57 心刃
セレイヴは馬を飛び降りた。
暗闇の森の中で馬を駆けさせるのは簡単ではない。自分の技術では、月の使者から逃げ切れるわけがないのだ。
しばらくは闇雲に走った。
道もない森の湿った地面は、踏んでも音がしない。
息が上がっている。
肺が焼けてしまいそうだ。
立ち止まり、胸を押さえた。
振り返って、目を凝らす。
――来い。
僕を殺しに来たのなら、僕のところにだけ、来るんだ。
先の見えないほどに木ばかりが連なっている。
静かに森を這うのは、冷え込んだ闇。
そこへ浮かび上がる。
白い衣。
ここには、樹上から振ってくる葉擦れの音だけ。
自分の呼吸さえ、ほどけていくようだった。
木々の向こう。
シキが足を止める。
一度、月を確かめるように空を見上げると、またまっすぐにセレイヴに目を向けた。
彼の衣は、汚れていた。
だが、その血はきっと、彼自身の血ではないのだろう。
セレイヴは奥歯を噛み締め、淡い金の瞳を見つめた。
「……うぬは、手間を掛けさせる」
「シキ」
シキはゆっくりと木の間を抜けてセレイヴに近づき、手に持っていた小刀を振った。
セレイヴの少し後ろにあった木の幹に、投げるようにして突き刺す。
「逃げるのはやめたのか」
「どうせ、逃げられはしない」
「合理的だ」
シキは腕を伸ばし、セレイヴの顎を持ち上げて目を覗き込んだ。
呼吸が触れる。
熱のない凍った息。
「うぬは、レキに何を言った」
セレイヴの眉が歪む。
「レキは青星へ任務で訪れるようになってから、異常行動を起こすようになった。
うぬのせいではないのか。
うぬは、特殊な力でも持っているのか。
うぬは――」
「僕は何も……」
顎を持っていた手が、首に滑る。
その指先に、じわりと力が込められた。
「何故、レキはうぬを排除できなかったのだ」
首が締められる。
セレイヴの喉から小さなうめき声が漏れた。
「……女王が……嫌がったからでしょ……?」
風が吹く。
葉擦れの音。
セレイヴは一度瞳を伏せ、ゆっくりと開けた。
――手を、離せ。
一瞬、セレイヴの金の瞳が光る。
シキは驚いたようにセレイヴから手を離し、自分の目を覆った。
「……小癪な」
セレイヴは咳き込みながら、わずかに足をふらつかせたシキを見つめた。
――やっぱり、少しだけなら効くんだ。
セレイブはシキの衣の襟元を掴んで身を起こさせる。
「シキ。仲間を連れて、帰るんだ」
シキは目を細めてセレイヴを見つめた。
「……うぬの力など、陛下には及ばぬ」
「なるほど。母の力は君たちには効くんだね」
「陛下を母などと呼ぶとは」
「僕の見立てでは、レキとその“陛下”は好き合っているんだと思うよ」
シキは、表情を変えないまま。
「どういう意味だ」
「君にはわからないでしょう?
レキも苦しんでた。レキは苦しいその理由をずっと知りたがってたんだ」
セレイヴはゆっくりとシキに顔を寄せる。
彼の淡い金の瞳に、自分が映り込んでいるのを見つめた。
「レキは、僕を殺さなかった。
彼にとって大切な“陛下”が、そう望んだから」
シキは自分の衣を掴んでいるセレイヴの手を取る。
「しかし――」
「知りたいんでしょう? レキが、何を考えて、何をしたかったのか。
僕が、教えてあげる」
シキは力づくでセレイヴの手を払った。
乱れた衣を直すと、小刀を持ち直す。
「我を絡め取ろうとでもいうのか。レキも、そのようにしたのだな」
「してないよ」
シキの小刀を握る指先が、白くなる。
「してない」
「ではなぜ、レキは賢者になろうなどと――」
セレイヴの眉が上がった。
「レキは……賢者になったの?」
シキは答えず、セレイヴの目を見据える。
「そうなんだ……。レキ、自分で選んだんだね。すごいや」
セレイヴが頬をわずかに緩めると、シキは、思わず息を呑んだ。
小刀を短く振り上げ、それはセレイヴの前髪を切る。
「何故そのような顔をする」
もう一度小刀を振る。
セレイヴはそれを避け、下がった。
背に木の幹が触れる。
シキは片手でセレイヴの肩を掴むと、木にその身体を押し付けた。
そして刃を、セレイヴの腿に押し込む。
「うっ……」
セレイヴは歯を噛み締める。
「うぬなど、苦しんで死ねばいい」
刃が、引き抜かれる。
セレイヴは短い呼吸を吐き出し、脂汗を額に滴らせた。
血の匂いが、ゆっくりと漂い始める。
「……シキは僕が憎いんだね」
荒い呼吸。
「痛い……」とつぶやきながら、セレイヴは苦く笑う。
シキはそれを静かに見つめた。
「“憎い”とは」
「……レキを、君から離してしまったから。寂しいんでしょ?」
「“寂しい”だと?」
「君は、レキが、好きだったんだ」
セレイヴは片手で腿の傷に触れると、それを見下ろした。生温い血が、手のひらを黒く染める。痛みで、脚は震えている。
小さな動物が、樹上を駆け抜けていった。
セレイヴは視線だけで空を見上げる。
深い森。
重なる葉の隙間からは、月はほとんど見えなかった。
ゆっくりと、眼の前に立つシキに視線を戻す。
片腕でセレイヴの肩を押さえつけている手の甲に触れた。
騎士をも上回る力を持つ使者の手を、セレイヴが払いのけられるとは到底思えない。
だが、体温の低い使者の手に、自分の熱を染み込ませるように触れる。
「レキは、言ってたよ。
一番歳の近い執行者とは価値観が近いんだって。そんな彼の瞳は執行者の中で最も薄く、まるで透明に澄んでいるようだと。
――執行者だったレキはそれしか言わなかった。
でも、僕にはこう聞こえたんだよ」
シキとセレイヴの金の瞳がまっすぐに交わる。
「価値観の近いシキには、一番気が許せる。
シキの瞳は、とても綺麗だ」
セレイヴは柔らかく目を細め、口角をわずかに上げた。
「レキにとって君は、きっと友人だったんだね」
シキは震える手で、小刀を振り上げた。
それは、傷口を抑えていた腕の方の肩を貫く。
セレイヴの喉から声が漏れた。
彼は腕を押さえると、木に身をあずけるようにして腰を落とす。
顔を上げ、荒い呼吸をなんとか逃がそうとした。
シキは刃の汚れを払い、セレイヴを見下ろす。
「“ユウジン”とは何だ。レキも言っていた」
セレイヴは大きく息を吸って呼吸を整えると、シキの瞳を見つめ返す。
「僕も友人は多くないから、よくわからないけど……そうだな。
信じられる……とか。少しの失敗なら許し合えるとか。一緒にいるだけで、気楽で、楽しい……とか。失いたくない、大切なもの。
僕は、そういうものだと思ってるよ」
「許し合う?」
シキは、空を見上げた。
「レキは……我を裏切ったのか。
それとも、我が、レキを裏切ったのか」
「……シキはレキに何をしたの?」
「腹を刺した」
「……え。それは……許されるかどうか難しいところだね」
セレイヴが傷を押さえながらふっと笑うと、シキはそれを静かに見下ろす。
「……我は……許されたいのか?」
「許されたかったら、謝るしかないだろうね」
シキは頭を振った。
「……惑わされるな」
独り言ち、腕を伸ばした。
座り込んでいたセレイヴの首を掴んで無理やり立たせ、刃をその胸に当てる。
無機物のような、冷えた手。
押し付けられる刃が、泥に汚れた白いシャツにわずかに傷をつける。
「我は、ルミナリスの執行者。
異物を排除するのがお役目」
瞳が絡む。
セレイヴは、ゆっくりと瞳を伏せた。
「そっか。君は……それを選んだんだね」
シキが腕を振り上げる。
刃に月が、映り込んだ。




