60 帰還
森の奥でヴァルガ族によって発見されたセレイヴは、肩、腕、脚を刺され、出血量も多かった。
彼らによって辺境伯邸に連れ帰られたセレイヴは一時昏睡状態に陥り、医療棟内での集中的な治療を要した。
現在危機は脱し、自室に戻されている。
だが、意識は混沌としたまま。ベッドに伏せる日々が続いていた。
数日の後。
セレイヴが目を覚ますと、天蓋の中は真っ暗だった。
髪をかきあげる。
汗で、髪も服も張り付いて気持ちが悪い。
手を伸ばして天蓋の布をわずかに開け、スリッパに足を入れると外へ出た。
パチリ――と、小さな音がする。
視線をやると、暖炉には火が入っていた。
暖炉の火の維持は手間も金もかかる。庶民は、よっぽど寒くなければ暖炉にはなかなか火を入れない。
冬は近いが、まだ冬ではないというのに、暖炉の火は静かに揺れていた。
ベッドの近くに椅子が置かれ、そこにはマティアスが座っていた。
こっくりこっくりと、船を漕いでいる。
その脇に立ち、顔を覗き込んだ。
いつもきっちりと着ている三つ揃いは、ベストは脱がれ、ジャケットにも袖を通さず肩に掛けただけ。首元から左肩にかけて、包帯を巻いているらしかった。
でも、顔色は悪くない。
セレイヴの頬が緩む。
セレイヴは一続きになっている衣装準備室に移動すると、厚手のガウンを一枚手にとってマティアスのそばに戻る。ガウンをマティアスの肩にかけ、書き物机の椅子を彼の隣に置き直すと、セレイヴも腰を下ろした。
そしてまた、マティアスの顔を覗き込む。
「……君を失わなくて、本当に良かった」
しばらく眺めていると、マティアスのまつげが揺れる。
ゆっくりと目が開いた。
理知的で柔らかい、銀灰の瞳。
肩に掛かっているガウンに気づくと、彼はそれに手を触れ、隣にいたセレイヴに気づいた。
「……セレイヴ様!」
マティアスの瞳に涙が溜まる。
セレイヴは立ち上がると、マティアスの頭を怪我していない方の腕で引き寄せ、そっと胸に抱いた。
「いっぱい、また君に迷惑かけちゃったね」
「そんなこと!
……アルベルト様がお話されたいと!
それから……リディア様も目覚められたらすぐ呼ぶようにと……それから……それから……」
「マティアス」
セレイヴがマティアスの髪を撫でると、彼は顔を上げた。
「……ただいま」
「……はい」
涙が、落ちる。
「はい。
……おかえりなさいませ、セレイヴ様」
セレイヴが笑うと、マティアスも釣られるようにして笑った。
窓の外。まだ空は藍色。
だが、わずかに東の空は白くなり始めていた。
辺境の夜が、明ける。
ベッドの脇に置いた椅子にアルベルトが腰掛けると、彼はじっくりとセレイヴの顔を見つめた。まだ安静にしているようにと、医師から言われているセレイヴは、枕を背にして起き上がり、アルベルトを見つめ返していた。
「まだ……顔色はあまり良くないな」
「そうかな」
「あぁ……」
アルベルトは手を伸ばしてセレイヴの頬に触れると、その手で頭をそっと撫でた。
「まずは、辺境伯として伝える。
辺境騎士団には怪我したものはいるが、死者は出なかった。
月の使者はやはり、圧倒的に格上だ。
我らは遊ばれただけのようなものだった。ほとんどが峰打ちで、気絶させられただけ。オリバーやマティアスは怪我はさせられているが、重症には及ばない。
セレイヴ、君が一番重症だったといえる」
「それなら良かった」
アルベルトは苦く笑う。
「次は義父として伝える。
……あまりリディアを泣かせてくれるな」
セレイヴは瞳を伏せると、ふっと笑った。
「今回は……仕方なかった。
執行者たちが追ってたのは僕だけ。
僕と一緒にいると、リディアを守れないと思ったから……。
僕も、必死だった」
「男として、それは理解できる。よく守ってくれた。
だがな――」
セレイヴが視線を上げる。
リディアそっくりの若葉色の瞳は柔らかくセレイヴを見つめていた。
「私は、君も大事だ。傷つけたくない。
――セレイヴ。よく無事に戻ってくれた」
アルベルトは椅子から腰を浮かせ、セレイヴの身体を抱きしめる。セレイヴもそれを片腕で抱き返した。
「ひとつだけ、ご褒美が欲しい」
「……なんだ? 言ってみろ」
アルベルトは椅子に戻ると、セレイヴの顔を見た。セレイヴは一度視線を外し、アルベルトの目の少し下を見ながら言う。
「……リディアと、キスまでは許して欲しいなって……」
「……」
アルベルトは真顔で立ち上がり、拳をセレイヴのこめかみに強く押し付け、ごりごりとひねった。セレイヴの肩が震える。
「痛い痛い!」
「調子に乗りやがって!!」
「僕怪我人なのに!」
「君が悪い!」
壁に控えていたマティアスとオリバーは目を見合わせ、小さく笑った。それに気づいたアルベルトが豪快に笑いだすと、セレイヴもふっと笑う。
部屋には、穏やかな笑い声が響いた。
柔らかな日差しが部屋を満たしている。
アルベルトが部屋を出てしばらくすると、リディアが駆け込んできた。
マティアスが頭を下げて、部屋を出ていく。
白い光が満ちた部屋。
セレイヴがベッドに座ったまま、腕を広げるとリディアが腕の中に飛び込んできた。
それをちゃんと、抱きとめる。
その黒鳶色の髪をそっと撫でた。
「……リディア、怒ってる?」
彼女は首を振る。
「……これでも、辺境の娘ですもの」
「ごめんね」
リディアはまた首を振った。
「怪我はない?」
「ヴェスナさんたちが、守ってくださったから……」
「そう」
「セレイヴはたくさん怪我したのね」
「でも、レキが来てくれて、守ってくれた」
「……良かったです。
……次は、置いて行かないで」
セレイヴはリディアの頬を両手でそっと挟むと、顔をあげさせる。
「うん」
「守られるだけは……嫌なの」
「うん。
守る守られるじゃなくて……僕は君の隣に立っていたい。
リディアも――」
「隣にいる」
まっすぐ、見つめ合う。
それから、セレイヴはふっと笑った。
「……リディア、ただいま」
「……おかえりなさい。セレイヴ」
「うん。ここが……僕の場所」
セレイヴがもう一度、リディアを強く胸に抱いた。
鳥のさえずり。
風が吹けば、窓枠が小さくカタリと鳴る。
腕の中の温もり。
澄んだ彼女の香り。
でも、少しだけ、自分からは消毒液の匂い。
柔らかな黒鳶色の髪に頬を押し付ける。
セレイヴは瞳を伏せた。
そして、ほっと息を吐く。




