーくらいは、普通に終わりたいので」
美しい笑みを浮かべてフローラは微笑むと、そのまま一礼して先に寮へと戻っていく。
その背中を見送りながら、少ししてからベアトリーチェも自室へと戻る。
「普通に終わりたい……。ええ、そうね。卒業さえすれば、この地獄も終わるのだもの……」
ベアトリーチェ自身、ディエゴの真の目的など分かるはずもない。
ディエゴの命令に逆らえず、自身の家の存続を願うあまりに、望まぬ悪意を他の令嬢にぶつけてきたのは事実だ。だから今、自身が行ってきた報いが、そのまま自分に返ってきているだけなのだと、ベアトリーチェとて理解している。
ただし、その元凶であるディエゴは今も学園生活を楽しみ、自分からは何かをすることもなく、やりたいことだけをやっている。
部屋の前に戻ると、出た時に汚されていたものは片付けられていた。
―――寮母さんか、誰かが片付けてくれたのかしら……?
今のベアトリーチェに善意で近付きたい者などいるはずがない。
部屋の中に入ると、外から楽しそうな声が聞こえてくる。
「卒業パーティー、楽しみですわね。あの方がどのような結末を迎えるのかしら」
「ふふ、皆が注目しておりますものね」
「私は絶対、あの結末と同じ道を辿ってほしいですわぁ」
「あらあら、あとひと月なんて、待てるかしら?」
「待つしかありませんわよ、皆さん」
扉のすぐ側から、乾いた笑い声が聞こえてくる。
言葉の端々にちりばめられた嘲笑の響きが、逃げ場のない部屋の中で、じわじわとベアトリーチェを追い詰めていく。
「あとひと月の辛抱……。それは私も同じこと」
ベアトリーチェは視線を落とし、足元を見る。
フローラが、善意で声をかけてくれたとは、今も思っていない。
今のベアトリーチェにとって、卒業だけが解放される唯一の方法なのだ。胸の中に込み上げてくる黒い靄は、今までの行いへの後悔なのか、それとも、全てを強いた男への憎悪なのか分からない。
ベアトリーチェは胸元の魔石を強く握りしめ、ただその時が訪れるのを待つしかない。




