62 帰縁
その日、辺境伯邸には少しだけ緊張感が漂っていた。
王都から国王レオンハルトが訪れていたからだ。
レオンハルトは以前訪れた王太子ディートリヒ同様に特別棟に数日間滞在することが決まっている。迎える準備は万端であっても、当日は別邸の使用人たちも忙しくしていた。
セレイヴの部屋、出窓の窓から差し込む日差しは少しだけ鈍い白。窓ガラスは冷え、その端には少しだけ結露した雫がこびりついていた。空には鱗雲が浮かび、その下を鳶がゆうゆうと渡っていく。
廊下からは、使用人たちの足音がいくつも聞こえてきていた。
セレイヴは出窓の籐椅子に腰掛け、静かに本を読んでいる。いつもよりも豪華な服。真っ白な襟の高いシャツに銀刺繍の施されたウェストコート。日頃は櫛でといていただけの髪はきちんと撫でつけられている。
「……セレイヴ様」
マティアスに呼ばれ、顔を上げる。本を置いて立ち上がると、ウェストコートと同色のロングコートを羽織った。
マティアスを連れて、歩き出す。
これから会う父のことを考える。
はじめて王宮へ向かった日。
その日のことが、胸に浮かんだ――
◇
テーブルの上に置かれた書簡。
十七歳になったセレイヴは、それを見下ろした。顔を上げると、テーブルの向かいにいる養父母はそろって瞳を潤ませている。
「僕……二人の子どもじゃないってこと?」
声が、震えていた。
「セレイヴ……。お前はこの国の王と月の血を継いでいるんだ」
「王様と……月? 月って何?」
養父は、視線を下げた。養母は養父の肩にそっと手を触れると、二人は目を合わせ、頷き合う。
「お前は……月の女王が産んだ子だ。私たちは彼女からお前をお預かりして、ずっと育ててきた」
「……え」
「これから、お前は王宮へ向かい、本当の父と対面することになるだろう。
それから、辺境へと向かうそうだ。その書簡にはそのことが書いてある。よく読みなさい」
セレイヴは言葉を失って二人を見つめた。
「明日、王宮の使者が迎えに来る」
「明日だって……?」
二人は頷く。
その晩、その家にいた年配の使用人たちも含め、いつもよりも豪華な食事を全員でとった。しかし、セレイヴはその味が、よくわからなかった。
翌朝。
家の前に、大きな黒塗りの馬車が停まる。
セレイヴと両親は玄関に立ち、それを迎えた。
「セレイヴ……」
養母がセレイヴを抱きしめる。養父も養母ごとセレイヴを抱きしめた。
「幸せになるのよ……」
「父さん……母さん……」
セレイヴは震える手で二人を抱き返す。王宮の使者の男たちが、彼らの前まで来ると、深く頭を下げ、それからセレイヴの目を布で覆った。
「ま、待ってください! そんなことしなくても……!」
養父の声がする。使者に腕を引かれ、背を押され、セレイヴは歩き出した。
「セレイヴ!」
養母の声に、セレイヴは振り返り、手を振った。「僕は大丈夫」、そう伝えたくて、口元には笑みを浮かべる。
布が、少しだけ、湿ってしまう。
王宮に着くと、彼は目隠しをされたまま幾日かを過ごした。“ルミナリスの系譜”について教わり、国王や王太子について口頭で教わる。
そしてその晩。
遅い時間に、セレイヴは別の部屋へと連れて行かれた。
ソファに座らされる。
「席を外してくれ」
男の声がする。彼以外の男たちがそれを嫌がるが、彼は断固として譲らず、全員が部屋を出されたようだった。
二人きりになると、彼は、セレイヴの布を外す。
暗い部屋。
明かりの灯されていない部屋には、月光だけが、部屋を鈍く染めていた。
黒髪の男。彼はセレイヴの前に膝をつき、柔らかく微笑んでいた。
「……セレイヴ」
セレイヴは、恐る恐る彼を見る。目は見ないように、鼻のあたりを。
「私が、お前の父、レオンハルトだ。よく顔を見せてくれ」
視線は合わせられなかった。
「美しい顔をしているな。ルナリエラそっくりだ」
セレイヴはかすかに眉を寄せる。
「お前は、明朝、辺境へ移動する。私の信頼する弟がいるからな。彼のもとへ。
そこには、リディアというお嬢さんがいる。賢くて美しくて素晴らしい娘だ。彼女と結婚して、共に辺境を守るんだ」
セレイヴは瞳を伏せて、一度だけ、頷いた。
「……すまんな」
そう言って、レオンハルトはセレイヴにまた布を掛けた。
――父との初めての対話は、たったそれだけだった。
明朝。セレイヴは使用人たちに腕を引かれ、王宮の車寄せまで行った。
音でわかる。何台もの馬車。軋む鎧の音。たくさんの人が、そこでセレイヴを待っていた。
一人の男がセレイヴの前に立つ。
彼は、セレイヴの目の布を取り払った。
使用人たちから悲鳴が上がる。
「陛下の血を継ぐお子によくこんな事ができたものだな!
この子は簡単に力を使うことはないと聞いているはずだろう! 痴れ者が!!」
セレイヴの肩が震えた。
「セレイヴ。私が陛下の弟、アルベルトだ。
私は馬で先行して辺境伯領へ戻る。次に会うのは、あちらの邸宅だ。
長い移動になる。
ゆったりと景色を楽しんでくれ」
アルベルトが手を差し出す。セレイヴはそれをちらと見るが、手を取るのは怖かった。セレイヴが首を振ると、アルベルトはふっと笑った。
金色の朝日は、二人の間を、するりと柔らかく染めていた。
◇
セレイヴとマティアスが通されたのは、特別棟の一室。並んだ大きな窓。影を作らないように、白い光が満遍なく部屋を満たしている。
部屋中央に置かれた向かい合う大きな革張りソファに、すでにレオンハルトが腰を下ろしていた。
彼の目元には布が巻かれている。
マホガニーのローテーブルを挟んで向かいにセレイヴも座ると、彼は瞳を伏せた。この部屋には王宮からきた従者や騎士が多くいる。彼らには目を合わせないように、ここへ来るまでも慎重に視線を下げて歩いてきた。
「全員下がってくれ」
レオンハルトが言う。
従者たちが反対するも、レオンハルトは「下がれ」としか言わなかった。
マティアスも含め、レオンハルトとセレイヴだけを残して全員が部屋の外に出される。
扉が、静かに閉められた。
レオンハルトは小さく息を吐く。そして、布を外した。
セレイヴは驚くが、以前会った彼もそういう人だったと思い出して、視線だけを外す。
「セレイヴ。大変だったようだな。アルベルトとサイラスから報告は受けているが、なかなか壮絶だ」
レオンハルトが豪快に笑いだす。
「こちらを見ろ。セレイヴ」
セレイヴは首を振った。
「あなたは……王でしょ。みんなが僕からあなたを守ろうとしている。
僕は見ないよ」
レオンハルトは立ち上がると、テーブルをまわり、セレイヴの隣に座り直した。そしてセレイヴの頬を両手で挟んで顔を上げさせる。
ふっと笑った。
「やっぱりよく似ているな。ルナリエラに」
セレイヴの瞳が揺れる。
「美しい顔だ。お前の澄んだ性格もよく表れている」
「……陛下は、女王のこと……」
「私の片思いだったかもしれんな」
セレイヴは視線を下げるが、レオンハルトは彼の顔をじっくりと眺めた。
「……あの人は、異能を陛下に使ったのかもしれない」
「そうだったとしても、私は今でも彼女を好ましく思っている。
それにな、少なくともお前は、私に異能を使ったことはないだろう?
それでもちゃんと、私はお前を愛しい。
街の民も、お前が好きだ。
お前の姿だけを見たわけじゃない。みんな、お前の心と、行動を見て、お前を好きになった」
レオンハルトは頬から手を外すと、セレイヴの両肩を擦るように優しく触れる。
「いろんなことがあった。
それでも、無事でいてくれたことを、嬉しく思う」
王が、前を向いた。
「もっと早くお前の存在を知っていればな。幼いセレイヴはさぞ愛らしかっただろうに」
彼は両手で赤子を抱くような仕草をする。それをセレイヴはきょとんと見つめた。
「あぁ、そうそう。手紙を預かってきた」
彼はテーブルに置いていた二通の書簡を手に取ると、そのままセレイヴの手にのせる。
「……まさか陛下が預かってきたの?」
「先程から気になっていたんだが……。
セレイヴ。陛下じゃない。父上だ。
ち、ち、う、え」
セレイヴが眉を寄せるのを見て、レオンハルトは声を立てて笑った。
セレイヴが息を飲む。
「……父と呼んでも……」
「呼んでくれるか?」
セレイヴが少しだけ視線を持ち上げる。
「……いいの?」
「もちろんさ」
セレイヴは呼吸を吐き出し、唇を湿らせた。
「……ち、父上」
「なんだい? セレイヴ」
セレイヴが視線を上げる。こちらを見つめているのは、柔らかな翡翠の瞳。
セレイヴの頬が、つい緩んだ。
「……それにしても、これ、書簡?」
セレイヴは渡された二通の書簡をわずかに持ち上げる。あまりにも分厚く、書簡というより小包に見える。
レオンハルトは気にした風もなく頷いた。
「書簡だ。セレイヴに渡す前に中も検めさせてもらったが、紙しか入っていない」
セレイヴは二通の皮封筒をそっと撫でる。差出人は王太子ディートリヒと、セレイヴの養父母。
レオンハルトがふっと笑った。
「ディートリヒは我が子ながら気難しいやつなのに、よく落としたな」
「気難しいというか……」
「それから、お前の養父母は、セレイヴからの手紙が届く前からたくさん手紙は書いていたそうだ。だけど、送る勇気がなかったとかで、ずっと手元に溜まっていた。
それを全部回収してきてやったぞ」
レオンハルトが声を立てて笑う。
セレイヴがぎょっとして彼を見ると、レオンハルトはセレイヴの背を軽く叩いた。
「セレイヴの自信の無さは彼らの影響なんだろうな。よく似ている」
セレイヴはまだ封を開けていない手紙を、そっと胸に抱えた。
「僕……似てる?」
翡翠の瞳が、優しく金の瞳を見つめた。
「似てるとも。
母にも、養父母にも。
それから、時折妙に肝が座っているのは私に似たんだ。
ここには、アルベルトもカスパーもリディアもいる。マティアスもよく尽くしてくれているようだ。
セレイヴのまわりにはお前を愛してくれる人がたくさんいる。
父として、誇らしく思う」
「父上……」
セレイヴが俯くと、レオンハルトはその肩を抱いた。
「あまり、私はここには来れない。
私も、お前からの手紙が欲しいな」
「……手紙、書くよ」
「楽しみにしている」
胸に抱いた手紙も、肩に置かれた手も、とても温かかった。




