59 母影
乾いた音が鳴る。
セレイヴが目を開けた時、ルナリエラはこぶしを振り下ろし、キハを殴りつけた後だった。
キハは頬を押さえて、女王を見据えている。
「うぬら……妾に殺されたいのか」
踵まである長い銀の髪を背に垂らし、引きずるほどの丈の白い衣を纏っている彼女は、ほとんど表情を変えずに執行者たちを見回した。
シキも、ナガも、視線が縫い留められてしまったかのようにルナリエラを見つめて、腰を落としたまま静止している。
「妾のものに手を下そうとは、ついに狂ったか!」
彼女の怒りに合わせたように、風が吹き始めた。
葉を揺らし、木の隙間を流れる冷えた風が彼らの銀髪をさらっていく。
あれほど鈍かった月光は、まるで満月の夜のような強い光で彼女だけをまっすぐに照らし出した。
セレイヴは、息を飲む。
――この人が……。
ルナリエラは一番近くにいたキハの髪を掴むと、力任せに引き、そして投げ捨てるようにした。
思わずキハの身体がよろめき、倒れかけたところをナガが支えた。
だが、キハはナガの体を押すようにして急いで起き上がった。
またルナリエラに駆け寄り、その袖に触れようとして彼女に手を払われる。
「陛下!
我らはルミナリスをお守りするのが使命。
なぜお分かりいただけないのか!」
ルナリエラはキハを見据えた。
「キハ……。やめろ」
ナガが背後からキハの両肩を引き、それ以上女王に近づかせないようにするも、キハは体を振ってまた一歩彼女に近づく。
「陛下!」
ルナリエラの両肩を掴み、顔を寄せた。
女王は少年の金の瞳を見据えると、彼女の眉がゆっくり寄せられ、美しい顔貌がわずかに歪む。
「穢らわしい」
ルナリエラの金の瞳が鈍く、一瞬光を放つ。
途端。
キハの体が弾かれるようにして地面に叩きつけられた。
短く息が漏れる。
ナガが少年に駆け寄った。
ルナリエラは二人を見つめた後、シキを振り返った。
シキは、諦めたように小刀をしまう。
そして、まっすぐに女王の目を見つめ返した。
「……陛下。
我ら執行者は使命のみを抱いて生きておるのです。
我々はあなたのご意向を……どうしても理解できない」
「うぬが賢者を刺したのか?」
シキの視線が一瞬レキに滑る。
その淡い瞳は、逃げることなく、女王へと戻った。
「はい」
「……陛下」
レキが、下草の上に片膝をつき、ルナリエラに向かって頭を下げる。
ルナリエラはゆっくりとレキを振り返った。
後ろにいたセレイヴに一瞬だけ目を留めるも、彼女の視線はすぐに血に濡れたレキの衣へ滑る。
「執行者たちは全員戒場へと送ります。
どうか我の顔に免じて御容赦いただきたく……」
レキがさらに頭を沈めると、ルナリエラはその後頭部を静かに見つめた。
風が通り過ぎていく。
葉擦れの音ばかりが、響いた。
ルナリエラが再び口を開こうとしたとき、レキが牽制するように先に言葉を挟む。
「陛下も!
……問題がなかったわけではございません」
「……なんだと?」
「ルミナリスは青星の民が持たぬ力を持つ星です。
始祖はかつてこう仰った。
“ルミナリスの秩序を第一に守れ”と。
そして、こうもおっしゃった。
“異星の秩序も乱してはならぬ”、と。
始祖は“安寧こそ至上である”と。
そう、記録に記されておりました」
レキがゆっくりと、顔を上げる。
「陛下はお戯れに青星にお子を落としてしまわれた。それが、混乱を招いたのです。執行者のみを責められますでしょうか」
「賢者になった途端に偉そうなことばかりをぬかす!」
ルナリエラはレキに駆け寄ると、手のひらを振り上げた。
セレイヴは慌ててレキに覆いかぶさるようにして彼を抱く。
「レキは大怪我してるんだ! ぶたないで!」
「貴様……」
セレイヴが顔を上げると、ルナリエラと視線を交わらせた。
――やっぱり彼女は、あの時の女性だ……。
胸に、落ちる。
幼い頃の懐かしい記憶。
だが、セレイヴは唇を噛み締め、強い視線で彼女を見つめ返した。
「言葉が見つからないからって、手を上げちゃだめだ」
ルナリエラはただ、セレイヴを見つめる。
言葉は返さなかった。
やがて、彼女は背を向ける。
「……帰還だ」
手を軽く振ると、執行者たちの姿が空気に溶けるようにして消える。
「賢者。立てるか」
背を向けたまま、彼女はゆっくりと空を仰いだ。
セレイヴの手を借りてレキが立ち上がると、ルナリエラはちらとレキの姿を確認し、手を空にかざす。
「待って」
レキが振り返るが、ルナリエラはセレイヴの方を向かなかった。
全身の痛みが、ズキン――と鳴る。
セレイヴは一度うつむき、唇を湿らせた。
そうして、顔を上げる。
「は……母上……」
ルナリエラの肩がぴくりと揺れた。
ゆっくりと振り返る。
幼い頃に見た、あの時のまま。
あどけなく感じるほどに大きな金の瞳。
穢れのない美しい顔。
彼女の唇が、開いた。
「……妾のことか?」
セレイヴの呼吸が、わずかに浅くなった。
腕を伸ばせば、届く。
でも、どうしてもそれはできなかった。
「お前……やはり力が漏れているな」
ルナリエラは一歩だけ寄り、セレイヴの正面に立つ。
土を踏んでも、まるで何も存在していないかのように下草は揺れなかった。
「ここが、青星だからであろう。
お前がルミナリスに来れば、力の制御はできるやもしれぬ。
妾がお前を連れて行くことはできるが」
ルナリエラがセレイヴの額に手をかざした。ひやりとした冷気が、彼の肌に触れる。
「しかし、ルミナリスに来れば、異物であるお前は殺されるだろう。
この星で心を殺して生きるか、あちらで死ぬか。
――お前はどうする?」
セレイヴは母の金の瞳を見つめ、小さく首を振った。
「僕は……この星にいたい」
ルナリエラは表情を変えないまま、頷いた。
「……あなたは、どうして陛下の子を産もうと?」
「奇な事のように思えたから」
「僕のことは……その……どう思って……」
セレイヴの声はわずかに震えている。
ルナリエラは静かにそれを見つめた。
「……母上」
ルナリエラの眉がかすかに寄り、額に翳していた手を下ろす。
その表情に、セレイヴは息を詰め、視線を下げた。
「あなたを……母と呼ぶのは……迷惑……ですか?」
「妾は好まん」
セレイヴは唇を噛んだ。
ルナリエラは下ろしていた手をもう一度セレイヴの額にかざした。そっと前髪に触れてはっきりと顔が見えるようにする。
「……大きくなったな」
セレイヴの額に直接手を触れさせると、彼女は一度、瞳を伏せた。
じわりと熱が染み込んでくる。
「……これで、もう少しうまく制御できるようになったはずだ」
手が、離れる。
セレイヴはそれを、ただ、目で追った。
「ではな。我が子、セレイヴ」
ルナリエラは彼に背を向けた。
そして、月光に溶けるようにして、消えてしまう。
セレイヴの瞳から、涙が一筋こぼれた。
ずっとそばにいたレキは、立ち尽くしたように、セレイヴを見つめる。
手を伸ばして、セレイヴの涙を指先で拭った。
「ルミナリスの系譜の者は、心を持たぬわけではないのだ。
ただ……表現の仕方を知らぬ」
「……レキ」
セレイヴが腕を伸ばすと、レキはそれに応えるように彼を抱きしめた。
レキは、ルナリエラに似た匂いがする。
セレイヴはどうしても涙が止まらなかった。
「……もうすぐ、シキが施した障壁も解けよう。さすれば、森の民がセレイヴを見つける。彼らとともに、帰還するんだ」
レキの腕の中でセレイヴが頷く。
「また来る」
もう一度セレイヴが頷いたとき、レキの姿も、消えてしまった。
空になった、てのひら。
セレイヴはその場に膝をついた。
葉の隙間から、月を見上げる。
どこかからか、「いたぞ!」とヴァルガ族の声が聞こえてきた。
だが、応える気力はなかった。
セレイヴは、しばらくそのまま空を見上げていた。




