8 柔風
国境防壁が破られた時、辺境伯邸は第二の砦となる。
そんな辺境伯邸は石造りの頑強な建物だった。
セレイヴが部屋を与えられた別邸は、日頃は客人をもてなすためのもの。だが緊急時には騎士や領民を受け入れるための建造物でもある。壁に備え付けられた燭台の装飾は最低限。花や絵はほとんど飾られない質素な建物でもあった。
セレイヴとマティアスが石床の廊下を踏む。昼間でも薄暗く、歩くたびに足音が鈍く響いた。
使用人とすれ違う。
探るような視線。
隠しきれない忌避感。
使用人のほとんどが、緊急時に後方支援隊員として働くための訓練を受けている。
あの日も、彼らの多くが訓練場に出ていた。
セレイヴの異能を知らない者は、もはや、この辺境伯邸にはいない。
はじめはセレイヴの斜め後ろを歩いていたマティアスだったが、使用人たちの視線から庇うため、彼の横に並んだ。
セレイヴは俯きがちに、静かに歩いている。
二人はほとんど言葉を交わすことなく、ただ、足を動かした。
庭園に出ると、二人は合わせたようにため息を吐いた。目を見合わせ、マティアスは小さく笑い、セレイヴは首を傾げる。
広大な敷地。庭と呼べるような区画はいくつもあり、その中でも小さいが静かな場所が選ばれた。
オークの木に囲われた少し開けた草地にあるのは池。水辺に咲く花が、その周りを覆っていた。
風に、花がそろって揺れている。
池を見渡せる場所に置かれたティーテーブルで、リディアとマルグリットは、セレイヴたちを待っていた。
「セレイヴ様。機会を作っていただき、感謝いたします」
リディアが笑んでそう言うと、セレイヴは伏し目がちに首を振る。
彼は今日も、リディアの目を見ようとはしなかった。マティアスが気遣わしげにセレイヴを見ると、セレイヴも彼に視線を返している。
その様子を、リディアは静かに観察していた。
セレイヴが席につくと、マルグリットの手によってティーテーブルにお茶や菓子が並ぶ。それを見たセレイヴはかすかに眉を寄せる。不安げにマティアスをもう一度見上げた。
「セレイヴ様。好きに召し上がっていただいて結構ですよ」
リディアがそう言うも、セレイヴは俯いて小さく首を振る。
「僕は……本当に所作とか分からないんだ」
「存じ上げております。
そのあたりは、おいおいこちらで教師を手配いたします。今はマナーなど気にしませんから、気楽に召し上がっていただきたいのです」
セレイヴはマティアスを見た。
「……本当に?」
視線を受けたマティアスは少しだけ腰をかがめ、セレイヴに視線を合わせて頷いてみせる。
「はい。ここにいる者で、気にする者はおりません」
「……そう」
セレイヴはリディアとマルグリットをちらと見ると、両手でカップを持ち、ゆっくりと紅茶を飲んだ。
「……美味しいね」
「良かったです」
「その……」
セレイヴが口を開こうとすると、マルグリットとマティアスは当然のように下がった。
それに気づいたセレイヴは、慌てたように顔を上げる。
「彼らは僕の話を聞けないの?」
リディアはセレイヴをまっすぐに見た。
「……呼びますか?」
「……それは……マナー違反かな?」
「いいえ」
「これからも、迷惑をかけるかもしれない。聞いてほしいんだ」
「わかりました」
リディアは手を小さくあげ、二人をそばに呼んだ。
「二人も、お話を伺うように」
マルグリットとマティアスは黙って頷く。
セレイヴはそれを見届けると、長く息を吐き出し、俯きがちに話し出した。
「……僕の異能について、話すよ。
――異能は、基本的には僕が願った時に発動する。この間も『戦うのをやめて家に帰って』って願ったんだ」
リディアは言葉を挟まずに頷く。
「僕の目を見たり、僕に触れたりしても、魅了にかかるわけではないんだよ」
「……そうでしたか。
先ほど、マティアスの目を見て話しておられたので、もしやと思っておりました」
「でも……異能を持つ僕に見られたり、触れられたりするのは、怖いと思う」
「そんなこと」
「頭で分かってても、怖いと思う気持ちは止められない」
「……だから、目を合わせてくださらないのですか?」
セレイヴはちらりとリディアを見て、また視線を下げた。
「感じ悪いよね……。でも、怖い思いさせるよりは、こっちの方がいいかなって……思って。
――ごめんね」
リディアはマルグリットを見る。
当のマルグリットは、感心したようにセレイヴを見ていた。
「……でも、この力は完璧に制御できてはいないんだ。
少しだけ……いつも漏れ出てる」
リディアは彼の全身を視線で素早く確認するが、目に見えてわかるものはない。
「でも、普通はこの程度じゃ何も影響はなさそうなんだよ。すごく心が弱ってる人は……掛かってしまうみたいだけど」
「そうなのですね」
「僕の体調が悪かったり、僕が動揺したりすると、力が一気に漏れてしまう。
だから、僕の体調が悪いときには、出来るだけ放っておいてほしいんだ」
リディアは小さく頷き、胸に手を当てる。
「一つお聞きしたいのですが、……遠隔でも魅了には掛かるものなのですか?」
「はっきりと試したことはないよ。
でも分かってるのは、僕が願って、相手が僕を見ているときに、掛かる」
「だから、塔に登ったのですね」
「そう。森だったから、戦闘民族の人全員には掛からなかったんじゃないかな。僕が見えなかった人もいるだろうから」
「どのくらいの時間、掛かり続けるものなのです?」
セレイヴが首を振った。
「分からない……。
あまり長くはなさそうだとは思ってるんだけど……」
「カスパー兄様はあの時森の中におり、まさに魅了された瞬間のヴァルガ族の戦士を見ていました。すぐに正気に戻ったと仰っていました」
彼はぱっと顔を上げてリディアを見る。
「そうだったんだ。教えてくれてありがとう」
リディアは、つい、口元が綻んだ。
「……セレイヴ様は、素直な方でいらっしゃいますね」
セレイヴの眉がゆっくりと寄り、視線が下がる。
「……それはいい事?」
「えぇ、人として好ましく思います。
ですが、貴族としては素直すぎるかもしれません」
セレイヴは、ため息を吐いた。
「立場を理解していないわけじゃない。
だけど、やっぱり僕に辺境伯のお嬢様の夫は荷が重いよ」
リディアは口元を手で押さえ、ふわりと笑う。
リディアの脇にいたマルグリットは、セレイヴを見つめながら真剣な顔をしていた。
「そうでしょうか?」
その言葉に、リディアとマティアスは驚いてマルグリットを見る。
「……この中で一番否定的だったのはマルグリットではなくて?」
マルグリットはまっすぐにリディアを見つめ返す。
「王族の血を引いていて、なおかつ強い異能を持っているだなんて、私の高貴なお嬢様に相応しいと思います」
セレイヴも驚いたようにマルグリットを見た。
「……え」
「はじめこそ、リディア様への態度から不信を抱いてしまいましたが……
あれはリディア様を守るためのものだったのだと聞いたら……むしろ男気の塊ではありませんか。
これまでの人生で相当なご苦労もあったでしょうに。
騎士の一人として尊敬いたします」
「……あなた、単純すぎない?」
「そうでしょうか」
リディアはマルグリットを目を細めて見つめ、マティアスは小さく笑っていた。
リディアはカップを口元に運ぶと、気を取り直したようにまっすぐにセレイヴを見つめた。
「セレイヴ様、今度、馬に乗ってお出かけしましょう。
……そうですね。湖など、いかがですか?」
「リディアのおすすめは、そこなの?」
セレイヴがそう言った途端、リディアの動きが止まる。
マティアスはハッとしてセレイヴに耳打ちした。
「セレイヴ様、リディア様の許可を得るまでは“リディア嬢”か“ハルヴァード嬢”と」
「貴族の常識?」
「はい」
セレイヴは眉を下げて、リディアを見る。
「ごめん。呼び捨てはいけなかったんだね。
えっと……リディア嬢」
リディアはたまらず声を出して笑った。
「ふふ。いいのです。
リディアとお呼びください」
「……良かった。
僕のこともセレイヴでいいよ」
セレイヴは、ふと、マティアスを見上げる。
「マティアスは僕のこと、セレイヴって呼んでくれないの?」
「呼べません、さすがに!」
「……そうなんだ」
セレイヴは、少しだけ寂しそうに眉を下げる。
それを見て、マティアスは慌てた。
リディアとマルグリットは、その様子に二人して声を上げて笑っている。
柔らかい風が吹き、オークの葉はゆったりと揺れていた。




