58 月臨
セレイヴは腕で刃を受けた。
鋭い痛み。
血が、闇の森に舞う。
呼吸を吐き出し、小刻みに震えるその手でシキの頬を両手で挟んだ。
脚も、腕も、痛くてたまらない。
血を流しすぎて、目眩がする。
呼吸が触れるほど、シキに顔を寄せた。
「シキ。僕にも死ねない理由がある。
君は帰るんだ! そして、レキにちゃんと謝れ!」
声は、震えていた。
汗が、瞳に入って滲みる。
セレイヴの瞳が、じわりと光った。
途端に、シキの唇が震える。
視線を剥がせずに、彼はセレイヴの瞳を見つめた。
「シキ。
失いたくないんだろう?
執行者と賢者だって、友人でいられる。話を聞く限り、レキはオシとも仲良くしてたじゃないか。諦めなくていいんだ。
シキ。素直になれ」
「離せ」
「シキ。ルミナリスに帰るんだ。君にはやるべきことがある」
「離せ!」
シキが腕を強く払い、セレイヴの身体が投げ出される。木に背を打ち、一瞬呼吸が止まった。
身体のあちこちが、ひどく悲鳴を上げている。
セレイヴは身を起こし、木に背を預けたまま、シキを見上げた。
「……うぬを排除して、我はルミナリスに帰る」
――ここまでか。
「……そっか」
二本の小刀を構えたシキを、セレイヴは静かに見つめる。
――シキに、僕の言葉は届かない。
視線を滑らせ、森へ。
夜の黒に沈んだ木々の葉。
昼間であれば、きっと、その緑は美しいのだろう。
思い出すのは、若葉色。
澄んで、力強い、命の色。
――リディア。
セレイヴは唇を噛んだ。
――……ごめんね。
――僕、君のところに帰れそうにないや。
セレイヴは木に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。
そして、両腕を広げた。
「おいで」
シキの瞳が、かすかに揺らぐ。
「ルミナリスの執行者、シキ。
ルミナリスの女王の血、それからこの地の王の血を継ぐ僕――
セレイヴが、君の刃を受けよう」
セレイヴの金の瞳。
わずかな月光をも逃さずに、その瞳はとらえているようだった。
シキの指先が、思わず震える。
だが、彼は一度瞳を伏せると、またセレイヴを見つめた。
刃が、振られる。
空気が揺れる。
だが――
火花が散った。
セレイヴの顔に、影が落ちた。
眼前に、銀の長髪。
「……レキ?」
シキの刃を小刀で受け流し、セレイヴの前に立ったのは――賢者、レキ。
「遅くなったことを詫びる」
彼は、ゆっくりとセレイヴを振り返り、その口端をわずかに持ち上げてみせた。
少しだけ吊り上がった瞳が、細められる。
だが、その白い衣の左脇腹に、じわりと血が滲み始めた。塞がりかけた傷が、また開いたのだろう。
セレイヴは息を吐き出し、その背に触れた。
「レキ……動いちゃだめだ。傷に障る」
レキは素早くセレイヴの全身を視線で確かめると、ふっと笑う。
「それは……セレイヴにも言えることだ」
レキはセレイヴに背を向けたまま、正面、シキを見据えた。
「……レキ。来てしまったのか」
「シキ。ルミナリスに共に戻ろう。ナガとキハも連れて。
オシとも相談したが、ご嫡子は放っておいても問題なかろう」
「我には理解できぬ」
「理解できなくていい。我を信じろ」
シキは一歩下がってレキから距離を取ると、小刀を構え直す。
「賢者。
その意にそぐわぬなら、我を処分すれば良い。賢者にはそれが許されているはずだ。
――我を殺せ」
レキは奥歯を噛んだ。
「我を見くびるな。生きたまま、連れ帰ってやる!」
二人が当時に地を蹴る。
ほとんど光の刺さない闇の中、刃が交わる。
光の筋を淡く引く。
それは幾本も。
空気の中を生まれては消えていく。
まるで、舞を舞っているみたいだった。
セレイヴは木に背を預けると、息を吐いた。
二人の動きは、セレイヴにはほとんど目で追えない。
剣戟の音。
それだけが、森に響いた。
だがその時、音を立てて刃が弾かれた。
再びレキがセレイヴをかばうようにして立つが、先程よりも衣が赤に濡れている。
呼吸を荒くし、彼は身を低くした。
向かいに立つシキも、荒い呼吸を吐き出している。
レキの脚は、震えていた。
――限界なんだ。
「レキ。僕を庇わなくていい。君が倒れてしまう……」
レキはちらとセレイヴを振り返る。
「……オシが言っていた。友人は大切にしろと。
オシも、ここより東の小さな国に友人がいるそうだ。香も、建築も、その友人たちから聞いたと。
人の命は短い。我にも大切にさせてくれ」
声は掠れ、震えていた。
その衣はみるみる黒く染まっていく。
再び踏み出そうとしたレキの身体に、セレイヴは背から抱きついた。
「無理だって! レキ! もういいよ!
……もう、いいんだ」
「何を躊躇している!」
風。
木が切り倒される。
セレイヴが顔を上げる。
少年キハと、年長者のナガ。
二人の使者が無理やり切り開いた木の間から、姿を見せた。
セレイヴは目を見開く。
――みんなは……?
全身から血が失われるような、そんな絶望が心に蹲った。
キハは辺りを短く見回し、ナガはセレイヴに抱かれているレキの血に濡れた衣を見て、わずかに目を細める。
「シキ。障壁まで張って閉じ込めておきながら、まだ排除できていないとは」
キハがそう言うと、シキは彼らから視線を外した。
「障壁?」
セレイヴが小さく問うと、レキが頷く。
「シキがよく使う力だ。他者を寄せ付けぬ障壁を作れる。森の民を寄せ付けたくなかったのだろう」
応えた途端に、レキの身体が崩れた。
膝をつき、息を吐く。
セレイヴが支えるその身体は、あまりにも冷たかった。
キハは刀を構える。
そして、何も言わず、セレイヴに向かって踏み込んだ。
下草が舞う。
刃が突き出される。
「やめんか!」
キハの動きが、止まった。
執行者たちは一斉に、視線をひきつけられる。
その視線の先。
白い衣を纏った女性。
彼女は、ふわりと樹上から降りてきた。
まるで時を止めたかのように、彼女だけが静かに、ゆっくりと。
その華奢な足が、地面を踏む。
途端に、白い光が視界を覆った。
セレイヴも思わず目を閉じる。
――それは、ルミナリスの女王、ルナリエラだった。




