56 背月
リディアたちの乗った馬が、騎士団訓練場の影を縫うように走る。
国境防壁へ。
ただ駆けさせる。
土と、森の匂い。
かすかに、血の匂いが混ざっていた。
リディアの肩に額を預けていたセレイヴが、顔を上げる。
「……セレイヴ?」
「来る」
突然、馬が嘶き、脚を止めた。
リディアたちは振り落とされそうになり、短く悲鳴を上げる。
馬の鼻先。
少年の姿のキハ。
軽く手を広げ、そこに立っていた。
「いた」
キハが刀を腰から取り出す。
一矢。
キハの頬を掠り、向こうの壁に刺さった。
少年は、ゆっくりと矢の来た方を向く。
「君の相手は私だ!」
アルベルトが弓を投げ捨て、篝火の明かりの中からこちらへ駆けてくる。
「お父様!」
篝火の灯された向こう。
騎士たちが幾人も倒れているのが見えた。
リディアは馬をなだめ、視線を探る。
キハには――隙がない。
防壁の扉はすぐそこだというのに。
脇を抜けるのが、どうしても怖く感じてしまった。
リディアの手綱を握る手が、震える。
父の姿も、ぼろぼろだった。
傷だらけの鎧。
赤黒い汚れは、誰かの血か――それとも。
アルベルトがキハに向かって剣を振り上げる。
リディアは馬を思わず下がらせた。
キハが刀でアルベルトの剣を流す。
高い金属音。
少年が刀を振り回す。
身を引き、アルベルトはそれを避ける。
風を切る音。
何もかもを巻き込み、壊す風。
すでに満身創痍の騎士たちも駆けつけるが、その覇気に、誰も手を出せずに遠巻きに二人を見つめた。
「リディア! 行け!」
アルベルトはこちらを見ない。
彼が剣を引き、突く。
空気を裂くような力強い一撃。
キハはそれを寸でで躱す。
どちらも、力任せの剣だった。
王都一と言われたアルベルトの剣。
それに並ぶ、いや、それ以上のキハの太刀筋。
どちらの剣も、振るわれるたびに音が鳴る。
ただ、斬るためではない。
叩き斬る。
そのための刃。
リディアの呼吸が震える。
「……リディア」
セレイヴが彼女を背から抱きしめ、そっと言葉をこぼした。
リディアは首を振ると、顔を上げた。
――そうよ。
お父様が、負けるわけがない。
視線を巡らせると、アルベルトたちを囲んでいた騎士の一人がリディアに向かって手を上げた。
手招きをしている。
騎士たちがアルベルトとキハを囲むように、壁を作る。
気配を辿ってくる使者には意味がない手段かもしれない。
だが、リディアは彼らを信じて、騎士たちの背を馬に駆けさせた。
馬の首に身体を添わせるようにして、身を低くする。
騎士たちの向こうで戦っているキハとアルベルトの気配。
視線の先。
国境防壁の扉が開けられる。
そこを、駆け抜けた。
森に入る。
闇の森。
気を抜くと簡単に根や枝、下草に馬の脚を取られる。慎重に手綱を握る。だが、できるだけ、馬を走らせた。
「セレイヴ!」
樹上から声。
セレイヴ達が顔を上げると、そこにはヴェスナ。
他にもヴァルガ族の男たちが上から二人を見下ろしていた。
「月の使者だって?
あの協定はあたしたちを辺境領に守ってもらうために結んだってのに」
ヴェスナが舌打ちをし、男たちが笑い声を上げた。
セレイヴたちの息は、すでに浅い。
セレイヴとリディアは目を見合わせ、言葉を失ったまま、もう一度ヴェスナを見上げた。
族長の女は、笑った。
ぞっとするほど艶のある笑みで。
「任せな!」
ヴァルガ族たちが、一斉に散る。
葉が舞った。
濃い森の匂いが漂う。
セレイヴとリディアはまた、目を合わせた。
馬の脚を緩め、リディアは一度セレイヴの方にしっかりと体を向けると、彼の頬を両手で挟んだ。
引き寄せ、唇を重ねる。
「……絶対に生き延びる」
「……うん」
リディアはまた前を向き、手綱を握り直した。
目元を手の甲で、強く拭う。
「……リディア、どこへ行くの?」
「わからない。とにかく、遠くへ」
どこかで、狼の遠吠えが聞こえる。
葉の隙間から差し込む月光。
それはあまりにも鈍く、彼らの足元をほとんど照らしてはくれなかった。
リディアとセレイヴの呼吸が、森を滑るように響く。
国境防壁の篝火が遠ざかる。
時折枝に頬や腕を叩かれながら、彼らは森を進んでいった。
セレイヴが一瞬強く、リディアの腰を抱く腕に力を込めた。
間を置かずに、矢が背後に降り注ぐ。
リディアとセレイヴが振り返った。
銀髪の使者。
薄い金の瞳。
鬱蒼とした木などまるでそこには生えていないかのように、まっすぐに使者が駆けてくる。
「……シキだ」
セレイヴが声を上げる。
リディアは馬の速度を精一杯上げる。
セレイヴの手が震える。
「……マティアスたちは?」
声も、涙を含み、震えていた。
リディアは歯を食いしばり、手綱操作にだけ集中した。
ヴァルガ族の矢がシキを狙って雨のように放たれるが、一つとして彼の体を射ることはない。
セレイヴは振り返った。
いくつも重なる葉擦れの音。
ヴァルガ族たちの鋭い気配。
むっと匂うような闇。
その中で、浮かび上がるような白い姿は、あまりにも異様だった。
執拗に追ってくる、使者。
対抗手段は何もない。
――彼らが追っているのは、自分ただ一人。
瞳を伏せ、奥歯を噛む。
呼吸を深く一つ落とした。
「リディア。愛してるよ」
「……え?」
セレイヴは強くリディアを背から抱きしめ、そのうなじに短くキスをした。
そして、大きく息を吸った。
「ヴェスナ!!」
樹上の葉が揺れる。
「ここだよ!」
「彼女を守って! 絶対に!」
木が揺れ、ヴェスナが地面に着地する。
セレイヴはリディアの体を強く抱くようにすると、ヴェスナの方へ、
――リディアの体を投げた。
リディアの悲鳴があがる。
ヴェスナとヴァルガ族の男たちはリディアを受け止める。
セレイヴは外套のフードを払って、
リディアの方を一度だけ見た。
甘い、微笑み。
そして、背を向け、馬を駆けさせる。
木々の間を。
闇の森を。
「セレイヴ!!」
暴れるリディアをヴェスナが羽交い締めにした。
「セレイヴ!! いや!! 行かないで!!」
「落ち着きな! 信じてやれ!」
リディアが背後のヴェスナを一度だけ振り返った。若葉色の瞳に涙がたまる。
「いや! いやだ!! セレイヴ!!」
涙が頬に落ちる。
ヴェスナが彼女を胸に強く抱き込むようにした。
リディアの泣き叫ぶ声が、森に響く。




